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岡山県・備中松山城|現存12天守中唯一の山城

備中松山城(岡山県高梁市内山下1)

備中松山城について
備中松山城
国重要文化財 天守、本丸、二重櫓、土塀
別名 高梁城(たかはしじょう)、小松山城(こまつやまじょう)
分類 山城
築城年 慶長11(1606)年
築城主 小堀政一
主な城主 小堀氏、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏など
岡山県高梁市内山下1

標高430メートルの臥牛山頂上付近に建つ天守は、現存12天守中唯一の山城です。戦国期以来続く城郭ですが、関ヶ原合戦後、備中代官が置かれて小堀正次、政一父子が赴任。

ここから近世城郭化が進められ、天川3(1683)年、水谷勝宗によって3年がかりで改修され今の天守になったと言われています。ふもとの高梁の町から急坂の自然遊歩道を登っていくと、天守までは40分くらい。

高さ10メートル以上の切り立った岩壁がそびえて、途中には「野猿に注意」などという看板も出ているような、なかなか厳しい道ではありますが、それだけに天守に到達したときの気持ちよさもまた格別です。 平成6(1994)年からは、五の平櫓、六の平櫓、土塀なども復元されました。


藩のお取りつぶし
こんな急峻な山城でありながらも、この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要所であったためか、歴史上の人物が関わったことでも知られています。

自然遊歩道の途中には、『忠臣蔵』で有名な、播磨赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助が、元禄7(1694)年、この城を訪れた際に腰掛けたという「大石内蔵助腰掛石」も残されています。

備中松山藩に跡取りがなく、藩がお取りつぶしとなったときに、赤穂藩藩主の代役として内蔵助が城受け取りのためにこの城を訪れたと言われているのです。ところが、その7年後の元禄14(1701)年には、その赤穂藩自身がお取りつぶしになり、内蔵助は、今度は城を明け渡す役を言いつかります。

皮肉なようですが、このとき、備中松山藩での経験があったために、彼はその任 務を整然と行えたのだということです。

お城もさることながら、ここはふもとの城下町である高梁の町も素晴らしいのです。江戸時代と変わらない武家屋敷の土塀などを残した町並は、いつ来てもいいものだなあと思います。

備中代官として、この城の近世城郭化に貢献した小堀政一は、茶人・小堀遠州としても知られる人物。豊臣秀吉の弟・秀長は千利休に師事したことで知られていますが、秀長の小姓であった政一は、そんなことから秀吉への給仕を務め、利休にも出会い、後に秀吉直参となって移った伏見で古川織部に茶道を学んだと言われています。彼の流れは今も遠州流として受け継がれています。



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