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城の平面設計を縄張といい空堀が基本だった

城の平面設計の縄張りと空堀と水堀の違いを解説

縄張とは
城の平面設計のことを縄張といいます。一定の長さごとに印をつけた縄を使って長さを測っていたことから、こう呼ばれるようになったといわれています。中世の城は山を利用した山城がほとんどでした。

山の中なので平らな部分が少なく非常に狭いもので、一般的には頂上部分を削って本丸、その下の尾根に二の丸、三の丸と造っていきました。

中世の城の特徴は、山城部分に城主の居館(近世の城の御殿にあたる)がないことと、城の周囲に城下町がないことでした。

近世に入って城が平地に造られるようになると、平らな部分が多くなり、縄張も広くなっていきました。城主の居館である御殿や櫓や城門、水をたたえた堀も造られ、また城の敷地の周囲に城下町を構えるようになりました。江戸時代になると、縄張を研究する「軍学」という学問が盛んになりました。

儒学などの学問と同様に大名の教養とされ、荻生祖棟や山鹿素行といった当時の有名な儒学者たちによって大名たちに教授されました。

こうした軍学によって考え出された城の縄張は、武家諸法度(元和元年、1615)によって新しい城を造ることが禁止されていたため、実際に造られることはほとんどありませんでした。

幕末に松前城や五稜郭といった、軍学者が縄張をした城が造られましたが、どちらも戊辰戦争で実戦が行われたものの、落城してしまいました。軍学は、あまり実戦的な学問ではなかったようです。


縄張の基本
縄張の基本は、曲輪(郭)の配置ですが、堀、塁、虎口(出入り口)、通路などの普請もそのなかに含まれます。形状からは、曲輪を輪状に配置した「輪郭式」があり、これは本丸を中心にそれを取り囲んで二の丸、さらに三の丸が置かれている縄張のことで、大阪城・名古屋城・松本城などがこれにあたります。

梯子状の「梯郭式」は、本丸を中心として出丸を連ねた型の縄張で、犬山城力該当します。曲輪を連ねる「連郭式」は、本丸・二の丸・三の丸と連ねて配置するもので、彦根城・大垣城・島原城があります。
さらに縄張には軍学(兵法)上からさまざまな工夫がされています。

たとえば、曲輪の形状や虎口の外側に馬出を設けるようになったこと、また桝形の考え方、さらに横矢の種類などに軍学的応用がなされているのです。

近世城郭の縄張は、江戸時代の初期ごろまで、実戦経験の豊富な戦国大名や家臣の手によるものが多かったようですが、時代が下ると実戦よりも机上の理論から縄張が考えられるようになりました。

江戸時代の軍学には「甲陽軍鋤で知られる甲州流、上杉謙信を祖とする越後流の二大流派があり、多くの軍学害が著されました。

ただし、これらには、机上の軍学理論といわざるを得ないものが多く、これを縄張に応用したとしても、はたして実戦に際し、ほんとうに役に立つかどうかは疑問です。

また、中国の陰陽五行説に従い、攻撃を主眼にしたのが「陽の縄張」、守勢に重点を置いたのが「蔭の縄張」で、双方の利点を生かした縄張を理想とします。



堀・土塁
堀とは、土を掘るという意味が転じたものであり、土を掘った深い溝、すなわち「空堀」がもともとの形といえます。この「空堀」は、古代・中世・近世の城郭を問わず使用されていて、水がなく断面がV形もしくは逆台形になっていました。

多くの場合、最下部の底が通路として使用されています。「空堀」とは、一つの曲輪もしくは一部分を回るものであるのに対し、「堀切り」は、丘陵の城や山城に用いる空堀を指し、尾根や丘陵をナタで切った感じになります。

これに水を引き入れた「水堀」は、平山城や平城の登場する中世末期から近世にかけてのものです。濠とも書き、戦時では堀に使用、平時は水運の利用に供するものもあります。


堀は、その断面からいくつかに分類することができます。「箱堀」は堀の断面がほぼ垂直で、底が平らなもの。「毛抜堀」は、堀の底を丸形に掘ったものをいい、空堀・水堀の両方に見られます。

「薬研堀」は、形状が薬を擦り潰す薬研に似ていることから名付けられ、堀の最下部がV字形をしています。両方の側面が傾斜して交わっているものを薬研堀、片方のみの傾斜角が違うものを「片薬研堀」と呼んでいます。

また、川をそのまま水堀として利用、海に近い城では、海水を導入することもあります。

堀とは反対に、土を盛り上げて内部を防御するものが「土塁」です。土を用いるから土塁、石を用いれば石塁になります。


空堀
中世の城において城域に敵を入れないようにするためには、土塁を高くするか、深い掘を掘る必要がありました。中世の城はほとんどが山城で、山の上では水を溜めておくことができないため、堀は水のない空堀でした。

中世の空堀は、山の尾根を切って敵の侵入を防ぐ堀切や、山の斜面を縦に切って、横からの侵入を防ぐ竪堀が主なもので、幅はせいぜい五間(約10m)でした。竪堀を連続して掘ったものを畝状竪堀といいます。

このような堀を掘るには両側から45度の角度で切り込んでいき、深さが幅の半分になったところで両側の斜面がぶつかって堀ができあがります。堀底は狭く歩くことさえできなくなります。


水堀
近世になって平城が多く造られるようになると、堀も水堀が中心になってきます。なお、かつては水堀を「濠」、空堀を「壕」と書いて区別することもありました。読み方は両方とも「ほり」です。

山では水を溜めることができませんが、平地ならば海や川から水を引いてくることもできましたし、堀を掘れば自然に水が湧いてくることもありました。

近世の城では、堀を何重にも巡らすことが多く、二重の場合には内側から内堀、外堀、三重の場合には内側から内堀、中堀、外堀と呼ばれることが多いようです。総堀は一般には外堀を指しますが、城によっては、外堀のさらに外側に造られた城下町を囲う堀を指すこともあります。

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