毛利元就を一躍有名にした陶晴賢との厳島合戦の真実とは

毛利元就と厳島合戦

「英雄・元就」はとんでもないウソ
戦国時代、後世に悪名を残したということで有名な人物に陶晴賢がいる。歴史作家の海音寺潮五郎氏が、その名著『悪人列伝』で取り上げた戦国武将はたった三人しかいないが、そのなかに彼がいる。もちろん選ばれたのは、晴賢がこの時代を代表する悪人と見られていたからだ。彼は大内家に仕える重臣だったが、当主の義隆を殺し、これがのちには大内家そのものまで消滅させてしまうことにつながった。

こうしたわけで、その名は「逆臣」として長く語り継がれている。 いっぽう、この逆臣を「厳島の戦い」で討ち取ったことによって名を挙げた人物もいる。のちに「西国の雄」ともいわれ、中国地方十力国をその支配下に置いた毛利元就である。ちなみに明治時代に作詞された『鉄道唱歌』の「第二集山陽九州篇」の厳島の箇所に、元就を讃える歌詞がある。 毛利元就この島に 城をかまえて君の敵 陶晴賢を誅せしはのこす武臣の鑑なり蛇足を覚悟で断わっておくと、この歌詞の「君」というのは大内義隆のことだ。なぜ元就の「君」が義隆なのかというと、毛利家がある時期、大内家を「主家」として仰いでいたからである。

話を戻せば『鉄道唱歌』にもあるとおり、元就は主家だった大内家の敵である陶晴賢を厳島で破った英雄ということになっていて、これは「常識」である。 だが、それは、とんでもないウソなのだ。 というのは、この陶晴賢の謀反には、毛利家も加担していたからである。 つまり、毛利家は、その事実を隠して、英雄になりすましたということになる。 「謀反の一味」から「武臣の鑑」へ驚くべき変わりようだが、これにはちゃんと動かぬ証拠があるのである。

劣勢を挽回しようと毛利元就が仕組んだ罠に陶晴賢が陥ってしまった厳島合戦
長門、周防を本拠とする大内氏は中国地方最大の戦国大名だった。しかし、重臣の陶晴賢が謀反を起こしその大内家を纂奪する。この頃、毛利元就は大内氏傘下にあった。当初は晴賢に臣従したが、やがて元就が安芸国の大半を掌握すると、晴賢の支配から脱して反旗を翻す。猛将として恐れられた晴賢がこの裏切り行為を許すはずもなく、元就討伐の出兵が計画された。

元就の側でも晴賢の侵攻に対処して防備を固めた。厳島にも宮尾城を築いたが、元就は「官尾城を築いたのは失敗だった。もし、あの城を陶軍に奪われたら大変だ」と弱音を漏らし、それが毛利を裏切った者により伝えられた。それが罠とも知らず、弘治元年(1555) 10月、晴賢は2万の軍勢を率いて安芸へ侵攻。まずは元就が最も恐れた筈の厳島の宮尾城を攻めた。陶軍は厳島神社付近に本陣を置いて、宮尾城攻略にかかろうとしていた。

この時、元就は全兵力の4000を結集して厳島の対岸まで来ていた。そして密かに同盟していた村上水軍の協力により、夜になってから全軍を厳島へ渡らせた。この夜は暴風雨が吹き荒れていただけに、まさか敵が海を渡ってくるとは思えず、陶軍の監視態勢にも油断があった。毛利軍は夜のうちに陶軍陣地の背後まで忍び寄り、夜明けとともに一斉攻撃。前方の官尾城の城兵も呼応してこれを挟撃した。この時、陶軍の兵たちはまだ眠りの中にあり、奇襲攻撃は完全に成功した。こうなると5倍の兵力差などまったく問題にはならず、陶軍は大混乱となり壊滅し、晴賢も戦死した。この後、大内氏の勢力は一気に弱まり、元就は中国地方の最大勢カヘと急成長してゆく。  

綿密な計画のもとに実行された謀反
それでは、毛利家が陶晴賢の謀反に加担していたという証拠を挙げよう。 証拠物件は、陶晴賢が主君の大内義隆に謀反を起こす1年前、晴賢が毛利元就の次男、元春に出した手紙である。 そこにはこんなことが書かれているのだ。 「義隆とそれがしの関係はもはや修復が不可能なようなので、若君を取り立てようと老臣たちと相談しているところです。

