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岐阜県・岐阜城|戦闘の機能を斎藤道三が改修して作った

岐阜城

岐阜城は長良川に沿う海抜336メートルの金華山山頂から麓にかけて築かれた壮大な山城だ。

この山城を一躍海外にまで有名にしたのが織田信長である。信長は井ノ口の城と呼ばれた城を永禄10年、中国の岐山と曲阜にならって岐阜城と改めた。それ以前に存在した山城は稲葉山城とも称し、鎌倉時代に二階堂氏が築いたもの。

これを斎藤道三、義能、龍興が改修したが、まだ士塁の山城だった。そこで信長は石垣づくりで、山上と麓の居舘に二つの天守建築をもつ城郭を構築した。

永禄12年、信長のもとにルイス・アルメイダら宣教師が訪れた。その時の記録から岐阜城は、池泉が広がる庭園に面して三屑四階の御殿風の天守が麓の居舘に営まれ、金華山山頂には三層の天守があがっていたとみられる。

注目されるのは、この川上の天守には、信長に属した諸勢力が差し出した、12歳から17歳までの人質の少年たちが生活していた、と記されていることである。

また、最近の発掘調査によって、麓の千畳敷への大手口と思われる個所が出土。巨石を積み重ねた道路と虎口が判明した。安土城の先駆け的な構えが岐阜城に存在していたのである。


道三の怨み
岐阜城は一に井ノロ城といい、一に稲葉山城という。井ノ口は岐阜の古地名であり、稲葉山は城のある山の名である。

この地に最初城が建ったのは、建仁年間というから、鎌倉時代初期である。しかしながら、その城は城というより居館的なもので、軍事上そう効果のあったものとは思われない。

城として十分に戦闘にもたえるような機能を持つものが出来たのは、戦国時代の斎藤道三からである。斎藤道三は戦国という時代をそのまま体現した獄約縁駄物であった。

道三は京都西岡の生れである。西岡というのは京都の西郊、今の乙訓郡向日町のへんを言った。通説によれば、彼の父は松波左近将監基宗という禁裡北面の武士で、仕えを辞して帰農して西岡に居住しているうちに彼を生んだというが、これはあてにならない。

戦国中期を少し下った時代から末期に至るまでは皇室の衰微がきわまって、皇室自身が窮迫をきわめておられた時代だ。北面の武士などあろうとは思われない。たしかなのは、西岡の生れということだけである。

少年の時、彼は京都妙覚寺に入って僧となり、法蓮房と号し、仏学深奥で弁舌さわやか、山の鳳雛と称せられたという。

これは本当であったかも知れない。後年の彼を見ても、少年の頃から頭脳明晰で、口から鼻へぬけるほどの機敏さがあったに違いないと思われるからだ。彼が妙覚寺にいる頃、美濃の豪族長井家の子弟で妙覚寺に来て僧となった者がいた。

南陽房といい、法蓮房より二歳の弟であった。法蓮房はこれと最も親しく交わって「その間断金の交り」であったというが、この南陽房が後に法蓮房の出世の手の鷲林山常在寺のしているはずである

南陽房が美濃に帰った後、法蓮房は何を思ったか寺を出て還俗し、庄五郎(一説庄九郎)という名前になり、妻をめとって、西岡で油屋をはじめた。

還俗の動機はわからない。彼は非常に美僧であったというから、女犯かなんぞで寺の問題となって、居るに居られなくなったのかも知れないし、また後年の彼から想像すると、中々の野心家でもあったろうから、「坊主なん捨いくらえらくなったってたかが知れている。女も抱けず、魚も食えんようじゃつまらん。一つ俗世間でなんとか出世の方途を見つけよう」と思ったのかも知れない。

西岡の近くに大山崎というところがあるが、ここの離官八幡は古来燈火用の荏胡麻油の専売権をもっていて、全国の燈油業者はここの免許状がなければ荏胡麻油を売ることが出来ない規則になっている。庄五郎はここから免許状を受けて、油屋となったわけだ。

