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江戸城本丸御殿の基本的な構造は表御殿、中奥、大奥の3つの構造

壮大な構想が動き出した江戸城創成期

関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603)、征夷大将軍として正式に江戸幕府を開いた家康は、いよいよ江戸の大築城計画を発表する。

その計画は、徳川幕府が主導権をとりながら全国の大名家を総動員して江戸城とその城下町請工事を担わせるという、空前絶後の天下普請だった。

江戸城垣を築く土木工事、豊臣家恩顧の加藤清正など、外様大名たちに命じられた。各大名家は伊豆の採石場から石を運ぶ船の手配だけで2年も費やした。

また建築用の木材は、利根川上流などの山岳地帯から切り出された。なかでも良質の桧の産地だった木曽川流域は、伊勢湾まで川下りの方法で木材を運搬した。巨木の運搬はときに石よりも困難で、数千人もの人夫らが動員されたうえ、伊勢湾から江戸湾まで、伐採から1年もかかって、運ばれたという。

こうした、江戸城築城は「天下普請」として前例のない規模で行われ、江戸は家康の野望を実現する城下町として、発展していくことになる。

ところが家康本人は、江戸城の天下普請が本格化する慶長10年(1605)4月には、既に征夷大将軍の座を息子・秀忠に譲り、隠居を決めてしまう。
父から偉業の責任を託された秀忠は2代将軍として、江戸城を将軍居城として完成させるための基本計画を明確化させる。


江戸城とは何か
歴代将軍すべてにおいて継承された御殿造営
江戸城のもっとも中心部・本丸御殿は、家康が入城した当時の不明な時代を除けば、ほぼ2世紀半の問、ほとんどその姿を変えずに守り続けられてきた。

本丸御殿の基本的な構造は、表向(表御殿)、中奥、大奥の3つの構造に分けられている。本丸御殿が最初に完成したのは、慶長11年で、この前年に征夷大将軍となった2代将軍・秀忠が本丸御殿に入ったことになる。この後も引き続き建築された表向には、大広間だけでなく、白書院や黒書院が造られ、この機能もまた、幕末まで位置もほとんど変わらずに維持されている。

大奥が本格的に機能し始めたのは家光の時代の寛永期だが、完成した本丸御殿の図面が現存する最古の本丸御殿図とされ、以降の構造の基本は、このときに完成したものと考えられている。

その後も江戸城は火事による焼失・再建を幾度となく繰り返しているが、安政6年(1859)に焼失し、翌年の万延元年(1860)に再建された最後の本丸御殿に至るまで、大奥の長局以外は目立った増築もなく、基本構造は頑なに継承された。

こうして見ると、細かな部屋割りなどの変更点はあるものの、歴代将軍たちは自分の使い勝手や好みに合わせて大胆に「リフォーム」するようなこともなく、粛々と先祖代々の居城で暮らしていたといえるだろう。

将軍のプライベートエリア中奥
将軍といえども寛ぎたいから、部屋はもっと内側へ中奥は表向と違い、より将軍の日常を支える機能が揃ったエリアだ。しかし実際には中奥にも時折老中が拝謁にやってくるため、それに政務に使われる要素もあった。

なかでも応接間のような「御座之間」は、その最たるもので、もう少しリラックスできる空間を、という位置づけとして、リビング的な「御休息之間」が設けられた。

しかし、ここでも老中から出された書面の読み上げなどが行われたため、「御休息」には程遠い。そしてさらに確保されたのが「御小座敷」だ。狭く、奥へ・中奥内だけでも、より寛げる空間へと将軍は移動していったのだ。

江戸城という広大な居城の主である将軍の生活は、意外に知られていない。
将軍の行動そのものが機密事項だったからだ。

その行動が徐々にわかってきたのはかつての将軍の世話係だった小姓や、大奥女中たちが明治期に入ってから公にした回想録『旧事諮問録』などによるもので、それ以前の時代の将軍の行動は時期やそれぞれの好みによっても違っていたと考えられている。
ここでは、そんなベールに包まれている将軍の暮らしぶりを紐解いていこう。


定時に掃除が始まる!
寝坊厳禁の将軍の目覚め
「モー」。中奥の朝6時、宿直当番の将軍お世話係「小姓」の声が響き渡る。将軍の起床を知らせる慣例だ。大奥と違って、中奥はすべてが男手の世界。交わされる言葉は、必要最低限だったこともあり、「モー将軍はお目覚め」であるという意味なのだ。

