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東京都・江戸城|江戸を開くことができた家康は秀吉の助言があったから

江戸城

主に今日の東京都千代田区、すなわち東から万世橋、御茶の水、牛込、市ヶ谷、四ツ谷、赤坂見附、虎ノ門、新橋を結ぶライン(赤坂までは水濠)と、神田橋、八重洲、有楽町を結ぶ外堀通りに囲まれた範囲が、寛永15年(1638)頃の、将軍徳川家光によって一応完成された江戸城の範囲である。

その後江戸城は、芝口門が成立して、浜御殿、品川沖台場が成立、江戸城としての城郭は、中央区の大半と品川区の一部をも含む範囲となる。

明暦の大火(明暦3年)以降、江戸の範囲(武家地と町場である城下町に相当する都市)は拡大、江戸城外濠内にあった大名屋敷は、拡散して、内・中・外の各屋敷地となり、中・外屋敷には防火池を兼ねた池泉庭である大名庭園が営まれたのである。
江戸城は、その機能、管理システムから、大きく内城域、中城域、外城域に分けられる。

内城域は、本丸のある丘で今の一帯の「千代田城」とか「御城」と呼ぶ一帯と、西の丸の丘上の、宮殿が建つ西の丸と西側の的場曲輪及び紅葉山からなる「西御丸」「御影城と呼ぶ丘からなる。すなわち内城に二つの頂きをもつ。

天守は、室町時代に太田道灌が天守建築に相当する建物として静勝軒を現存する富士見櫓の位置にあげた。その後、慶長12年(1607)に徳川家康が本丸中央部に鉛瓦と白亜総塗込めの純白な五層天守をあげ、二代将軍秀忠は元和8年(1622)、本丸中央の五層天守を本丸北側に移して新たに造営。


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江戸城が原形を太田道灌によってつくられたことは誰も知っている。永亨記と「鎌倉大草紙」によれば、康正3年(1456)に起工して、翌長禄元年4月竣工したという。これは今の本丸、三の丸、西の丸のあたりで、これを、中城。子城・と呼んでいたという。もちろん、後世の城とは似もつかぬものであったらしい。

芝を植えた土居をかきあげ、濠をめぐらしてはいたが、中には空濠というから、粗末なさまがほぼ想像がつこう。資力から言っても、築城技術から言っても、当時は幼稚なものだったのだ。これが今からほぼ500年くらい前だ。

城中からの眺望は実によかったらしい。当時この地は今の丸の内あたりで、波打際で、東に筑波が見え、西に富士が見えたというのだから、今日の雑駁な東京からは想像もつかない。

道灌が京都に上った時、時の天皇から、そちの居城はどんなところだ、とご下間にあずかり、和歌をもってお答えしたのが、わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るであると伝える。

道灌はここに居城すること20年、主人の扇谷上杉定正にその権勢と才能を忌まれて、暗殺され、江戸城は扇谷上杉家の有に帰したが、38年後に小田原北条氏に奪われた。北条氏は被官(家臣)である富永・遠山。大田等の諸氏に守らせていたが、66年目に豊臣秀吉の小田原攻めがあった。

この頃、江戸城は遠山氏が居住していたが、上方勢にこれをあけわたした。道灌の築城からここに至るまで134年である。この遠山家は入墨奉行遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元の先祖だが、大して所領ある武士ではない。当時の江戸城は道灌の居城当時よりさらにさらに貧弱なものになっていたに相違ない。            
秀吉は北条氏を降伏させて関東を手に入れると、徳川家康を東海道筋からここに転封した。暖古の英雄秀吉が最も恐れたのは家康であった。武力戦で両者が対決したのは小牧・長久手の合戦であるが、秀吉は家康に勝つことが出来なかった。

勝負の歩合は家康6分、秀吉4分くらいであった。妹を嫁にやり、母をその見舞いにやるという、二重の人質をつかわして、実に無理な外交戦術でやっと家康を幕下に招致することが出来たのだから、家康にたいしては終生はばかるところがあった。

こんなこわい男を東海道筋の要地におくことは、何としても不安だ。そこで、「関八州をおことに進ぜる」とうまいことを言って、国がえして、関東をとりまく要地である東海道・甲州・会津には皆自分の信頼する大名らをおいて、家康の手も足も出ないようにした。

秀吉のこのたくらみのわからない家康ではないが、家康は効果のない反抗などはしない。いずれ時節もあろうと虫をおさえた。
「過分な領地をたまわり、ありがたき仕合せ」
と、お礼を言上する。

当時、家康は、小田原か鎌倉に居城しようと考えていたところ、秀吉が、「武州に江戸と申すところがある。関東の大平野を背後にひかえ、海に臨み、河口にのぞんでいる。八州の太守の居城をかまえるべき土地としてはここ以外にはござらんぞ。
小田原や鎌倉では将来の発展の余地がない」
といって、江戸をすすめたという話がのこっている。

