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中国・四国の城 一覧表|日本全国お城情報

中国・四国 城リスト

鳥取城(鳥取県鳥取市久松山)
鳥取城は徳川幕府の信任が厚い池田光政(徳川家廉の女婿池川脚政の孫)が元和3年(1617)に入城した本格的な山城である。近世大名が山城を戦国期から引き続き用いるのはきわめて珍しいといえる。

光政は32万石を領し、寛永9年(1632)には従兄弟の光仲がいる岡山城に入り、鳥取城には光仲が入った。以来明治を迎えるまで、鳥取城と岡山城は池田家の居城であり続けた。池田輝政は鎮西将軍を名乗ったように、豊臣恩顧大名のいる西国への徳川方の軍略拠点を担った。

その子孫もまた同様に山陰と山陽双方で、西阿外様雄藩を睨んでいたのだ。鳥取城といえば、羽柴秀吉が毛利氏の将兵が楯籠る当城を干殺し戦法で落城させた史話で有名だ。当時の鳥取城は標高264メートルの久松山山頂から中腹にあった山城で、秀吉は城の南側太閤ヶ平に本陣を構え、兵糧攻めを行った。

松江城(島根県松江市殿町)
宍道湖を望み、日本三湖城のひとつである松江城は、四季の自然に映える名城として訪れる人を魅了する。

織田信長から普請上手と評された堀川吉晴が、自ら陣頭指揮を執って築城したというこの城には、実戦を想定した仕掛けが随所に施されている。城攻めに備えて屈曲させた石垣、「太閣記」作者の小瀬甫庵らと鉄砲戦を勘案して作った階段式城郭などの機能美は必見だ。

また外観は、華美ではないが格式高い「佗びた」風情がみどころ。柿渋を建った黒い壁面、千鳥が羽を広げたような美しい形の入母屋破風、重厚な望楼式天守、本製だが最大の鱗鉾… 城と城下の美しさから、この地を中国の景勝地と同じ「松江」と名付けたという説もあるほどだ。

そんな歴史に想いを馳せ、天守を上がればそこに広がるのは大山と宍道湖、日本海を見渡せる360度パノラマビュー。絶景が待っている。

松江城もここ数年間で大きく変わった。二の丸の南櫓、中櫓、太鼓櫓が、埋門、中仕切門と共に土塀を伴って復元されている。この復元は取り壊し以前の明治初年の古写真と発掘調査の結果に基づきなされた。島根県庁のある三の丸方から松江城を望むと、廃城前の壮宏な姿の一端がしのばれる。

松江城といえば、やはり天守建築が代表的だ。城址には、標高29メートルの亀田山に戦国武将堀尾吉晴が慶長15年(1610)に築いたその天守が残る。地元で千鳥城と呼ぶこの天守建築は、同じ烏でも白鷺城(姫路城)の眩い絢燗さに比べて、黒い壁面が下川を覆い、どっしりとして動ぜざるように破風が広がる。

この天守を見た人は一様に、重厚さの中に秘められた戦国武将の知恵に圧倒される。天守も実際より大きく堂々と見える。これは二階妻側にある大きな入母屋破風と二階の出張った壁面にある。大きな入母屋二階づくりの屋根上に三階部分がのっているが、二階が一階より大きく出張っているのは、この部分が「石落」と呼ぶ攻撃用のつくりになっているため。
天守石垣にとりついた敵兵を、この二階出張りから石や矢で追い落とす仕組みだ。さらに、地階に塩貯蔵庫を設け、火災予防のため床を瓦敷きにし、深さ24メートルの井戸を掘っていることでも判るように、籠城戦に備えた様々な工夫がこらされている。一階には人質たちを収容する部屋、四階西側には城主専用の剛もある。


津山城(岡山県津山市山下)
津山城もまた平成17年(2005)に築城四百年を迎え、これを記念して、備中櫓が復元された。

この備中櫓の内部は純然たる書院造で、仕上げも櫓建築特有の納戸造ではなく、数寄屋書院を一部に取り込む、本格的な造営である。旧状を伝える指図のとおり今回復元したのである。一階に本格的書院と茶処があるほか、二階には格天井の上段間があって、みごとな意匠を呈する。

今に残るみごとな高石垣は、特筆される城郭技術として国の史跡に指定されている。津山城の石垣は実に美しく、また壮大、繊密。ことに本丸月見櫓周辺の石塁は10メートル余もあって、日本一の高さだ。この城は18万石の美作国太守として慶長8年に入部した森忠政が元和2年に築いた。



備中松山城(岡山県高梁市山下)
吉備地方を中国山地に向かうと高梁川に沿って高梁盆地がある。小さな盆地である瓦葺きの民家や寺社が川筋に続き、城下町独特の佇まいである。城は川と谷間を一望にする臥牛山(海抜431メートル)に築かれた。