当時のこうした商人は店商いは女にまかせて、男は荷をかつぐか手車にのせるかして行商したもので、彼ももっぱら行商に精出したのであるが、中々よく売れた。というのは、彼にはいくつかの特技があった。

第一には声がよくて唄がうまい。第二にはおどりが上手である。第二の特技は最もめずらしい。油を買手の油壺にはかりこむのにジョウゴをつかわず、一文銭を壺の口にあてて、その孔を通して連々と流しこみ、しかも銭に一滴の油もこぼさなかったというのだ。

唄とおどりで客を集めて、買う人がいればこの妙技を見せてはかりこむ、あるいはこの妙技ではかりこんで売った後、お礼にうたいましょうぞとか、舞いましょうぞとかいって、歌舞してみせるのだ。娯楽の少ない時代のことだ。同じ買うならあの油屋のを買おうと、皆待っていて買ったのは当然のこと、繁昌したはずである。

庄五郎はやがて美濃のへんまで出かけて商売するようになった。美濃には妙覚寺時代の親友南陽房が、今は日運上人と呼ばれて、鷲林山の住職になっている。たずねて行くと、よろこんで迎え、そのひきで日運の実家である長井家にも出入りするようになる。

この長井家が、当時稲葉山城か当時は日本全国、いわゆる下剋上の時代で、権勢が下へ下へと移って行った時代であるが、美濃もまたご多分にもれず、守護たる土岐氏はまだ存在していたが勢力おとろえ、その権は家老たる斎藤氏に移り、斎藤氏またおとろえて、その家老たる長井氏が権勢をふるっていた。即ち日運上人の生家である長井氏だ。

さて庄五郎は日運の手引きで長井氏に出入りしているうちに、武家奉公したいと思いはじめた。多分、ぬけ目のない商人社会をくぐって来た彼の目には、武家の社会はすきだらけに見え、「厘毛の利を積んで巨富をなすことはなかなか大変じゃが、これにくらべれば武家の世界はなんと気易いものであろう。出世の途がころがっているわ」と考えたのであろうか。

日運に希望を打ち明けると、日運は長井家に話してくれた。当時の長井家の当主は日運の甥である越中守藤左衛門尉長張だ。長張は庄五郎の才智才覚をかれてから認めている。

「よい分別。庄五郎ほどの者、町人で朽ちはてさせるのはおしいものと思うていました」とて、土岐政房に推挙する。政房は当時の美濃の守護だ。衰えてはいたが、なお美濃の国人から「お屋形」といわれて尊敬はされていた。当時の上岐氏の城は川手にあった。

今の岐阜市の東南郊で、その地名で現存している。
庄五郎は政房には気に入られたが、政房の長男盛頼はこれをきらった。
「口先きばかり達者でおべんちゃらばかり言うやつめ、おれは好かん。以後当城へ出仕すること無用」と、追い出してしまった。推薦者である帳報が色々言うが、盛頼はきかない。

いたし方なく、長張は庄五郎を盛頼の弟頼芸の居城方県郡鷺山城に連れて行った。岐阜市の北郊半里ばかりに鷺山という町が現存しているが、そこにあった城だ。

頼芸は兄とちがってはで好みの遊楽好きの人物だったので、歌舞音曲なんでも出来て、日から鼻にぬけるように機敏な庄五郎が大へん気に入り、側を去らせず召使っていたが、数年の後、長井家の家賭錮村正元という者が死んであとつぎが絶えると、長張を呼んで、「その方が家老西村の遺跡を庄五郎につがせてはどうだ」とすすめた。

ここで、庄五郎は松波姓から西村姓となり、名も勘九郎と改める。
多分西村家についていた知行地だったのであろう。本巣郡軽海村がその地だったという。今本巣郡真正町の大字にその名がのこっている。岐阜市の西方二里ほどの農村。

岐阜城(岐阜県岐阜市金華山)
別名 稲葉山城 金華山城 
所在地 岐阜市 
種類 山城 
築城者 二階
阜堂行政 
築城年 建仁元年(1201)
歴代城主 三階堂氏以降四氏 織田氏以降岐阜城(慶長六年1601)
石高 織田秀信の頃13万5千石 
遺構 復興天守閣



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