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徳川慶喜時代に江戸城明渡しが決まり大奥や天璋院を移転させた

江戸城明渡しで大パニック

慶応2年、7月20日、第14代将軍・家茂は大坂城で病死した。
家茂の御台所は和宮である。前年の1865年5月から、家茂は長州征伐のため江戸を出て大坂城に入っていた。

けれどもほどなくして体調を崩した。翌年、幕府軍は長州に連戦連敗を喫し、そうした中、ついに家茂は病に臥せった。

家茂は日頃から漢方医を好まず、大坂でも蘭方医を深く信じて治療を受けていたのだが、いっこうに容体はよくならない。むしろ悪くなる一方だ。

お側衆の坪内伊豆守は、家茂が臥せるといたく心を痛め、急使を江戸に出した。漢方の医師を迎えに行かせたのだ。急遼、江戸から3人の医師が大坂に駆けつけてきたのが、7月16日の夜、九ツ時(午前零時ごろ)だった。

伊豆守は、家茂の漢方医嫌いをよく心得ていたので、一計を案じることにした。彼は御前に出ると、天璋院(13代前将軍・家定の御台所)と和宮の2人から、漢方医に診断を受けさせるようにとのたっての願い、ついてはただいま江戸から3人の医師が到着したので、2人の願いを聞き届けてほしいと、家茂に上申したのである。

天璋院と和宮の願いとあれば、家茂は無下にできなかったのだろう、診断を許したのだった。

そこで医師たちが脈をとって診察すると、すでに治療は手遅れの脚気病とわかった。
驚いた医師たちは伊豆守に蘭方医の診断の誤りを告げ、衝心は三川のうちにあるはずで、もはやどうしようもない。

薬を服ませても効果はなく、むしろ苦しみを期すだけだと匙を投げた。ちなみに衝心とは、脚気の症状が進んで、心臓を侵すことだ。
まる3日経った7月20日、家茂は死去したのである。

家茂の遺体は蒸気船に乗せられ、9月6日の早朝に品川に到着し、艀で御浜御殿の庭先に上陸。直ちに江戸城西の丸に運ばれた。

治療さえ誤らなければ、やがて回復しただろうにと、このときの大奥の悲嘆は大きかったと、明治維新後に大奥奉公の経験者は語っている。

同年、徳川慶喜が第15代将軍となった。慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の第7子で、一橋家を胴いで、初めは将軍後見職として家茂を補佐していた。

その慶喜が15代将軍職に就いたものの、幕末の内憂外患に直面し、ついに翌年、慶応3年に大政を奉還する。そして明治元年に鳥羽伏見の戦いを起こすが敗れ、4月には江戸城明渡しとなる。

これより前、江戸ではまだ鳥羽伏見の戦いの結果が不確かな、夜、突然慶喜が蒸気船で舳川へ帰着したという知らせが、大奥に入った。
その夜、慶喜は羽織袴を着けて天璋院に対面を願い出たが、それは実現しなかった。

翌日早朝、天璋院に対面した慶喜は、鳥羽伏見の戦いのこと、朝敵の汚名をかたったことなどを語り、朝敵という呼称を赦免してもらえるよう急ぎ朝廷へ嘆願してほしいと頼んだ。また和宮へも使いを出し、同様に頼んだ。

そして慶喜は即日、上野大慈院へ向かった。隠遁し、朝廷に恭順の意を表すためだった。

当時、慶喜の御台所は夫が将軍職に就いても江戸城本丸には移らず、一橋邸に住んでいた。慶喜は上野へ向かう際、その一橋邸の表門の前を通っているが、立ち寄らずに真っすぐ大慈院に向かった。

御台所には何も語らず、蟄居謹慎しようとしたのであるけれどもこの夜、桑名城主・松平越中守が一橋邸におもむき、御台所付きの奥女中二人に面会し、鳥羽伏見の戦いの顛末をつぶさに語り、慶喜の動向を伝えた。

お側付の奥女中から報告を受けた御台所は初めて事の重大さを知り、大慈院に籠った慶喜に着物や道具類などを送ったという。
当時、江戸市中では鳥羽伏見の戦いを嚇した、次のような童謡が唄われていた。