そうかも知れない。この頃の江戸は奥州街道沿いの一寒駅だ。城といえば貧弱な小城だ。特別に研究でもしたものでないかぎり、目をつけようはずがない。かつて幕府のあった鎌倉、今まで関八州に雄視していた北条氏の本拠のあった小田原を考えるのは最も当然であろう。

しかし、秀吉は関東征伐を計画するについて、関東の地理や経済や交通について前からよほど研究していたにちがいない。家康より見識のすぐれていたのはあたり前であろう。

疑問は、家康を生涯恐れつづけた秀吉が、家康の利益になるようなことをなぜすすめたかという点にあるが、秀吉は案外人のよいところがあり、また、自分の才智を誇示したい性質のある人だ。

この時も、これらの性質に駆られて、家康に教えたのかも知れない。家康は早速それまでの居城であった駿府城をひきはらって、江戸へ移った。

江戸へ入ったのがその年天正18年(1590)8月1日であった。以後、この日八朔は江戸時代を通じて幕府の重要な祝日となった。この国家康および随従の家臣らが白帷子を着て入城したというので、八朔の儀式には大名・旗本みな白帷子を着て登城したのだ。

この儀式が吉原の遊女にも移って、この日には遊女全部が白小袖を着てくる道中をしたという。
陰暦の8月1日は、今日の暦では9月はじめから、年によっては末に近い頃になる。
冷涼な年もあるわけだ。見物に行って、見るからに寒げな遊女らを見て、ふるえ上ってかえって来たという話がよく伝わっている。


家康がこの地にこだわった理由
徳川家に不利な移転

現在の日本の首都である東京=江戸を初めて開いたのは、いうまでもなく徳川家康である。

家康は1590年8月1日、江戸城へ正式に入城した。この8月1日という日は「八朔」と呼ばれ、農村ではじめて収穫を行なう吉日であり、家康につかえる陰陽師が占って、とくにこの日を選んだのだろう。

平安京は794年、桓武天皇によって造営され、同年10月22日、陰陽道でいう「革命」の日に遷都されたが、家康の江戸入りについてもこれと同じ理由に他ならない。

この八朔の日は、「神君」家康が江戸入りをしためでたい日であり、いわば徳川氏の建国記念日のようなものであるから、その後、幕府の重要な祭日の一つに数えられたという。当日、将軍はこの猛暑の時期、白帷子に長袴をつけて、江戸城自書院、大広間に出向。

そこへ御三家以下、旗本、諸役人、それに御用達商人、天領諸都市の町人代表にいたるまでことごとく参集し、八朔を祝った。大名たちも、この暑い中、むろんすべて白帷子に長袴であったという。

その後、江戸城の風習が移ったのか、江戸最大の歓楽街・吉原でも、八朔には白装束の「おいらん道中」が行なわれ、白小袖のおいらんが廓町を練り歩いたという。

ところで、家康の領地が関東となったのは、その頃まだ関白職にあった、豊臣秀吉の策略の結果であったともいわれる。つまり、秀吉は太田道灌以降、全くの田舎町と化していた関八州(関東全域)を家康に与え、それと引きかえに家康が長年所領として管理してきた駿河・遠江(現静岡県)、三河(現愛知県)、甲斐(現山梨県)、信濃(現長野県)の五箇所を取り上げたのである。

めいもく上は、最後まで秀吉に抵抗していた小田原の後北条氏を滅ぼしたことに対する恩賞として、後北条氏の領地を与えるということではあった。しかし、実際には、家康と長年信頼関係を結んできた武士から切り離し、かわりに、家康に滅ぼされた後北条氏と縁の深い関東を与えることで、家康の弱体化をはかろうとしていたのだと『徳川実紀』その他にはっきりと記されているのである。

その証拠に、つづく諸大名の城には、次のような秀吉子飼いの武将が入っていた。
駿府城は中村一氏、掛川城は山内一豊、浜松城は堀尾吉晴、吉田城は池田輝政、岡崎城は田中吉政、そして、尾張から伊勢にかけてが、秀吉の甥・豊臣秀次。これは、徳川方に寝返る可能性の少ない、秀吉が信頼する大名を並べた、いわば家康封じの布陣であったとみられる。

もし家康が天下に野心を抱いて、京都へ上ってくる場合、これらの城々をすべて攻め滅ぼしてからでなければならないのである。

もちろん、徳川の重臣らは、こぞってこの領地換えに反対したようである。しかし、明らかに徳川家に不利な関東への移転について、家康はむしろこれを喜んだという。

いっぱう、『岩渕夜話別集』によると、城を領地のどこに置くかについても、家臣の7、8割は小田原、2、3割は鎌倉にするべきであると考えていたという。しかし、家康はそれらの意見をすべて無視して、江戸に決定してしまったのである。




江戸城(東京都千代田区ほか)
別名 千代田城 
所在地 東京都千代田区 
種類 平城 
築城者 太田道灌 徳川家康 
築城年 長禄元年(1457) 文禄2寛永年間(徳川氏)
歴代城主 上杉氏 北条氏 徳川氏 現在は天皇家
遺構 本九 二の九 二の丸 西の丸 櫓門 堀


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