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兵庫県・姫路城|姫にまつわる伝承の白鷺城

姫路城

今から150年ほど前までの姫路城は、現在の数十倍の規模を有していた。今は城址公園になっている堀に囲まれた内側でも、建造物が残るのは当時の3分の1の範囲に過ぎない。城址公園の広場などは三の丸にあたり、建物群が残るのは本丸、二の丸、西の丸だけである。

では、本来の姫路城はどのくらいの規模だったのだろうか。南北の大きさでいうと姫路駅から姫路市中央図書館のある野里門まで約1.8キロ、東西は外京口門から車門まで約1.6キロで、広さは約187平方メートルに及ぶ。

今日の姫路市街中心部がすっぽり入る大きさだった。ちなみに建物が残るのは内城域の南北約200メートル、東西約300メートルの部分だが、建物といっても生活に欠かせない御殿や数寄屋、蔵などはまったく残っておらず、備前丸には何の建物も残存しない。

姫路城は建造物がそのまま残る唯一の城として、国宝、重要文化財、特別史跡、そして世界文化遺産に指定されている。

城郭全体から見ると一部分しか残っていない姫路城だが、これだけまとまって保存されている城郭は、日本でもここだけである。ほかの城は明治に人って政府の発令により破却されてしまった。姫路城も取り壊されることになり、当時23円50銭で落札された。しかし、取り壊しにはあまりに手間がかかりそうなので放置され、天守以下の建物は朽ち果てるままになった。

女難城
姫路という地名の起りは「播磨風土記」に出ている。大穴持ノ命(大国主命)の御子火明命は行状まことに粗暴な神であったので、大穴持は忌みきらい、捨てようと思い、一緒に因達山(姫路市の北方にある八丈岩山のことであろうという)に行き、火明に水を汲んで来いと命じた。

「はい」
火明命が水汲みに出かけると、大穴持は舟の用意をして出発した。間もなく、火明は水を汲んでかえって来て、父神が自分をおきざりにして船出して行くのを見、激怒した。
「ひどいおやじめ! その儀ならば!」
と波風を起して追いかけた。そのため、父神の舟は進むことが出来ず、波浪に瓢蕩せられてこわれたが、その際、舟にのせてあった様々な道具や動物が飛び散って山や丘になった。すべて今の姫路附近の山々だ。

その時、蚕がおちて出来たのが今姫路城のある日女道丘である、というのである。蚕のことを上古は「ヒメ」または「ヒメコ」といったのだ。今日でも静岡県の一部では「ヒメコさん」といっている。

もちろん、この地名伝説はあてにならない。「日本書紀」や「古事記」や「風上記」に出て来る地名伝説はみなこの式のものであるが、つまり古代人の素朴な小説的発想にすぎない。

この山には富姫明神と刑部明神の二女神が祀ってあるところから、姫山と名がつき、その山の麓地帯はそこに行く道にあたるから姫道(路)と呼ばれるようになり、後にその地域がひろがって山も含むようになったので姫道(路)村の山という意味で姫路丘と呼ばれるようになったのではないかと思う。

とこに最初に城が出来たのは、南北朝時代である。創建者はこの国の守護であった赤松貞範であるともいい、赤松の支族である小寺頼季ともいうが、確かなところはわからない。赤松氏は、足利六代の将軍義教を恨むことがあってこれを殺したので、幕府の追討を受けて一時家名断絶したが、その後また再興されて播磨守護に復した。

この時、姫路は赤松氏の支族で被官である小寺豊職の領地になった。城は存続していたかどうか明らかでない。小寺氏は姫路の東方一里ほどの御着を居城としている。もし城が存続していたとすれば、城代をおいて守らせていたのだろう。数十年たって、戦国時代の中頃、この姫路村にどこからともなく旅の浪人が来て、居ついた。どこの何ものとも名のらず、ただ、「黒田入道」とばかり言っていた。

浪人はひどく貧乏で、朝夕の煙も立てかねるほどであったが、ある時、姫路の北方三十町ばかりの山中にある広峰明神に参詣した。広峰明神はその創建は奈良朝の天平時代で、日本最初の祗園神社で、京の祗園社もここから勧請されたといわれているくらいで、中々由緒のある社である。

なぜ黒田入道がそんな気になったか明らかでないが、おそらく盛んな神社の様子を見てすがる気になったのであろう、神主に会って現在の境遇を訴え、何とか方法はないものかと相談した。

