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秀吉による四国攻略と北条氏の小田原遠征

豊臣秀吉の四国長宗我部元親攻略

一宮城を拠点にして長宗我部元親は秀吉の大軍に徹底抗戦の構えを見せた 四国三郎の別名で知られる吉野川の流域に広がる徳島平野の中心部、大古から阿波支配の拠点だった地に一宮城の城郭が築かれたのは南北朝時代の延元3年のこと。後に四国の覇者となった長宗我部元親のものとなり、豊臣秀吉が四国に侵攻してきた時には、その防衛拠点として存在がクローズアップされた。

城は標高144メートルの小山であるが、後方には険しい山塊、また、前方も鮎喰川畔の湿地が広がり大軍で展開するのは難しい。 本丸のほかに才蔵丸、明神丸、小倉九、水手丸、椎の丸など小規模ながら多数の曲輪が、絶妙のレイアウトで配されていて、これらが連携しながら進入してくる敵を撃退できるようになっている。

また、本九は堅牢な石垣で固められていた。四国征伐で豊臣秀吉の軍勢は、長宗我部の重臣、江村親家が守るこの城を包囲して1ヶ月半も攻めあぐね、水の手を断つことによってやっとのことで落城させた。この時点で長宗我部元親は抵抗の無駄なことを覚り、秀吉に対して降伏した


小田原征圧
小田原評定をくり返して 包囲軍に対抗手段を見い出せなかった北条氏 四国や九州を平定して、秀吉の支配が及ばない領域はもはや、東国だけとなった。 なかでも最大の抵抗勢力は、関東のほぼ全域を支配する北条氏である。秀吉は平和的解決を求めて、当主の北条氏直と、その父で北条氏の実質的な支配者である北条氏政の上洛を再三促した。しかし、北条氏の側では秀吉の力を過小評価して、これに従わない。堪忍袋の緒が切れた秀吉は、天正18年(1590)諸国の軍勢を動員して北条氏の討伐を開始する。

秀吉の軍勢は総計で20万にもなる。主力は東海道から侵攻し、山中城や韮山城など北条氏の重要な支城を攻略して本拠の小田原城を包囲した。また、関東北部など各方面から侵攻する緒隊も、支城を次々に攻略しながら小田原へと迫った。籠城戦術を得意とする北条氏が築いた自慢の支城ネットワークは、秀吉の物量作戦によって崩壊した。しかし、北条側はまだ楽観している。小田原城の難攻不落を過信していたのだ。

かつて信玄や謙信といった名将の包囲攻撃に耐えた城である。今回も耐えられるはずだと確信していた。しかし、日本の大半を支配する天下人の戦は、スケールが違っていた。

当初、北条側は敵は大軍だから兵姑を維持できず、早期に撤退すると予測した。しかし、秀吉は大型船によるピストン輸送で、長期戦を維持できるだけの物資を揚陸。また、小田原城を望む地に、石垣山一夜城と呼ばれた天守閣をもつ本格的な城郭を築城した。「何年でも包囲を続けるぞ」という秀吉からの不気味なメッセージである。これを見た北条側は動揺した。小田原城では北条一族が集まって、対抗策を評議したが何も決まらない。手も打たないまま話し合うばかりである。この無策を評して小田原評定と呼ばれた。

石垣山城の完成から数日後の天正18年(1590)7月になって、北条氏はついに秀吉に屈して降伏を申し入れてきた。 小田原城の防御はまだ一角も崩れておらず、城内には兵糧も豊富にあった。しかし、もはや勝てないことを悟らされたのだ。北条氏政は切腹し、氏直は高野山に追放されて、北条氏は滅亡した。この後、東北地方などにわずかに残った抵抗勢力も屈服、秀吉の天下統一は完成した。



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