石川県・金沢城|三度に及びヨーロッパのテクニックを導入

金沢城(石川県金沢巾丸の内)

金沢城
国重要文化財 石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫
別名 尾山城、金城
分類 平山城
築城年 天正8(1580)年、天正11 (1583)年
築城主 佐久間盛政、前田利家
主な城主 佐久間氏、前田氏
石川県金沢市丸の内1-1

金沢城は、天正11(1583)年、前田利家が入城して以後290年間、14代にわたり、加賀藩前田家の居城でした。

翌年から利家は城の改修に取りかかり、曲輪、天守、御殿、石垣などが徐々に整備され創建されていきましたが、落雷や大火でたびたび焼失、現在の城の基本形は、寛永8(1631)年の大火の再建後にできあがったと言われています。

戦後から平成7(1995)年までは、金沢大学のキャンパスとして利用されていましたが、平成8(1996)年から、石川県が国から金沢城址を取得して、金沢城址公園として整備を開始、菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、河北門などが復元されました。

加賀藩は利家が能楽や茶の湯をたしなんだこともあり、早くから雅な文化が育まれていきましたが、5代藩主・綱紀の時代に、今の兼六園の前身である、綱紀の別荘の周りの庭園が造られるなど、花開きました。食も、お茶も、焼き物もすべて水準が高い。その意味でもここは大事な城のひとつですね。

NHK大河ドラマの舞台になる城は決まって大観光地となり、様々な復元建物ができる。加賀百万石の金沢城も「利家とまつ」が放映される前年に、二の丸の菱櫓、五十間長屋、橋爪櫓、橋爪門、鵺の丸の太鼓櫓と海鼠塀が復元された。

しかも菱檜は三層づくり、橋爪櫓は二層三階、五十間長屋は総二層の多間櫓である。この復元された二の丸には明治五年以来陸軍師団が置かれ、建物はもとより石垣と堀も撤去されていた。戦後は金沢大学キャンパスとして利用され、金沢市民にとって、城下町としての原点である城は馴染みの薄い存在だった。

城と違って前田利家と金沢の武家文化を凝縮する兼六園は金沢の人々にとって誇りであり、精神的な原点のような存在だった。金沢城から大学キャンパスが移転したのは平成7年(1995)のこと。県と市では広大な跡地の利用計画を模索する中、NHKドラマ化が決まった。

平成13年、ついに二の丸の一連の復元建物が竣工すると、連日数万人が訪れ、あっという間に二の丸の一連の復元建築群は、以前よりあったかのような姿で、市民のシンボルとなった。天守以外の復元で、これほど観光的に、また市民に受け入れられた復元建築も珍しいといえる。


ヨーロッパ都市計画の影響
金沢城について驚かされるのは、その国際性である。かつて「裏日本」などと差別的に呼ばれた北陸の一城郭に、じつは江戸城に先駆けて、3度に及びヨーロッパのテクニックを導入してつくられた形跡が認められる。

1度目は、1599年、かの有名なキリシタン大名・高山右近が築城にかかわった時。二度目は、1631年、火災にあった金沢城の再建の際に、西欧文化を学んだ小堀遠州が関与した時。

高山右近が日本に残した文化的足跡は、ルネサンスの芸術家ミケランジェロに匹敵するだろう。 いっぽう、小堀遠州も幕府作事奉行として数々の名建築を設計し、また将軍茶道指南として茶道の頂点に立ち、さらに加賀前田家のアートプロデューサーと呼ぶべき立場にあり、その才能は、同じくルネサンスの芸術家レオナルド・ダ・ヴインチに匹敵するだろう。

この2人が果して金沢城にどのようなヨーロッパの影響を与えたのだろうか。


この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!


ナビ
Page Top