軍は幾日、まだ年は若いな、あの砲を打って、この隊を逃がし、豚食って引っ込んだ、その跡どうした、薩州の人と皆取って仕舞った、あっちのほうでもどんどん、こっちのほうでもどんどん、それはともかく、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が江戸に舞い戻り、上野の大慈院で蟄居謹慎をはじめると、幕府の動揺はすこぶる大きかった。

いつ薩摩・長州が押し寄せてくるやもしれぬと、本丸の大奥防御の評議があちこちで行われた。

けれども評議の結果は、およそ稚拙なものであった。
というのも、本丸の表と大奥の境にある非常口はどれにも内外二重の扉があるのだが、その上に松の八寸角の格子戸を設置し、大きな輪鍵を付けるというものだったからだ。

この費用にかなりの額が費やされた。心ある者たちはひそかに笑っていたという。敵が侵入してくれば、八寸角の格子戸など何の役にも立たない。敵がこれを打ち破らずに退くことなど考えられないからだ。

ともかく大奥の非常口に大きな格子戸ができてからというもの、当番の奥女中は踵局の掃除のときや、事あるごとに添番、御下男たちにそれを取り除けてもらわなければならない。彼らに不必要な力を使わせたため、こぼさないでもいい愚痴をこぼされたという。

その大奥では、世の中はどうなってしまうのかと、寄るとさわるとひそひそ話をする奥女中たちの姿があちこちに見られるようになった。

中には物の本などで平家の末路を知っている者もいて、女たちが遊女となってはかなく世を送ったことなどを思い起こし、ポロポロ涙を流したりする。置き眉の位置さえこのころは2分、3分と隔たりをすぼめたという。

それだけに、この年の正月は祝い事どころではなかった。皆が皆、心ここにあらずという様子で、梅の色香にも気づかず、烏の声さえ耳に入らなかったようだ。例年欠かしたことのない初午の催しも、雛の節句も、忘れたわけではないが、行われないままに日が過ぎていった。

ただ、不安げに日々を送る奥女中たちがひたすら耳を傾けるのは、世間の噂だけだ。一方、江戸市中はといえば、江戸攻めの官軍が近いうちにやってくると、老いた者や幼い者を疎開させたり、家財をまとめて運んだりと、相当な混乱の中にあった。

旗本の中には妻子を捨てて、会津藩に脱走する者もいた。ある者は慶喜のいる上野に参集し、ある者は朝臣になりたいと願い出たりした。また、両刀をかなぐり捨てて団子売りを渡世の看板に掲げるものも現れる始末だった。

とにかく、江戸は周章狼狽の世界に姿を変えたのである。
そんな中、天璋院がかねて慶喜から頼まれていた嘆願言を朝廷に出すことになった。その御使に御年寄を選んで、木曽街道を京都に向けて出立させた。同時に和宮も、急ぎ御使を東海道を上らせ、京都に送った。

天璋院の御使の一行は、御年寄1名、表使1名、御右筆1名、御三の間1名、御使番2名、それにタモンなど合わせて12名。

和宮の御使は、上稿御年寄1名、中年寄1名、表使1名、御右筆2名、御三の間2名、御使番4名、タモン5名の合わせて16名。

これだけではない。御使を出すことが決定すると、御用人はただちに警護の者たちを双方へ付ける手配をした。その内訳は、御広敷番頭1人、調役頭取1人、添番6人、伊賀者8人、御小人10人、御下男10人の合わせて36人を、それぞれに付けたのである。

出立の朝、一行は江戸城平河口を出て、やがて右と左に別れて京へ向かった。ようやく大津に辿り着いて入洛しようとしたとき、どちらの御使も、お供の警護の者は入京を拒まれた。仕方なく奥女中たちだけで京都に入った。

けれども、それから絶えて江戸への音沙汰がなかった。慶喜の蒙った朝敵という汚名を返上できるのかどうか。徳川家を存続できるのかどうか。天璋院や和宮はもちろん、大奥の女中たちも心を痛めていた。

