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2人の築城名手の違った歴史の面白さに迫る

築城の名手・加藤清正は『石垣名人』

肥後国熊本藩初代藩主の加藤清正(1562~1611)は、母が秀吉の母である大政所の従姉妹であったため、幼い頃から秀吉に仕え、生涯忠義を尽くしたと言います。

天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の1人として3000石の所領を与えられ、同13(1585)年には、秀吉の関白就任とともに従五位下・主計頭に叙任。そして、同16(1588)年に、肥後北半国4万5000石を与えられ、熊本城を居城とします。

彼が築城に関わったのはその頃からだったとされていますが、最も得意としたのが、石垣構築です。清正流とも呼ばれるそれは、非常にゆるやかな勾配で登り始め、頂上が近くなるにつれて角度が急になり、最後は反るという形のもの。「扇の勾配」とも呼ばれますが、実に美しい石垣です。

秀吉は大坂城における清正の築城技術の高さを買って、朝鮮出兵の本営である肥前名護屋城の築城奉行を命じます。また、朝鮮半島では西生浦城を築かせました。

そして、その築城技術が結集されたのが名城・熊本城です。曲輪ごとに三重櫓や五重櫓など大きな重層櫓が設けられるなど、中心部に、過剰とも思えるほどの複雑な構造と厳重さを持った城を築きました。


天下普請の築城担当・城郭の規格化を完成させた藤堂高虎
清正と並んで築城の名手と謡われているのが、藤堂高虎(1556~1630)です。

近江国の土豪、藤堂虎高の次男として誕生した高虎は、羽柴秀吉の弟・秀長に仕え、賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、紀州一揆を鎮圧して1万石に加増され代官になります。

そしてこの頃から築城に関わるようになり、天正14(1586)年には、徳川家康上洛の接待の場として造営されることになった聚楽屋敷の普請奉行に任命され、これを機に家康に見込まれ、後に幕府の天下普請を一手に担うことになるのです。

その特徴は、単純に直角と直線を活かしたもの。短期間で工事を完成させることに主眼を置いて、見た目のよさや装飾の無駄をできる限りそぎ落とし、城郭建設の規格化を目指したのでした。天守が望楼型から層塔型へと変わっていったのもそのひとつ。

この工法で、彼は、宇和島城、大洲城、膳所城、伏見城、二条城、彦根城、津城、伊賀上野城など、徳川幕府の総普請方とも呼べる地位を得て、生涯17もの築城に携わったのです。

清正は豊臣秀頼を迎える御殿を熊本城に造ったといいますが、高虎はその豊臣家を滅ぼしたい家康の前線基地である城を築き続けた。2人の城名人の相反する思いに歴史の面白さを感じます。

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