そういう次第なので賛同していただけるなら本望に思います。ついては、望みがあればお聞かせ願いたい。きっと叶えてあげますから」。これはまぎれもなく、謀反の計画を毛利家に伝えたものなのである。「若君を取り立てる」ということは、今の主君である義隆を排除するということに他ならないからだ。

さて、ここで、もしも元就が『鉄道唱歌』が称えるように「武臣の鑑」だったなら、謀反の計画が書かれたこの手紙を「主家」と仰ぐ大内家に見せたはずである。 ところが、そうしなかったからこそ、晴賢の謀反は成功したのである。なぜそうしなかったかはいうまでもない。毛利家もこの謀反の共謀者だったからだ。

そうでなければ、晴賢だって、わざわざこんな危険な手紙を毛利家に出す理由がないのである。 右の手紙は天文19年(1550年)に出されたもので、日付は8月24日となっている。実はこれと同じ日、晴賢が元就と隆元(元就の嫡子)宛てに出した手紙も残っている。それには、「老臣たちと相談の上、例の取り立てのことが決定しました。内々申し合わせたとおりに事をとり行ってください」と書かれている。

前の手紙にくらべると、重要なポイントをボカしたいい方だが、元春宛ての手紙から類推すれば「例の取り立て」は「若君の取り立て」のことだと考えていいだろう。さらに、ここでは「内々申し合わせた」ともいっているから、この謀反についてはこの手紙が出される以前から、両者の間で内々に相談がすすめられていたのである。 だとしたら、晴賢はこうした下準備を済ませたうえで、翌天文20年に謀反を起した、ということになる。ここで、晴賢が犯行を開始してから犯行の目的を達成するまでの日付を追ってみると、晴賢が兵を挙げて、大内家の本拠地、山ロヘ攻め込んだのが8月28日。

これに対して大内義隆が山口を放棄し、長門へ逃亡したのが8月29日。 逃亡をあきらめた義隆が、長門深川の大な曇守で自害したのが9月1日。 大寧寺の裏山に隠れていた義隆の嫡男、義尊が、晴賢側の兵に探し出され、殺害されたのが9月2日である。 では、今度は、その頃の毛利家の動きをみてみよう。 事件が起こる8日前の天文20年8月20日。この日、厳島の神官が記した『房顕覚書』には、元就の合意のもと、厳島が晴賢の家臣である大林という人物の管轄下に置かれることになった、とある。

これは、謀反を起こす直前に晴賢が、重要な軍事拠点である厳島をいち早く自分の占領下に置いたということだが、この謀反の下準備に毛利家は了解を与えていたのである。 さらに事件後、毛利家はすぐに大内家側の佐東銀山城を攻略し、つづいて義隆の近臣、平賀隆保の頭崎城を9月4日に攻略した。 つまり、毛利家は、義隆が自害してからわずか3日のうちに二つの城を落としたということだ。この迅速な軍事行動も、あらかじめ元就が晴賢の謀反を知っていたとすれば納得がいくのである。

ちなみに、この事件から31年後の天正10年(1582年)に起こった本能寺の変は、毛利家にとって「本当に予期せぬ出来事」だったようで、変から13日も経った6月15日の時点で、まだ正確な情報収集すらできていなかった。この例は極端だとしても、もしも晴賢の謀反が同じような予期せぬ出来事だったなら、もっと「寝耳に水」と慌てたり混乱した様子が伝わっていてもよさそうなものだろう。 しかし、史料が伝えるところでは、慌てるどころか毛利家は、まるで用意してたかのようにすみやかに軍事行動を起こしているのだ。もうひとつ。事件のあと、晴賢の家臣が安芸の豪族、天野隆網に出した手紙は、謀反の成功(義隆の自害)を伝えたあとで、次のようにいっているのである。

「武将の配置については、元就に伝えてあるので、彼の指示を仰ぐように」 これも、謀反の前に晴賢と毛利家との間で、綿密な打ち合わせがあったことを匂わせる内容である。 これだけの証拠が揃えばじゅうぶんだろう。晴賢が謀反を起こすということを毛利家は了解済みだったのだ。いや、知っていたどころではない。毛利家は晴賢の謀反を積極的に支援している。なぜかといえば毛利家も「謀反の一味」だったからである。



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