心を痛めていたのは大津に留め置かれた警護の者たちも同じだった。彼らは留まっていることをはかなんで、かくなる上は腹を掻き切らんとまで心を決めていた。やがて江戸城明渡しが決まると、お願いの筋も聞き入れられて、御年寄たち御使一行は江戸へ帰ることが許されたのである。

官軍の江戸城入城は4月11日と決まった。そのため4月8日、天璋院はじめ和宮、実成院(家茂の生母)ら、大奥に住む者たちに立退命令が下った。幕府は天璋院を一橋家へ、和宮と実成院は清水屋敷、また当時一橋家にいた慶喜の御台所は小石川の梅屋敷へ移すことにした。

事ここに至って大奥は、大騒ぎになった。たった3日間という期限つき立退命令だったからだ。

特に、天璋院らのお供を命じられた女中たちは困ったようだ。私物の始末に手が回らない。同僚に頼んでも埒があかなかった。ほかの奥女中たちは自分の立退きの用意でそれどころではなかったからである。そのためタモンを生家に走らせて、母親や妹を呼び寄せる者もいた。

それでも世話子の多くいる部屋では、衣類から諸道具まで手当たり次第に長持ちの中に詰め込み、名札を付けて一橋邸などに送り出したりしたが、それが田安邸に届いたりする混乱があちこちで生じた。

誰がどこへ運んだのか調べる手がかりも掴めず、立ち往生するといった様子である。そんなこんなであっという問に一日が過ぎてしまった。

これ以上、あれもこれも持ち出そうとしていると、薩摩・長州の軍に包囲されて逃げ道を失ってしまう。彼らに捕えられて暴行を受けるかもしれないと、奥女中たちは皆、うろたえながら荷づくろいをしていたのである。

けれども天璋院だけは平然としていた。
「ただ3日間の立退きであるのだから、手回りの道具だけ持ち出せばよい。それでこと足りる」

天璋院は3日間だけ大奥を離れればいいと思っていたのである。そのため着替えの衣類、化粧道具などを用意しただけで一橘家へ移ることになっていた。

実は天璋院は8日に下された城の明渡しの話を聞き入れなかったため、幕閣は仕方なく11日までの3日の間に立退きというところを、「3日間だけ立退き」と欺いたのである。気性の激しい彼女に実情を打ち明ければ、事がますます面倒になると考えたからである。

奥女中たちも、はじめは天璋院が承諾していないのだから、城の明渡しもどうなるかわからないと、立退きの準備をしていなかった。いざ、その日が決定すると、驚きにひたっている間もなく、慌てふためいて荷づくりに血眼になったのである。

ところで、天璋院は、いずれ大きな顔をして入城してくるであろう官軍に徳川家の威光を見せつけようと考えたらしい。大奥の御休息の問、御座の間、御化粧の間、御対面所などの飾り付けを特にきれいにさせたという。

壁には雪舟、探幽の三幅対の軸を飾り、床の間には金銀製の鵺炮、それに金銀製の葉に珊瑚八部玉の実13個をつけた万年青の鉢を掻いた。

また七賢人を彫刻して金の象嵌をした銀瓶には、金赤銅の葉と珊瑚の実をつけた南天を入れるといった趣向である。さらに違い棚には梨子地の硯箱、香道具一式、そのほか蒔絵の碁盤なども置き、美麗を尽くしたのだった。

一方、奥女中たちの住まいである長局は廊下を掃除しただけで、昨日までいた数百人の奥女中も、今日は人っ子一人影もなく、ただ静寂があるだけだ。
こうして明渡しの準備を整え終えた。

誰もが明渡しの儀式らしきものが行われると思っていた。
けれども当日、大奥に入ってきたのは幕府の御目付が2名に、尾州藩の重役3名、合わせて5名だけだった。

御用人が一行を、御休息の間・御座の間・御対面所などに案内し、また長局の部屋の検分をさせ、さらに倉庫の諸道具も検分させて、それで終了だった。なんとも簡単な受渡しだったのだ。

大奥同様、表の受渡しもあっさりしたものだった。御目付によって役人一同が御広敷に集められ、紅葉山に向かって拝礼して、別れを惜しんだだけだったという。
270年にわたる徳川家の時代はこうして幕を閉じたのである。


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