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本能寺の変から秀吉の中国大返しと山崎合戦

本能寺の変

本能寺の変で光秀の裏切りを知った信長は是非に及ばずの言葉を最後に自害した 永禄11年(1568)に信長が後の15代室町将軍・足利義昭を奉じて上洛した時の京は、度重なる戦乱により荒れ果て、焼け野原の空地が目立っていたという。信長はかつて3代将軍・足利義輝が松永久秀らに攻められて自刃した居館跡地に、義昭の住む屋敷を建てた。かつて室町幕府が設置された室町小路にも近い市街地中心部だが、ここも周辺には建物がなく荒涼とした野原が広がるだけ。北上するとわずかに公家たちの邸宅が残り、朝廷の小さな内裏があった。

この頃の京の中心は、戦火を逃れた三条通りより以南、この界隈にはわずかに都のにぎわいもあった。永禄4年(1561)にイエズス会が日本における布教の拠点として教会を建てたのも、この近くだった。

京の地形はもともと外敵の攻撃に弱く、上洛をはたした信長もここに本拠を移すことはしなかった。そのため町の再建に本腰を入れることもなかったが、信長の軍事力により安定を取り戻したことで、右京界隈には住民も増えてきたという。

本能寺は応永22年(1415)に創建された法華宗の寺院である。この宗派は一向宗と対立しており、敵の敵は味方というべきか、信長との関係は良好だった。信長がこの寺を京の宿舎としたのも、そんな経緯によるものか。もともと西日本一帯に多くの末寺をもつ法華宗本門の大本山だけに、寺領は広かった。信長の宿舎として利用されるようになってからは、織田家からの財政支援もあり整備がすすめられた。東西を西洞院大路と油小路、南北を六条小路と四条坊門小路に囲まれた境内には壮麗な伽藍が軒をつらね、京でも随一の大規模寺院に発展していた。

天正10年(1582)宿敵の武田氏を滅ぼしたことで、信長の天下布武の事業も、いよいよ仕上げの段階に入ってきた。次なるターゲットは中国地方を支配する毛利氏である。この方面の司令官をまかされた羽柴秀吉は、すでに毛利領への侵攻を開始して、備中高松城の攻略にかかっていた。その秀吉から応援の要請が届いた。信長はこの時、安土城に徳川家康を招待して武田氏征伐の祝賀会を催していたのだが、その供応役である明智光秀を突如解任して、秀吉の援軍に向かうよう命じた。

そして自らもまた援軍として中国路へ向かうため、安土城から京の宿舎である本能寺へと入ったのが5月29日。京に諸将を集合させ、軍勢を編成後に出陣する予定だったという。その2日前には同じく中国方面へ出陣する嫡男・織田信忠も妙覚寺の宿舎に到着している。

この時、明智光秀は1万3000の大軍を引きつれ、京の近くにあった丹波亀山城を出陣して、備中へ向けて進軍するはずだった。この時、織田軍の諸将は各方面に出陣しており、京の近郊には光秀の軍勢だけだった。また、本能寺の信長は100人程度のわずかな手勢しかつれていない。光秀にとっては千載一遇のチャンスだった。6月1日深夜、桂川の岸に到達した光秀は「敵は本能寺にあり」と、全軍に告げた。

桂川を渡れば京の市街地はすぐである。 光秀がいつ謀反を決意したかはわからない。信長の苛めによって神経衰弱に陥り、窮鼠猫を噛むの心境だったともいわれる。本能寺を囲んだ明智勢は四方から境内に殺到。信長の側近は必死に防戦し、信長も自ら槍を振るって戦ったが、多勢に無勢である。

もはやこれまでと悟り、「是非に及ばす」との言葉を残し、居館に火を放ち自刃して果てた。また、嫡男・信忠は二条新御所に籠って抵抗したが、これも明智軍の別動隊によって攻められ自刃している。信長とその嫡子を葬った光秀は、一時ではあるが京の覇権を握った。