この触れ声の前、寝所「御休息之間」には「入れ込み」といって、小姓や納戸が定時の掃除を開始するため、将軍は目覚めざるを得ない。寝坊どころではないのだ。

朝食は御小座敷でとったが、食べながら髪結いをするスタイルだったため、ゆったりとした食事とは言い難かっただろう。

初期の江戸城に出現した大奥
原則として将軍以外は男子禁制の場所だった大奥。
もともとは将軍の御台所やその家族が生活する空間として江戸城本丸御殿内に確保された空間だが、その役割と目的は3代将軍家光の時代に大きく運命づけられた。

そしてこの時代を機に、幕末までの2世紀以上もの間、数々の女たちの運命を翻弄し、政局にすら影響をもたらす存在となっていった。
そんな大奥の、成り立ちからみていこう。


江戸城内のハーレム空間大奥とは何か
将軍に跡取りの実子がいないという事実に側近たちは恐々としていた。時の将軍は3代・家光。正室は、関白・臘司信房の娘、孝子だ。婚儀が行われたのは寛永2年(1625)、縢司家ばかの朧原道長の子孫で、いわば正真正銘のサラブレッドといえる公家の子女を京都から迎えたにもかかわらず、家光はまったく孝子を相手にしなかった。

当時家光より2歳年上で御台所になった孝子と、寝屋を共にすることはなかったといわれるほど、完全無視状態。それもこれも、原因は家光の「衆道」、同性愛だったといわれる。

もっとも、戦国時代の武将にも衆道の愛好者は少なくなかった。しかし家光の場合は側室もいない状態で、まったく女性に興味をもっていなかったのだ。


江戸城ならではの守りの構造
江戸時代は、長い戦乱の世の末に、やっと訪れた太平の世だったが、江戸城には乱世の城さながらの守りの仕掛けも多く残る。


戦国時代の城の櫓は、攻められた際、遠くの敵の様子を見張ったり、高い場所から矢や鉄砲で攻撃するなど、城の防衛の要だった。かつての江戸城にも19基の櫓を備えていたといわれる。

石垣
石垣も戦国時代を通じて、より侵入されにくいように進化してきた。古い石垣は「野面積(のずらづ)み」と呼ばれる、天然の石を加工せずに積んだスタイルで、石の間に隙間が多い。

これを改良したのが、石の角を削って隙間を少なくした「打込(うちこみ)ハギ」と呼ばれる工法。ここからさらに、石を四角く加工してぴったり隙間なく積み上げた「切込(きりこみ)ハギ」という工法へと、技術が進化していった。

天守
天守は、遠くの敵の様子を監視する機能を担った櫓の発展形とされる。明暦の大火(1657)で焼失した天守が再興されなかったのはまさにこのため。平和な江戸の世に敵を見張るための天守は必要ないというわけだ。
かつて天守台からは筑波山まで望めたという。歴代将軍もここからの眺めを楽しんだのだろうか。


江戸城本丸御殿
本丸御殿は表向(表御殿)、中奥、大奥の3つに分けられている。表向は政務を取り仕切る幕府の、いわば公式エリア。

諸大名をはじめ、さまざまな身分、立場の来客が城内にやってきたときに使われる部屋が細かく区分されている。
中奥は将軍の居住エリアで、ここより奥は外部の者は立ち入ることができない。プライベートゾーンだ。

また、大奥は、将軍正室である御台所をはじめ、家族の居住エリアだ。既に紹介したように、ここには側室や将軍家を支える奥女中たちが時代によっては千人以上暮らしていた。


古代中国皇帝の故事を描いた図がトレードマーク
白書院は、大広間に続く江戸城本丸御殿内の重要な空間で上段の間、下段の間、帝鑑の間、連歌の間の4部屋からなる。

上段の間は他の部屋よりも一段床が高く、もっとも格式が高い。反対に連歌の間は他の部屋に比べると寛いだ造りだった。特徴は壁画で、古代中国の皇帝の故事にちなんだ画がダイナミックに描かれていたという。

大名の謁見には主にこの白書院と黒書院が使われ、参勤交代で帰国する際の挨拶に訪れた大名は下段の間の敷居際でひれ伏し、「休息するように」など将軍のねぎらいの言葉を受けた。


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