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北海道・五稜郭|幕府がロシアの南侵にそなえるため建築

五稜郭

五稜郭とは「8つの稜ほのある城郭」という意味である。稜ほとは90度以下の鋭角に尖る塁壁をいう。

すなわち5つの八形がつくる星形プランの城郭ということだ。ところが実際には6つの八形がある。城の南側にある五稜郭タワーに登ると、星形プランより、6つ目の大手口前の鋭角三角形が眼前に大きく映る。星形の城郭プランはタワーからはあまりよく形が見えず、手前の鋭角三角形だけが目立つ。

この鋭角三角形は、出入口である虎口を防御するために虎口の前方に設けられる、鎬馬出と呼ぶ小区画である。三角形の鎬馬出が残存するのは、五稜郭と備中松山城本丸虎口のみで、貴重な遺構だ。

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五稜郭は、北海道函館市の東北約一里、亀田町にある。これは函館奉行配下の諸術調所教授武田斐二郎が設計したもので、安政4年(1857)に着工、7年の歳月を費し、元治元年2月に竣工した。工費は備砲や庁舎建築費などを含めて18万両かかったという。

設計者の武田斐二郎は名を成章といい、伊予の大洲藩士の家に生れたが、漢洋の学に郭通じたなかなかの秀才で、とくに西洋流の兵学に通じていたので、幕府に召抱えられたのである。

武田が知恵のかぎりをつくして設計したこの城は五稜の星形の堡塁式城塞で、周囲の濠に亀田川の水をひき入れ、石垣の高さは約4.5メートル、城内の面積は5万5千坪、各突角部に砲台がおいてあり、寄せる敵は十字砲火の餌食にならざるを得ず、どうにかそれをしのいで城壁にとりつくことが出来ても、隣りの稜堡から狙い撃ちにされてしまうしかけになっている。

つまり、死角が全然ない城なのである。これはもちろん西洋式の城で、16世紀から18世紀まで、向うで大へんはやった様式であるという。

幕府がここにこんな城を築いたのは、北方からの脅威、ロシアの南侵にそなえるためであったことは言うまでもないが、当時の幕府財政は困窮をきわめていたばかりでなく、工事半ばの文久年度にはすでに西の方に倒幕運動がおこっている。

内にも備えねばならず、外にも備えねばならなかった幕府の苦しさは、推察にあまりがある。足許に火のつく倒幕運動に対処しながらも、北方の守りのためにこの工事を続行し、ついに完成させた幕府の志は十分に酌んでやる必要がある。

戦前の学校歴史では、徳川幕府は自家の安全と繁栄しか考えない無責任な権力者であったと教えたものだが、実際はそうでなく、自家のことも考えないではなかったが、日本全体のことも勤王諸藩におとりなく考えていたことは、五稜郭築城のこと一つをもってもわかる。

幕府は五稜郭築城と同時に、弁天崎砲台もこしらえている。これも武田の設計で、費用は工事費備砲代ともに14万両で、安政3年着工、文久3年に竣工している。海岸の埋立地に備前の石工喜二郎が精魂をこめて築き上げた石垣は、四隅に鉄柱を用いて堅牢無比、亀甲形の堡塁には六十斤砲二門、二十四斤砲十三門、都合十五の砲座があった。

五稜郭と相侯って、日本北門の固めというわけであった。そして五稜郭が完成すると、函館奉行が入って、ここに奉行所をおいたから、つまり北海道総督府ともなったわけである。上述したように五稜郭は幕府がロシアの南侵にそなえるために築造したのであるが、それが有名になったのは、明治2年に幕府の脱走兵がここにこもって最も頑強な抵抗をこころみたことによってである。


五稜郭(北海道函館市五稜郭町)
別名 柳野城 亀田役所土塁 所在地 函館市 
種類 平城 
築城者 武田 斐二郎 
築城年 安政4年(1857)起工 元治元年(1864)完成 
歴代城主
幕府直轄 石高 なし 遺構 土塁 石塁 堀




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