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江戸城の火事が度々起きていた中でひとつを詳しく見てみよう

頻発した江戸城の大火

城といえば天守閣である。だが、江戸城に天守閣があったのは明暦三年(1657)までである。

というのは、その年(四代将軍・家綱の時代)、江戸城本丸の大火で天守閣も焼け落ちてしまい、それ以後、天守閣は一度も再建されなかったからだ。ただ、見上げるほどの高台が御天守台として残っていた。

11代将軍・家斉の時代に、その御天守台から、総身、かきむしられたように血だらけの死体となって落ちてきたあらしという御末がいた。

ともかく江戸城の大火は、たびたび起きている
火の元の用心に手抜かりがあったのか、ちょっとした隙に回禄(火の神さま)の怒りを招いて火災が起きてしまうのか。とにかく火事が多い。寛永以降の火事について見ると、こんなにある。

寛永11年(1634)西の丸炎上
寛永16年(1639)本丸炎上
明暦3年(1657)本丸、天守閣炎上
天保9年(1838)西の丸炎上
弘化元年(1844)本丸
嘉永4年(1852)西の丸
安政6年(1859)本丸炎上
文久3年(1863)本丸炎上
慶応3年(1867)二の丸炎上

これらの火事のうち様子のわかる弘化元年と、文久3年のものについて見てみよう。
まず、弘化元年5月10日の未明に出火した火事だが、本丸が全焼した。火元は長局の一の側とみられた。

当時、一の側には12代将軍・家慶付の姉小路が部屋を構えていた。賛沢を正当化した、あの利け者の上幅御年寄である。その隣の部屋に、同じ上蛎御年寄の祢溪がいた。ただ梅溪は、大御所(11代将軍・家斉)の御台所(広大院)付きであった。

本来なら二の丸にいるはずの梅溪が、なぜ本丸の長局にいるのか不思議に思われるかもしれないが、これには理由がある。

広大院は天保12年、大御所の家斉が死去すると、二の丸から本丸に移って「一の御殿」を「松の御殿」と改称して住まうようになり、お付きの梅溪も、一の側の部屋にいたのである。

そのため二人の上繭御年寄の間で火元争いが起きた。世間では、姉小路の部屋を火元とみていた。けれども、火元は梅溪の部屋ということで決着したという。
その年の江戸の七不思議の第一に、この一の側の火事があげられている。謎が多かったからだ。ちなみに明治維新後、大奥奉公の経験者の一人は、火元は姉小路の湯殿だと語っている。

それはさておき、この日の朝は大雨であったのに本丸は全焼してしまい、ようやく鎮火したのは明け六ツ半(午前七時)ごろだった。

出火を知った12代将軍・家慶は避難の際、傘もなく、草履もはかずに避難したという。その家慶のお供をした一人は妊娠中の側室。おしろの方で、彼女は裸足だった。

また、広大院は駕篭が間に合わず、大女の御末におぶわれ、家慶の養女・精姫は御広敷の御下男におぶわれて、ともに西の丸の背後にある吹上御苑の滝見の茶屋へ立ち退いた。

立退きの際、御小人が必ず持って出ることになっている長刀の鞘がはずれているのに気づかず、それに突き当たって御小納戸衆の2人の男が重傷を負い、のちに一人は死んでしまったという。人は火事のとき、いかにあわて、動揺するのかがわかる話である。

長局からの出火だったせいか逃げ道を失って御年寄・小上礪以下、命を落とした奥女中が百人もいたというから悲惨である。

また、こんな話も残っている。広大院付きの御中脇を務めていた奥医師の娘は避難の途中、広大院から花町という御年寄は老衰のうえ、病気であるから逃げ出せないかもしれない、助けに引き返すようにと言われる。彼女はさっそく長局に駆け戻ったが、火はすでに回っていて煙も充満していた。

部屋の中をうかがうと、花町が倒れているのが見えるが、近寄れないほどの猛火である。手の出しようがなかった。けれども広大院の仰せは彼女にとっては自分の命より重かったのだろう。彼女は覚悟を決める。逃げ出してくる女中を引き止め、こう言った。

「御意を承って御年寄のところへまいります。お燭台を握った屍がありましたら、私と思し召すように、方々へお伝えください」
こやは猛火の中へ飛び込んだのである。

彼女の承期のことば通り、焼跡から燭台を握った屍が発見された。
当時、この哀話に江戸中が悲しみに沈んだという。ちなみに、この火事の後か先かは不明なのだが、本丸では天麩羅が御法度となった。それというのも姉小路の部屋子が揚げ物をしていて、火が鍋へ入りボャが起きたからだといわれる。