平成15年(2003)、備中松山城の景観は大きく変わった。本丸のすべての櫓と門、塀が本丸石垣上にびっしりと復元されたのである。城郭ファンもここまで復元されるとは思っていなかった事業で、備中松山城の人気は益々高まった。

山頂に天守が残る。二層二階で入川の付櫓を含めると内部は三階づくり。天守建築としてはあまりに低い。これは山城山頂にある天守だからだ。天守建築の展望能力、司令本部の主目的からいって、山城であれば三層や五層の高層建築は必要がなかった。当城は江戸時代では珍しい山城として知られるが、同じ近世の山城だった鳥取城、笠間城と共に数少ない二層天守であった。

備中松山城を舞台にした戦の中で、最も血を多く流した戦であるとされる「備中兵乱」。この戦は備中松山城城主・三村元親の一族への義を貫いた戦いでもあった。

永禄9年(1566)、元親の父・家親が、備前を支配していた宇喜多氏により暗殺される。元親は父の弔い合戦を仕掛けたが大敗し、一族は衰退。元親の、宇喜多氏への報復の思いはさらに募ることになる。

そんな中、元親はかねてから従っていた毛利氏と宇喜多氏の和睦の事実を知り、多勢に無勢を知りながらも、ついには毛利氏に反旗を翻す。そして備中松山城に籠もった元親は、長期に及ぶ激戦を繰り広げた後に自害する。 こうしてもたらされた、一族の滅亡。

これは悲運などではなく、不義の毛利・宇喜多氏に一矢を報いられるならば死すら本望と、城主・元親があえて選んだ誇り高い結末だったのではないだろうか。

福山城(広島県福山市丸之内)
山陽新幹線で旅をすると、福山城と姫路城の車窓からの眺姿が印象に残る。新幹線ができる前の在来線の時代、黒煙をあげるSL列車の窓から見た、福山駅に被いかぶさるようだった豪壮な白亜の伏見櫓と筋鉄門の景観が、柵川を訪れるたびに思い出される。新幹線は在来線上の高架の駅だから、城が被いかぶさることがなくなったのだ。

JR駅構内は城の二の丸にあたり、駅ホームに接する石垣が本丸である。現存する伏見櫓、筋鉄門のほか、第二次大戦の空襲で焼失した天守などが、コンクリート製で外観復元されている。この一連の再築建築群が、新幹線ホームと新幹線の車窓からの目の高さ、視線とちょうどよい位置にあり、旅の途上に福山城の威容がまさに一望できるのだ。

城は、元和8年(1622)から水野勝成により築かれた。築城にあたり幕府は1万2600両の金、380賀目の銀を下賜、さらに城大工棟梁福井正次、渡辺吉次をはじめ、大鋸引、細工などの職人を福山に赴かせた。福山築城が幕府の大きな戦略の一端を担っていたからだ。

広島城(広島県広島市中区基町)
広島城は太田川河川のデルタに築かれた平城だ。その規模は城下町をも濠で囲む南北約3.2キロ、東西約2キロに及び、南限は平和大通り辺りだった。広島湾の港と直粘し、満潮時には濠に海水が逆流する海城的な構えであった。

広島城の東南東約1.5キロに、標高約70メートルの比治山がある。「正保城絵図」右下に柵かれる丘だ。地誌「知新集」によると、毛利元就の時代には比治山の西と南を海水が洗い、西北は京橋川河口であった。

元就は、比治山に新たな本拠を築こうとしたという。しかし理由は詳らかでないが、城地を五ヶ村のデルタに変更した。比治山には千畳敷という川上広場があり、当時の遺構と伝える。「日御碕神社文書」によると、比治山築城は毛利輝元の側近佐世氏が指示しており、元就ではなく輝元時代の事積であったろう。

広島築城は天正17年(1589)3月頃より始まり、同19年に輝元は入城した。築城は島普請ともいい、デルタの埋立てと濠の竣深に力が注がれた。有力な大名輝元の築城にあたり、秀吉は黒田如水に助言役を命じたという。

竣工した城は、聚楽城によく似た形であった。この時点での輝元の築城目的は、自らの本拠地ではなく、秀吉の朝鮮出兵の宿城づくりであったろう。肥前名灌屋へ赴く秀吉は、文禄元年に広島城に入り、滞在。当時の広島城は今の規模ではなく、単郭が基本の縄張で、秀吉好みのきらびやかさであったようだ。発掘で金箔瓦も見つかっている。

岩国城(山口県岩国市横山)
岩国といえば錦帯橋で知られる。この錦帯橋は、岩国城惣構の大手口に架けられた橋である。今も橋を渡ると、大変落ち着いた佇まいの武家屋敷街が残る。岩国城は錦帯橋からは枇山という小高い川の上に天守が望まれ、その位置を確認できる。山城であって、しかもすこぶる険峻な山にある城郭だった。

