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福島県・会津若松城|政宗の居城黒川城は秀吉の奥羽仕置で改修された

会津若松城について

もともと黒川城と呼ばれていた城。天正18(1590)年、蒲生氏郷が、伊勢松坂より入封し、東北地域における豊臣政権の拠点として改修、会津若松城と改称されました。

金箔瓦の葺かれた七重の天守が造営され、奥羽における重要な城であったと言います。その後、上杉景勝・蒲生秀行、加藤嘉明、明成など、めまぐるしく城主が替わったのち、寛永20(1643)年、保科正之が入城して、以後、保科(松平)11代の居城となりました。

ここは戊辰戦争で激しい攻防戦が繰り広げられたことでも知られていますが、その後明治7(1874)年に廃城になり、解体、破却されてしまいます。会津の方々にとっては、まだ140年だというのが実感だと聞きますが、ここに立つと、城を愛し、城とともにある土地の人たちの思いも感じて、感慨深いものがあります。

お城は昭和40(1965)年になって天守と走長屋が外観復元され、さらに近年、南走長屋、干飯櫓も復元されています。そして、平成23(2011)年3月には、黒瓦を赤瓦葺にする復元工事が終了。

伊達家と会津若松城

福島県でも会津地方は大変に広い。中世では蘆名氏が会津守護職という一国に州当する行政・軍事警察権力を有していた。蘆名氏は盛氏の代に戦国大名として伊達輝宗(政宗の父)と並び奥羽を代表する軍事勢力を形成。

軍略での本拠は向羽黒岩崎城に置き、守護所としての在地支配の拠点を若松城になる前の黒川舘に置いた。黒川舘の詰の城が向羽黒岩崎城であったともいえる。会津に君臨した蘆名氏は義広の代に伊達政宗によって滅亡。

政宗は奥羽最大の領国を形成し、その本拠を黒川城として堅川に改築する。政宗による会津侵攻は関白豊臣秀吉の惣無令に逆反することから、同じく惣猟事令に違反し真田領を侵した北条氏政・氏、父子と共に、征伐軍が派兵されることとなった。

周知のとおり、天正十八年の小田原城攻めと、それに続く秀吉の奥羽仕置である。秀吉は黒川城に入り陸奥・出羽両国の豊臣政権の基本政策である太閤検地令の奉行を命じ、会津の新領主を政宗にかわり蒲生氏郷とした。氏郷は会津百万石を領することとなり、黒川城を大改修、完成した城郭を若松城と命名した。


女の嫉妬、男の嫉妬
源平時代に三浦半島の佐原(今久里浜に属す)に佐原義連という勇士がいた。三浦氏の一族である。源氏の家人として、「平家物語」や「源平盛衰記」にもその名が出ていて、源氏のために忠勤をぬきんでているが、この義連が、源頼朝が奥州平泉の藤原氏をほろぼした時、功によって会津四郡をもらった。

義連の子盛運は三浦半島の芦名にいたので、声名ノ盛連といわれていた。盛連は会津四郡を六人の子供らに分配した。この六人がそれぞれ猪苗代。会津・佐原・藤倉・北田・芦名等の諸氏の祖となった。会津芦名家の祖となったのは四男の光盛である。

この当時までは領地をもらったと言っても、本拠は鎌倉やその附近にあって、領地には一族や郎党を支配人としてつかわすのが普通であったが、芦名家もそうであった。

鎌倉時代の末期、光守4世の子孫直盛の時、鎌倉を引き上げてここに移り、黒川郷小田垣山に築城し、八角の社を改築して亀の宮とし、これを鎮護神とし、城の名を鶴ケ城とつけた。これが会津城のはじまりで、以後連綿伝えて、芦名家の居城として、戦国時代におよんだ。

会津若松城(福島県会津若松市追手町)〉
別名 鶴ケ城 
所在地 会津若松市 
種類 平山城 
築城者 蒲生氏郷 
築城年 文禄元年(1592)
歴代城主 蒲生氏 上杉氏 加藤氏 保科氏 松平氏九代 
石高 松平氏二十八万石 
遺構 本九 二の丸 復興天守閣 天守台 石垣 堀



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