黒田入道は後の様子を見ると、中々立派な人柄であったようだ。だからだろう、神主は心を動かした。

「そなた様、諸人の重宝するような薬の処方などご存じでないか。この社は播州一国中の軒なみに祈薦札を配りますによって、その札にそえて、これはわれらが懇意な浪人衆が渡世のために調合せらるる薬でござれば、お札へのお初穂と同じように、米を少々ずつ合力して下されと申したなら、よほどの米が集まろうと思います。さような薬の処方はお知りではないか」幸運にも、黒田入道の家には家伝の目薬の処方があった。

「奇妙なことかな。拙者家にまことに効験ある目薬の処方を伝えています」
「それそれ、それを調合してまいられよ」
播州一国の人を信者としている広峰明神の神主が配布役と宣伝がかりを引受けてくれるのだ。しかも、なかなか効験もある薬であったので、飛ぶように売れた。後には目薬ばかりでなく、気附薬や馬の薬まで売出し、ついに黒田家は大福長者となった。

この黒田入道とは、黒田如水の祖父重隆のことである。黒田家は近江源氏佐々本の一族で、代々江北の伊香郡黒田村にいたので、黒田を氏としたのであるが、落塊して備前邑久郡福岡郷に移り、さらに戦乱を避けて姫路に流浪して来たのであった。
重隆の子は満隆という。父子ともに賢くもあれば、人情深くもあって、次第に百姓らの人気を得て、小豪族となり、御着の小寺家の家来となった。

満隆は中々の人物であったので、小寺政職は信任すること一方でなく、家老の一人とし、名字をあたえて小寺職隆と名のらせ、ついには首席家老として、姫路城もあずけた。

職隆の子が官兵衛孝高、後の如水だ。これがまた智略縦横といった人物。22で小寺家の家老の一人となった。

当時毛利氏は安芸を中心として、その勢力は、西は北九州に及び、東は但馬地方までおよんで、播州の諸豪族は皆毛利氏に服属していたが、官兵衛は織田信長が大器であり、必ず天下取りとなるであろうと見て、主家を説いて、信長に服属を申し送った。天正5年(1577)の10月、その信長の中国方面軍司令官として、羽柴秀吉は播州に入った。官兵衛はこれを姫路の東方二里余の阿弥陀宿まで出迎え、居城姫路を提供した。

以後、姫路は織田氏の中国経略の前線基地となる。
天正8年(1580)、秀吉は城に大修理をし、現在天守閣のある地点に三層の天守閣を営んだ。この一郭を後世太閤丸という。太閤丸は平地から20メートルの高さの地点にあり、後に至るまで姫路城の中心となった。

当時秀吉は江州長浜とこことに城を持っていたが、はじめの頃は妻のねねは長浜にのこし単身姫路に行っていたので、ここには妾をおいた。姫路殿とばかりで、どんな素姓の女であったかわからない。播州の豪族の女で半ば人質であったのではないかと思う。

特筆すべきは、文献にあらわれたところでは、これが秀吉の最初の妾であることだ。
少年時代を流浪の不良少年として送り、20前後に草履とりという賤役をもって信長に仕え、期難辛苦、努力を重ねて、25、6年かかって、ともかくも信長鹿下で五本の指におられるほどの侍になったので、「おれももう妾くらい持ってもよかろう」という次第であったのではなかろうか。こんなところ、英雄も凡人もそう違うものではない。


姫にまつわる伝承の白鷺城
姫路城は1609年、池田輝政によって築城された城郭である。 白漆喰総塗籠づくりの4つの大小の天守が、屋根をひろげて群立するさまは、大空を舞う白鷺の群れに見えるために、通称「自鷺城」とも呼ばれる。

城は戦争のシンボルであるはずなのに、この白鷺城は見る者をなごませ、そこには、きなくささや悲惨さがみじんも感じられない。 大天守が国宝に指定されているだけでなく、日本建築の中で、法隆寺とともに世界文化遺産第一号に登録された。

一般に「城」といえば、多くの人々がこの姫路城を思い浮かべるという。当初の天守や曲輪、石垣などが、ほぼそろって今に伝わったほとんど唯一の希有な城郭である。

姫路の地は、山陽道と山陰道を結ぶ基点で出雲街道、因幡街道、但馬街道が分岐する陸上交通の要衝である。1346年にはすでにこの地に赤松貞範が姫山城を築き、その後、城主が二転三転した結果、1580年には豊臣秀吉が入城し、二重の天守を建立した。 1600年、関ヶ原の合戦後、その軍功が認められて、池田輝政が入城したのである。


姫路城(兵庫県姫路市本町)
別名 白鷺城 
所在地 姫路市 
種類 平山城 
築城者 池田輝政 
築城年 慶長6年から14年(1601~9)
歴代城主 池田氏 本多氏 松平氏 榊原氏 酒井氏 
石高 酒井氏15万石 
遺構 天守閣 櫓 門 など原形を保存し日本一の城郭
遺構 国宝



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