この堅固な山城は城主吉川家により自主的に破却され、吉川家は麓香神社となっている土居に陣屋をつくり移った。吉川氏は小早川氏(三原城主)と共に毛利両川(吉川と小早川)を形づくる家で、主家毛利氏を支える位置にあった。

関ヶ原合戦では毛利輝元が両軍の総大将でありながら、吉川広家は徳川家康に通じ、小早川秀秋は形勢不利とみて戦場で寝返り、徳川方を勝利に導いた。主家毛利氏が近世大名として残ったのは両川の支えがあったからだ。

萩城(山口県萩市堀内)
日本海に突出する形でそびえる萩の指月川が萩城の戦略的な中心だ。この城は、中心部の指月山山頂に天守はなく、麓に本丸という区画をつくり五層の天守をあげた。この天守は多くの古写真でその雄姿をしのぶことができる。

すなわち萩城は、山城である指月山を一朝事ある時の詰の城とし、山上と中腹に二重櫓を並び建てた。本丸は居舘で、ここに五層五階の天守を構えた。白亜総塗込めで、初層は石垣より大きい平面であり、石垣から出張った部分が石落となるつくりであった。二層目に大入母屋を配し、最上階は高柵と姻縁のある望楼であった。天守をはじめ建物は文久3年(1863)から取り壊され、今は石垣のみが残る。

徳島城(徳島県徳島市徳島町城内)
JR徳島駅の構内に隣接していのやまと呼ぶ丘がある。徳島城本丸跡で標高61.9メートルの丘だ。普通、山上や丘の頂に天守をあげるが、徳島城の場合はいのやま山頂でなく、中腹部と三の丸大手、脇に二つの天守建築が構えられた。いのやま中腹の東二の丸の天守は大入母屋を初居に構えた三層づくり。

大子、脇のもう一つの天守建築は太鼓榊と呼ばれ、三層四階で最上階には廻縁と高欄が望楼を形づくっていた。この二つの天守建築のほか、大手の太鼓梢の反対側(東側)にも二層三階で望楼の廻縁高欄がのる月見櫓が構えられていた。いの山山頂に登ると、みごとな石垣が本丸を囲んでいる。

この石垣は野面減みで、見るからに力強く組まれている。石材は阿波から紀伊水道にかけて産出される緑泥片岩と呼ばれる通称「青石」である。石垣の積石は大きく、本丸西側から西二の丸にかけての石垣は高石垣となっている。

高松城(香川県高松市玉藻町玉藻公園)
本四架橋ができるまでは宇高連絡船で山国に入った。高松港が近づくと、純白の着見櫓(月見櫓とも記すが、船の到着を監視する櫓なので着見櫓が正しい)が瀬戸内海に映え、連絡船は高松城の二の丸前に接岸した。

今ではフェリー専用港がこの着見櫓のすぐ前にあり、桟橋には二層の模擬櫓が建っている。この模擬櫓は、城下の時の鐘を移し、吊るして展示しているものだ。着見櫓は、実に浦酒な外容をしている。着見櫓に隣接して水の手門があり、着見櫓からこの水の手門にかけて水濠がある。この水濠はかつての玉もの浦の一部で、玉藻とは高松城の別名「玉藻城」に用いられる高松の海を表現する枕言葉でもある。

丸亀城(香川県丸亀市一番丁亀山公園)
丸亀城は標高66メートルの亀山に、三段から四段に積み重ねた石垣が圧力ある景観をつくる。正面の大手桝形虎口から午後に旭山を眺めると(午前中は逆光)、亀山山頂の天守が高石垣上に瀬戸内を睥睨する形で堂々とあがる。

一方、逆に搦手方向の南から亀山を望むと、高石畑が幾重にも複雑に入り組み、防御の周到さが感じられる。いずれにせよ丸亀城は、この高石垣の美しさで訪れる人を魅了してやまない。高石垣の大手側の三段の総高(段々の合計高)は、37メートルに及び、総高では日本一である。

海抜66mの亀山を利用して築かれた丸亀城は、内堀から天守へ向かって幾層にもなる石垣の見事さで名高く、この石垣が日本一小規模な現存天守を雄大に見せている。 特に、二の九の石垣は日本一の技術で積まれ、頂へ向かって美しく反り、扇を開いたようなフォルムから「扇の勾配」と言われている。

石垣を手がけたのは石工の名人・羽坂重三郎。ある日、城主は、石垣のでき栄えを見て「これを乗り越えられるのは鳥しかいまい」と讃えた。

その言葉を聞いて有頂人になった重二郎は「私なら」と鉄棒を使って石垣に登ったという。石垣を乗り越えてしまった重二郎が敵に通じるのを恐れた親正は、彼を二の丸井戸に入れ、上から石を落として殺したという伝説が残っている。 こうしたエピソードを残すほどに高く、見事に積まれた石垣は、現在も天守とともに丸亀の街を見守っている。

宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)
宇和島城天守は、実に整った、最も天守建築意匠の洗練され尽された外容といえる。三層三階のこの天守は、伊達宗利の代に、藤堂高虎造営の天守の老朽化に伴い、新たにあげられた建築だ。

妻側初眉には千鳥、二層目には置厭破風、三層目は入母屋、平側本丸内側には、一階に巨大な膚破瓜の玄関を有し、初層には比翼千鳥破風、二層目に千鳥破風、三層目には二層目の千鳥破風を受ける形で唐破風が据えられる。

なんとも均整がとれ、かつ天守建築らしい威風と華やかさにあふれる姿だ。とりわけ、大きな玄関が付すのは、泰平の元和値武の時代に建てられたことを物語る。


今治城(愛媛県今治市通町)
今治城は吹揚浜に築かれた本格的な海城である。幅広い水濠は瀬戸内海の延長であり、濠と海の接点には、軍港であり商業港でもあった船人が設けられていた。

今治は瀬戸内海交通の要の一つだ。九州方面から関門海峡と豊後水道を航行する船は今治の北で激しい潮流に巻き込まれる。

伊予灘から獺戸内海に入るところで高繩半島が北に大きく出張り、広島県三原から竹原側の中間には大三島、因島、大島が浮かぶいわゆる来島海峡だ。ここで船を操るには水夫の存在が不可欠である。潮流に乗る技術を修僻していない者が操ると、船は真っ二つに折れてしまう。この水先案内人である水夫を束ねたのが三島村上水軍であった。


松山城(愛媛県松山市丸之内)
松山城は姫路城、和歌山城と共に「日本三平山城」に数えられる。近世城郭で最も美しく映える城、堅固な城構の城として姫路・和歌山に並ぶもの、というわけだ。城は標高132メートルの勝山の山頂部にある本丸、南中腹部の二の丸、麓の三の丸という三区画からなる。

松山城へはロープウェーで登って天守にあがり、雄大な景観を楽しむのが一般的なコースで、これは本丸の見学コースである。ところが最近、松山城見学を楽しむ方法が大きく変わった。ロープウェー乗り場と反対側の二の丸を訪れ、二の丸御殿から松山城の景観を楽しむ人が増えているのである。

大洲城(愛媛県大洲市大洲)
平成16年(2004)9月、大洲城に、古式の技法によって再築された木造天守が竣工した。この復元天守は、四層四階づくりで、高柵櫓と台所櫓を多聞櫓で結んだ複合連結式天守である。現存する高欄櫓と台所櫓は小天守にあたる。

松本城・広島城と同じく小天守二基を多聞櫓でカギの手状に結んでいるわけだが、高欄櫓は、廻縁を伴いからはふが飾られる本格的な天守づくりである。台所櫓は、籠城時に本丸と天守に楯籠る城主とその一族、将兵たちの兵根を賄う調理場となる建物である。

復元にあたっては、取り壊し以前の天守の姿を撮影した古写真が数葉あり、また城主の未商加藤家に多くの図があり、藩の作事方棟梁中野家には天守の木組みが判る天守雛型模型があった。その上、発掘調査を実施、天守の土台、雨落、柱位置などを確認している。したがって今般の大守復元は、完璧に近いといえよう。


安芸城(高知県安芸市土居)
安芸城と表記したが、安芸城という城はなく、正式には「安芸土居」である。土居とは士居構のことで、山内氏の土佐一国支配の地方の政治拠点をいう。江戸時代を通して「元和一国一城令」及び「武家諸法度」により、幕府は大名の領国ごとに一城の存在を認め、一城以外の城はすべて破却対象とした。

しかし、伊達氏領国、島津氏領国、山内氏領国は、特例として、城と呼んではならない城づくりの支城の存在を認めた。伊達氏領国内の要害、島津氏領国内の麓、山内氏領国内の土居である。

伊達氏領国では豊臣政惟に大反乱を起した葛西・大崎一摸と九戸政実の乱の再発防止のため二十一要害が、品津氏領国では薩摩・大隅・日向と南方離島群支配のため百十余の麓(外城)が、土佐では長宗我部の旧臣たちを押さえるため、高知城の実質的な支城として、ここ安芸土居と窪川、本川、宿毛佐川、中村の五カ所、計六カ所の土居が認められた。

安芸土居は慶長6年(1601)、土佐に入国した山内一豊の家老五藤為重によって描えられた。為重は安芸を中心に千百石の知行を領していた。この五藤氏の子孫が土居の居舘主として明治へ続いた。



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