次に、文久3年の本丸炎上のときの様子を見てみる。
夜五ツ時(午後八時ごろ)に出火した。当初、火元は添番詰所と医者部屋の2階の境といわれた。

この日、御台所は奥女中と一緒に、城内の紅葉が唐紅に染まった景色を飽かずに眺め、快を夕日に染めながら御殿へ戻った。御台所から添番や御下男など下々へ御酒をくだされたのが、七ツ時(午後四時ごろ)を少し過ぎたころだった。

御台所はお側の者たちと一緒に御座の間でまどろんだり、御泳欣などの話をしたりし、やがて御飯もすまし、しばらくなすこともなくしていたときのことだった。あたりの気配がなんとなく騒がしくなった。火が出た様子だった。

お側の者たちは急ぎ消火の用意をした。そのとき表使がうろたえながら駆けつけてきて、「ただいま、添番衆の詰所から出火したという知らせが」御台所から御酒をいただいた添番衆が酔いつぶれてしまい、回禄(火の神さま)に隙をつかれたのだろうか。

ともかく、お側の女中たちは御台所の避難の準備を始めた。そのうち御殿の騒動は大きくなるばかりだった。
「うろたえめさるな。火元は添番衆の詰所です」

御使番の金切り声が、繰り返し聞こえてくる。すると、黒い煙が廊下づたいに逆巻き襲ってくる。これはもう御座敷まで延焼していると、お側の女中たちは慌てふためいた。

その間にも表の御用人、御広敷番頭、伊賀者、添番などが手に大槌(おおづち)を持って非常口へ駆け寄っている。そして大奥へ通じる鍵のかかった門扉を打ち破る。彼らは非常川に逃げてくる奥女中たちを助け出すことに懸命で、「逃げよ、この口から」と叫び回っている。

非常のときこそ、鍵を使って非常口を開けるほうが便利なのだが、いずれも二重の戸締りなので、たとえ表の一方を開けたとしても、大奥側の一方が開かないと出ることはできない。非常の場合、なかなか手が回らないため、表のほうから大槌で打ち破ることになっていた。

表と大奥との境は銅でできていて、非常口は少なくなかったのだが、大奥に住む者は皆、競ってここから逃げようとする。ある者は手を引き合って唱名をとなえ、また、おぼつかない者の足を急がす者もいる。仲間に遅れて泣き叫ぶ御犬子供もいる。

中には部屋の女主人の安否が心配で、詰所に取って返し、残っている者に行方を尋ねるうち、逃げ場を失い怪我をする者もいる。あるいは荷物を一つでも多く持ち出したいと、火傷をする者もいる。

炎を煙の中、御用人、御広敷番頭、伊賀者、添番などは彼女たちをせかしたり叱ったりしながら非常口を出たり入ったりする。

非常口から出た女中たちは、御切手門の中であれば、どこへ逃げても差し支えなかった。逃げ出した女中たちは、あちこちに5人、7人と固まり、立ちすくんでいる。中には仲間にはぐれ、持ち出してきた包み一つを胸に、惚けたように軒端や木陰に立ちすくんでいる者もいる。

この逃げ出してきた奥女中たちは皆、表使によって一定の避難場所を指示される。
御年寄といえども、火事のときには表使の指揮に従うのである。

ところで火事の場合、御台所のお側の女中たちは火事看板という衣服を着る。お目見え以上は黒縮緬へ御紋付き、お目見え以下は手前紋(生家の紋)付き、また部屋の女主人は間白へ黒の御紋付きを着て、六寸(約18センチ)幅の糯子、または縮緬の帯を前結びにするという。

それから、手回りの品々を取り集め、鍬紗や風呂敷に包む。そして御台所を守りながら表使の報告を待つ。やがて表使が火元の報告に来る。そのとき、思いのほか火の回りが早ければ、庭へ用意してある駕篭でただちに立ち退くよう指示される。

お側の女中たちは献紗包みや風呂敷包みを背負い、庭口から御台所を駕龍に移し、足袋裸足で、避難先へお供することになる。立退先へは焼飯、梅干し、奈良漬けの香のものを添えて、差入れがされる。御台所をはじめ、お側の女中たちはこの粗末な差入れで一時の飢えをしのぐのだ。

けれども、夜中の火事であれば翌朝に、また昼間の火事ならば夕方には御三家、御三卿、御家門から引きもきらず料理の数々が献上されたという。
火事のとき、表使が万端を指図し、御台所をはじめ女中たちの世話をする。表使ほど竹の折れる役柄はない。

1人が避難の用意に取りかかれば、1人は様子を見届け、避難が無事にすんだこと、また御休息の間や御座の間の道具の品々も取り片付け、避難を終えたことなどを、ただちに表の御使番を探し出して報告しなければならない。

