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秀吉は戦国時代で最も優れた築城スペシャリストだった

近世城郭建築のパイオニア

豊臣秀吉は、いうまでもなく、織田信長、徳川家康と並び称される戦国時代を代表する武将のひとりである。貧しい農民の子として生まれ、「足軽」と呼ばれる最も身分の低い家臣の位で、時の権力者・信長に仕え、数々の活躍の後、信長亡きあとの権力者に成り上がった秀吉の出世話は、あまりにも有名だ。

敵地のただ中に一夜にして砦を築きあげて秀吉は初めて城を持つ
天文6年(1537)に生まれた秀吉は日輪の子として将来を嘱望されたと、太閤記などが伝えるところだが、実際のところはほとんどわからない。永禄元年(1558)頃には織田信長に仕えた。父親が織田家の鉄砲足軽だったつてを辿って仕官したと推定できる。この時期の信長は尾張国内の同族と激しい争いを続け、尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間合戦で撃破し、戦国大名としての地歩を固めていく。秀吉は木下藤吉郎と名乗り、信長の戦いに何度も従軍した。非力ながらも懸命の働きでのし上がっていった。

信長が美濃侵攻に本格的に取り組む時期には、小勢ながらも一軍を任される存在になっていた。

美濃攻略に着手した信長は、国境を流れる木曽川を越えて何度も出陣した。しかし、渡河に手間取る間に美濃稲葉山城から斎藤龍興の軍勢が出撃してきて苦杯を舐めさせられる。そこで、木曽川の砂州であった墨俣に城を築こうとした。しかし、諸将が幾度か築城工事を試みたが、敵勢の激しい妨害によりことごとく失敗。

当時の秀吉は組頭程度の身分だったが、ここが出世のチャンスと、自らこの難しい仕事を買って出た。そして、一夜にして墨俣に城を築き上げ、押し寄せた斎藤勢を退けることに成功した。簡素な造りながら、大河の中州にある墨俣は天然の要害である。砦さえ完成してしまえば、そう簡単には落せない。美濃攻略の貴重な橋頭堡をつくった藤吉郎は、この後、信長から高く評価されるようになる。


そして、その天下取りの物語を、単なる伝説ではなく、歴史的事実として捕える上で欠かすことが出来ないものが、秀吉が戦場を駆け巡る過程で造営した、途方もない数の城郭群である。

秀吉は62年間の、さほど長くはないその生涯の中で、実に数十にも及ぶおびただしい数の城郭の建設に携わった。その数は、あらゆる戦国の武将の中でも最も傑出している。

また、それは単に城に限ったことではなく、それらの城下町として長浜や京都、大坂、伏見その他多数の町づくりにも手を染めている。それが人々をして秀吉を「普請太閤」あるいは「普請狂」と呼ばしめるゆえんである。

いっぽう秀吉は、ただ単に多数の城郭群をつくっただけでなく、それらの多くは、のちの城郭や城下町に強く影響を与えた独創的なものであった。

墨俣一夜城や清洲城割普請、高松城水攻めは特に有名だが、これらの「奇策」に限ったことではなく、近世城郭の定番となる様式の数々をも生み出している。のちに徳川将軍家や、その家臣らが造営した城郭と城下町のほとんどは、秀吉の造営した城と町づくりの模倣であるといっても過言ではないのである。

たとえば、戦う建築である城郭に「山里曲輪」と呼ばれる遊興施設を取り入れたのは、秀吉が最初であり、これが大名庭園へと発展した。また、従来「山城」「平山城」と呼ばれる、山や丘に築かれた城を、平野や水辺につくり、天守を城下町の脇に置いて、街道を通すことで町の発展をうながす方法も秀吉から始まった。

さらに、南蛮貿易やキリスト教布教を通じてもたらされた西欧文化を、城郭のインテリアや城下町のヴィスタ、下水道として、いち早く取り入れたのも秀吉の工夫である。

このように見てくると、近世城郭建築のパイオニアとでも呼ぶべき人物こそが秀吉であったといえないだろうか。そこでまず、秀吉初期のユニークな城づくりについて、現代的な視点から観察してみよう。


幻の城、城を一夜で造れるか
清洲城での秀吉の働きは、当然信長の目に留まり、さらに重要な仕事を任されるようになる。それが墨俣城築城である。

京の都への進出をもくろむ信長は、その途中にある美濃(現岐阜県)を攻略する必要にせまられていた。しかし、美濃には斎藤龍興の居城。稲葉山城があり、これを倒さない限り、天下への道はない。340メートルの断崖絶壁の山頂にそびえ建つ稲葉山城は、数回にわたる信長の攻めにもびくともせず、かえって信長が敗退の苦汁をのまされることが、しばしばであったという。

