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江戸城と徳川幕府直轄の橋に選ばれた日本橋の理由

徳川幕府と江戸の町の建設

江戸の町づくりはこうして始まった
徳川家康は、太田道灌によって建てられた既存の江戸城に入城して以来、壮大な町づくりに乗り出した。

まず行われたのは城下周辺の地形に関する調査だった。さまざまな測量が随所で実施され、道や堀が整えられていった。当時の物資運搬の要は堀で、水運によって全国各地から、木材や石などが江戸城をはじめ、中心部まで運び込まれた

また、海岸線を陸地に埋め立て、町人地を確保したが、井戸を掘っても地下水が塩水だったため、生活水の確保のために、神田上水が造られるなど、画期的な方法がとられた。


江戸城と日本橋に隠された意外表関係
「華のお江戸」日本橋からは江戸城が燦然と輝く光景が!
江戸の町づくりが進められるなか、幕府は江戸を中心とした五街道の整備に乗り出す。その起点としたのは日本橋で、現在でも橋にはその起点地を示す「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれている。

現在の「日本橋」という橋名の文字は慶喜の筆という、お墨付きの橋だ。日本橋は慶長8年(1603)に家康が架けた「御公儀橋」。これは幕府直轄の由緒ある橋を意味し、江戸の町屋では、京橋、新橋とこの橋しかない。

日本橋はそれら3つのなかでも、江戸城にもっとも近く、活気ある魚河岸を備えていた。また幕府にとっても、五街道の始点とする場所は、全国へと江戸の文化や情報、経済を発信する拠点という特別な意味を持っていた。

日本橋がその名誉ある橋として選ばれた理由には、橋からの眺望にヒントがあるという。逆にいえば、そのような重要な役割を担う橋は、江戸という都市の威厳を全国に放つ「カリスマ性」を秘めていたのかもしない。

日本橋の凄さ、それは富士と江戸城の両方が見えることだった。参勤交代で西からやってきた大名行列は富士を望みながら江戸へと進み、日本橋を渡るとき、朝陽に輝く江戸城が目の前に広がるのだ。町人もまた、江戸城の威光を無意識のうちに視野に納める。幕府のステイタスを無言で示す橋こそ、日本橋だったのだ。



江戸城を今、徳川幕府の象徴・江戸城
その威容は、参勤交代で江戸を訪れた諸大名を通じて、全国に知れ渡っていたに違いない。
かつての城跡で、往時の面影を訪ねたい。

大手門
江戸城の正門。江戸城築城は諸大名が分担して行い、この門の普請は仙台藩主・伊達政宗が担当した

平川門
いわば江戸城の裏口。奥女中などが城を出る際に使った。堂々たる櫓門の横の小さな門は、罪人などが城から出る際の不浄門

桜田門
万延元年(1860)の桜田門外の変で大老・井
伊直弼が討たれた歴史舞台

田安門
現存する江戸城最古の門。
江戸城の最北部にあり、九段下駅から日本武道館を訪れる際にくぐる

半蔵門
この名は、忍者・服部半蔵の名前に由来。四谷から八王子方面へと向かう出発点で、甲州街道に位置している

当時の大手門前には黒山の人だかり
東京メトロ大手町駅を出て西へ向かうと左手にパレスホテル、その向こうの堀をまたいで、かつて登城する諸大名が目指した大手門が見えてくる。当時は、登城の際の供の人数が石高ごとに決められていて、入城が許されない軽輩の供は、この辺りで藩主の帰りを待っていたという。

もっともここに集まっていたのは、供として訪れた武士だけではない。というのも、庶民にしてみれば登城行列はさながらパレードのようなもの。こうした庶民の見物人や主を待つ従者相手に、団子などの屋台や物売りも出て賑わった。

とはいえ、武家の者にとって江戸城を訪れるのは重要な仕事、登城途中で他藩の行列に出会おうものなら、藩主自ら駕籠を降りて挨拶する、駕籠に乗ったまま道の端で待機するなど、相手の石高によって対応が異る。粗相なきよう、すべての藩の石高や家紋を確認できる武家年鑑のよう蔵本が手放せなかった。



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