その合間にも表の御使番や町奉行を指揮して利川倉内、賜場先、桜川内などに繰り込み、控えている町火消し48組の人足を入れ、自ら現場を駆け回って指図し、消火にあたらせるのである。

もちろん、これより先に定火消しは駆けつけている。彼らは毛が焦げ、肉がただれるのもわからないまま必死に延焼をくいとめようと鳶口に力をこめ、あるいは水を注ぐ。緤持ちは極寒でも素っ裸で屋上に上がり、耐え難い炎熱に肌を焼かれる。

そのため、あるとき内縢外記という者が定火消しを務めたとき、纒に付ける馬簾を取り払い、柄に鉤を打ちつけ、危急のときにはこの鉤に菰でも筵でもありあわせのものを引っ掛け、前面からの炎熱を防いだという。ちなみに馬簾とは、厚紙、革などを細長く裁ち、纒の飾りとして垂れ下げるものだ。

こうして力を尽くしても、建物があまりにも大きく、また土壁がないので、火の舌にねぶられるままに燃えてしまう。棟が続いているので延焼を断とうにもうまくいかない。またたく間に火が広がってしまうのである。

昔から江戸城の火事では、消し口をとったためしがなかった。つまり消火にとりかかる場所に纒が立てられたことがないのだ。そのため、ついに城内に町火消しが導入され、消し口を取ろうとした。

彼らは火事場の武士の戦場になぞらえ、火に後ろを見せまいと縦をとって駆け上がり、屋根の下の焦熱地獄をものともせず、生きて帰れなくても本望とばかり足を踏ん張り繩を立てる。周知のように、彼らは江戸の花だったのである。

そんな町火消しでも、煉瓦が溶かされ、滝のようになって流れてくるのはどうしようもなかった。
こうして文久の火事は、あえなく本丸を焼き尽くしたのである。
火事の後始末の人足は、数千人もいたという。

火焼跡からは24人ばかりの黒焦げの遺体が見つかった。逃げようとして煙に巻かれ、窒息したのだろうか。逃げる時間があっても、欲にかまけて死が近づくのに気づかなかったのか。また部屋の女主人の行方を案じて取って返し、逃げ遅れた者もいたかもしれない。

火元の詮議が行われることになった。出火当初は添番詰所と医者部屋との境といわれたが、医者は御機嫌伺いの出入りの際に部屋で休息をとるだけだ。御不例のとき以外、宿泊することはない。そのため火元とは考えにくい。

ならば添番の詰所か、さもなければ隣の御下男の詰所だろうとの嫌疑で、当日の当番の添番30名、それに御下男5人が町奉行へ召喚された。

添番の一人は出火当時、表向き詰所にいるのを装って、妾宅のある深川あたりに外出していた。つまり現場にはいなかった。にもかかわらず取調べの際、別の御下男の力蔵が夕暮れどきに灯りを持って、詰所の二階に上がって用果ててのち、灯りを置き忘れてきたから起こった火事に違いないと、ことば巧みに述べたのだった。

力蔵というのは心優しく、容貌もすぐれ、奥女中たちの噂にのぼる男だった。それとなく誘う素振りをみせる奥女中もいた。その力蔵が牢に入れられると、彼を憐れんだ奥女中たちが掩護にまわり、ついに罪なしとされた。

また火災が起きたとき、外出していた添番の男は、事が露見して入牢となった。残りの29人は謹慎を言い渡され、翌年、改易となった。うち3人は江戸十里(約40キロメートル)四方追放、そのほかは五里、あるいは三里追放の刑に処せられたという。

ちなみに改易とは武士の身分を奪われ、家禄、屋敷を没収されることだ。追放の場合は江戸にはいられない。家財を手早くまとめ、それを親類などに預けて翌日は江戸を出なければならない。

とはいえ、替えの草畦を持っていさえすれば、追放された者でもいつでも江戸を通行できた。というのは、たまたま役人に見とがめられても、お寺参りのために往来しているといえば、おとがめがなかったからだ。

彼らはお寺参りの旅の証拠に常に替え草鮭を用意していたという。それはさておき、江戸城の火事は、たいてい全焼である。なぜなら、本丸、西の丸とも床下に水道が敷設されていて水に事欠くことはなかったのだが、その水を消火に使う放水器具が粗末だったからだ。

江戸城と吉原遊廓の火事では、「十分な火掛かりができない」と言われた。
当時の消火方法は、主に建物を破壊して泊火するというものだった。しかし、江戸城や遊廓にはいろいろと制限があって、火消しが自由に壊せなかったのである。

例えば、「そこに入るな」「そこは壊すな、遊女が逃げる」といった規制が入る。そのため、火消したちが思う存分に消火活動をできなかったので、そう言われたのである。


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