1561年の信長の出兵について『信長公記』には「木曽川、飛騨川大河打ち越え(中略)在々所々に放火、その後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ」とあり、墨俣の地が美濃攻めの重要地点であるとして、すでにそこへ城を築こうとしていたことがわかる。

この墨俣は墨股とも書き、古くは洲股、洲俣、洲の又、須股、すの又、等と書かれているが、ここでは現在の地名の「墨俣」を用いることにしよう。

墨俣は尾張(現愛知県)と美濃(現岐阜県)の国境付近にあたり、現在の新幹線の駅名にも使われている「岐阜羽島」がある羽島郡の中にあった。

当時、木曽川と長良川と揖斐川の三つの川は墨俣で合流し、その他多くの川が支流として網目状に流れこみ、大きな中洲をつくっていたため、このあたりは「洲股」と呼ばれたという。したがって、この地は湿地帯であり、城づくりにはむかない場所であった。その上、敵地にあたるこの地に、信長はなぜかくもこだわる必要があったのだろうか。

それは、まず第一に墨俣が川の合流点として、船による交通の要衝であったからだろう。

また第二に、この地を美濃路と呼ばれる鎌倉街道が通過している上、中山道、不破の関、伊勢路、北陸道ともつながっているため、陸路においても、墨俣は交通の要であったからに他ならない。

そのため、古くからこの地は合戦において取り合いになっており、壬申の乱や墨俣の合戦、承久の乱等、数々の戦争で奪い合いとなっている。『吾妻鏡』や『太平記』、『応仁記』をみても、墨俣をめぐる合戦や交通封鎖の記述が、無数に発見できるのだ。

そして、信長もこの地に城を築こうとする。『絵本太閤記』や『真書太閤記』を信ずれば、信長は当初、佐久間信盛に墨俣城築城を命じたという。信盛は20日間の予定で、兵力3000名に守らせつつ、人夫5000名をつかって突貫工事をさせたというが、わずか3日目に逃げ帰り、信長を大いに怒らせたという。

その後、 こんどは同じ条件で、柴田勝家がその任にあたったが、やはり守りきれず撤退したというのだ。

そこで名乗りを上げたのが、木下藤吉郎こと豊臣秀吉だったのである。
それでは、秀吉は墨俣築城に成功したのだろうか。結果を先にいえば、見事に成功した。

しかも、わずか一夜にて築かれたと伝説はいうのである。また、『墨俣町史』によると、秀吉のつくった墨俣城は1586年、くしくも彼が太政大臣として天下人になった年、大洪水によって破壊されてしまったという。

現在の岐阜県大垣市墨俣町。長良川と支流に囲まれて、今日も秀吉の墨俣城の跡が残されており、「一夜城跡」の石碑が立てられている。ひんぱんに暴れる蛇行河川上に建てられていたがために、川の位置や中洲の大きさも、当時と大きく異なっているというが、東北に稲葉山城がそびえ建ち、当時をしのばせている。

このように、秀吉が墨俣築城に成功したのは事実だとしても、果して、城が一夜でつくれるものだろうか。しかも秀吉の前に、二人の武将が失敗したという敵地に、いったいどのようにして築いたのであろうか。さらに、その城はどのような様相だったのだろうか。

まず、墨俣城が「一夜」で築かれたという初見は、江戸後期に武内確斎が著わした『絵本太閤記』にあり、そののちこの伝説が広まったとみられ、江戸時代の狂歌にも「敵の目をさます智術の一夜城 ただ事敵思い」とあり、紙を貼って一夜で城もどきをつくり、それを敵は「神業」と思ったとうたわれている。

同じく、江戸後期の『絵本豊臣勲功記』では、7日間でつくられたといい、添えられた絵には、かなり大規模で立派な城の姿が描かれており、櫓が10、長屋も10あって、5万本の材木を用いた、としているのだ。

また、同じく江戸後期の『真書太閤記』によると、やはり7日で完成したといい、3日目までに材料をそろえて堀を掘り、4日目に石垣を積み、5日目は休息し、6日、7日に建築を組み上げたという具体的な記述となっている。

この他、すべての太閤記の原本となったと思われる、江戸初期に小瀬甫庵が著した『甫庵太閤記』によると、1566年9月1日から準備を開始し、5日から8日にかけて造営して、計4日で完成したといい、以上挙げた文献以外に日数を記した文献は存在しない。

このように、墨俣城についてはさまざまな説があって一致せず、それが「幻の城」といわれるゆえんでもあるのだ。

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