戦国時代の文書の出し方で武将の地位がひと目でわかってしまう

「印判状」という戦国大名分析の新しい視点

さて、「戦国の革命児」とも称される信長が、その称号にふさわしい戦国武将として、ひと皮むけたのはいつなのか? そのことを知るために、まずは次のふたつの専門用語を覚えていただきたい。

1、はんもつ【判物】…戦国時代の武家文書の一様式で、花押(サイン)が書かれた文書のこと
2、いんぱんじょう【印判状】…戦国時代の武家文書の一様式で、花押の代わりに印章(ハンコ)がおされた文章のこと

ごらんのとおり、どちらも戦国時代の文書の様式である。歴史的にみると、戦国大名たちの発給文書は、判物から印判状へと徐々に移行してゆくのだが、実は、このふたつの様式の間には、たんに「サインか、ハンコか」という違い以上の、大きな隔たりがあったのである。

まず、単純に考えれば、文書の一つ一つに花押を書くのと、印章をペタペタやるのとでは、どっちが楽か? 当然、印章のほうが楽である。なので、判物よりも印判状のほうが、大量の文書を発給するのに向いている、といえる。 ところが、楽をしたということは、この文書を受け取った側にしてみれば「手を抜かれた」ということである。つまり、判物よりも、印判状のほうが受け手に対して「失礼な」様式なのだ。

ここで捕足をするが、戦国大名はみんな、自分の治める領国だからといって、絶対的な権力を握って威張っていたわけではない。むしろ、ほとんどの大名は、自分の領国でさえ、気をつかわなければいけない相手ばかりだったのである。

例えば領内の寺社勢力。彼らは朝廷や幕府という戦国大名を超越した正当な権力に公認された存在である。だから、その土地の大名だからといって、下手に干渉することができない相手だった。

寺社勢力には気をつかったとしても、自分の家臣たちになら威張れたのではないか? そう思ったら、こちらもそうではない。というのも、彼ら家臣は、部下とはいっても領地や兵力、なかには城まで持っている者もいたし、いってみれば自分(大名)と似たような立ち場の存在である。だから、多くの大名たちは、彼らが自分から離れないようにと、いつも顔色をうかがわなければならなかったのだ。

印判状に話を戻すと、ふつう、そんな遠慮のある相手に「失礼な文書」など出したら、相手を怒らせかねないだろう。にもかかわらず、おかまいなしに「印判状=失礼な文書」を出しているということは、何を意味しているのか?

それは、つまりこういうことなのだ。 印判状を出せるということは、それくらい相手との地位に大きな違いがあった、ということなのである。もちろん、それは「戦国大名の立ち場がずっと強かった」という意味で、である。

ということは、印判状はどれだけ大名の権力が強かったのか、そのことを後世の私たちに教えてくれる重要な手がかりになる、ということだ。



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