高松城全体を水で沈めて敵軍の降参を待つ
秀吉は壮大な作戦を成功させた。 天正10年(1582)4月、秀吉は3万の兵を率いて備中高松城を包囲。城が低湿地帯にあることに目をつけて、城の周りに総延長3キロメートルの堤防を築いて、近くを流れる足守川の水をここに流し込んで城を水没させるという奇想天外な作戦に出た。

梅雨時の長雨も秀吉に味方して、堤防が完成すると城周辺の水位は上昇。土塁を越えて水は城内に流れ込み、備蓄した食料を押し流し、水に浸された城の中で兵たちは寝る場所さえなく難儀した。城は秀吉が造った人工湖の中に孤立してしまった。毛利の援軍も到着したが、水に邪魔されて手出しもできない。このままでは落城も時間の問題と思われていた時、秀吉は明智光秀から毛利方に送られた使者を偶然に捕らえ、本能寺の変により信長が自刃したことを知る。

一刻も早く京に戻って信長の仇を討たねばならないが、これを毛利方が知れば大反撃に出てくるのは確実。秀吉は急いで停戦交渉に入った。そして中国地方5ヶ国の割譲と備中高松城主・清水宗治の切腹という比較的寛大な条件で、毛利側の使者。安国寺恵瑣との間で和睦を成立させたのが、本能寺の変が起ったのを知ってから、わずか1日後のことだった。

そして秀吉は、水没してできた湖上に船を浮かべ、そこで割腹して果てた清水宗治の見事な最期を見届けた。和平の成立から2日後の6月6日には、全軍の撤退準備を完了して「中国大返し」と呼ばれる記録的スピードで本拠の姫路城を経て、畿内へと戻った。


信長を討った明智光秀と山崎合戦で激突
秀吉は戦場への迅速な移動で先手を取った毛利氏と講和した秀吉は「中国大返し」と呼ばれた強行軍で、本能寺の変勃発から9日後には、大軍勢を率いて尼崎まで到達していた。

この時点で他の織田家の諸将は皆、信長の弔い合戦をしようにも、遠く離れた北陸や関東で敵と対陣中ですぐには動けない。その間に光秀は京の支配権を完全に掌握し、畿内の武将たちを懐柔しながら、兵力を増強しようという戦略をたてていた。しかし、そこに誤算が生じた秀吉である。毛利勢と備中で戦闘中の羽柴勢が、まさか、こんなに早く京に迫って来るとは考えていなかった。秀吉の軍勢がくると、中川清秀や高山右近など畿内の諸将はこぞって羽柴軍に恭順した。これらの諸将は、本能寺の変の直後に光秀も自陣営に誘っていたのだ。また、四国攻めの準備中だった丹羽長秀や信長の二男・織田信孝までもが合流して、軍勢は3万5000にまで膨れあがった。

光秀のほうは、政治工作も難航して京の支配も安定せず、戦いの準備はまったく整っていない。秀吉軍が明日にも京に突入して来ようかという事態になって大慌て、なんとか1万6000の兵力を集めて山崎に陣を敷いた。この地は京の入口にあたり、淀川と天王山の山塊に挟まれた除路で、防陣を敷くには最適の地である。光秀はここで秀吉軍を食い止めようとした。

これに対して秀吉はまず中川清秀の部隊を先発させて、山崎の背後にそびえる天王山を占領させた。もしこの山に明智軍が入っていれば、秀吉軍は挟撃をうけることになる。その戦略的価値に、光秀よりも早く気がついたのは幸いだった。天正10年(1582)6月13日、秀吉軍の主力が到着して、迎え撃つ明智軍との間で激しい戦闘が起こる。

しばらく一進一退の戦いが続くが、淀川河畔から迂回した秀吉の別動隊に側面を突かれて明智軍は総崩れとなる。光秀は後方の勝龍寺城まで退却したが、この小城で籠城は難しい。 本拠の坂本城をめざして逃走したが、その途中に落ち武者狩りの農民に襲われてあっけなく討たれてしまった。 


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