関東の城 一覧表|日本全国お城情報

関東 城リスト

土浦城(茨城県土浦市亀城公園)
霞ヶ浦に臨む土浦に亀城と呼ばれ、湖の砂洲上に築かれた城がある。本丸には太鼓櫓門とも太鼓門とも呼ぶ櫓門が現存する。江戸城以外で櫓門が残る城は、関東では土浦城だけである。

この太鼓榴門は、本丸正門に州当し、さらに本丸搦手門である霞門も残存する。このほか、高麗門が移築保存されている。

本丸には櫓門のほか二基の二層櫓がある。いずれも発掘調査と古写真でその規模を確認し木造で復元した西櫓と東櫓である。この二基の櫓のほか、塁上には錬楼櫓があった。結城秀康時代には天守が存在したらしいが、その位潰、形状等はまったく不明である。

創築は永享年間、今泉三郎という小田氏の被官によるといわれる。天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めで、秀吉は徳川家康の次男結城秀康を土浦城主とした。土浦城は、秀康時代に大城郭に改築され、城下町も整備されたとみられる。

周知のとおり、秀康は関ヶ原合戦後に越前北庄(細川)に移封、藤井松平氏、西尼忠永が相次いで入城。慶安2年には朽木柏綱が入城。現存する太鼓櫓門を今の形に改築した。寛文9年(1669)、土屋数面が入城、以降土屋氏が、短期間松平氏を挟むが代を世襲して明治を迎えた。


唐沢山城(栃木県佐野市・安蘇郡田沼町)
唐沢山城は、藤原秀郷の後喬、下野の名族佐野氏の本城であり、戦国時代には上杉謙偏と北条氏康が北関東の覇権を賭けて争った山城としても名高い。

佐野氏は戦国時代に古河公方に属し、盛綱・秀綱・泰綱・豐綱・昌綱と続いた。古河公方足利晴氏が北条氏綱の女と結ばれ、その子義氏が公方を相続すると、北条氏の台頭を恐れた長尾景虎は、関東椅価として関東に出陣、永禄4年には上杉政虎(のちの離慌)を名乗り、厩僑城に入り、唐沢山城を攻撃した。翌5年3月にも政虎は唐沢山城を攻めるが昌綱はよく防いだ。

しかし同7年2月、政虎改め輝虎は、唐沢山城を総攻撃、昌綱はその軍門に降った。同8年11月から翌9年12月までは輝虎自身が入城し、北条・武田の来襲に備え、色部氏を城代とした。同12年北条氏と輝虎は同盟し、「越杣一和」がなり、天正2年(1574)には、北条氏の領国に組み込まれ、北条氏康の五男氏忠が佐野宗綱の跡目として城主になった。


金山城(群馬県太田市金山町)
新田金山城の名称で知られる当城は、新田氏の後商岩松家純が文明元年に築いた。

家純が築いたのは実城と呼ばれる本丸に相当し、居舘は大手口にあったと考えられる。その後岩松氏にかわり重臣の横瀬氏が台頭し、横瀬氏は足利成氏八千の大軍を撃退し、明応4年に「屋裏の錯乱」と呼ぶお家騒動を起して岩松氏にかわり金山城を掌握、横瀬成繁は上杉謙信、北条氏康と従属関係を保ちながら、生き残りを図る。

永禄11年頃、成繁は横瀬から由良へ苗字を変え、桐生、足利地方を制圧、戦国大名へと成長する。しかし武田氏滅亡後、由良国繁の代になると、北条氏照が利根川を越え金山城を総攻撃、国繁は北条氏軍門に降った。北条氏は金山城を直轄城とし、国繁が進めていたであろう改修を引き継いだとみられる。



館林城(群脇県館林市城町)
城沼と呼ぶ沼のほとりに向井千秋記念子ども科学館があり、宇宙に関する科学展示が細かくなされている。女性宇宙飛行士向井千秋さんが館林出身であることから、館林城本丸を潰して市役所と共に建設された科学館だ。

よく注意すると南側に一段高い土盛りがある。士塁である。東側を熟視すると八幡神社が小高い土盛り上にある。やはり本丸を囲んでいた士塁である。

館林城は、地元では尾曳城と呼ぶ。弘治2年二、豪族赤井照康が大袋城にかわり当城を築こうとした時、大袋稲荷社の白狐が現われ、尾を曳いて縄張した、という伝承から名づけられた。

本丸北側の少し高い一画には稲荷曲輪があり、白狐を祀る尾曳稲荷社が本丸に隣接した八幡曲輪には、つつじ会館と花菖蒲園がある。旧城主の秋元志朝(但馬守)ら秋元家の屋敷跡である。三の丸士橋門も川秋元家表門として残されていた門を復元したものだ。

忍城(埼玉県行田市本丸)
行田を訪れると、今も市街地に忍沼が横たわる。かつての古利根川の流路の名残りだ。この忍沼に浮かぶ島を城地としたのが忍城である。

城の始まりは鎌倉御家人となった成田氏の舘が営まれたことによる。成田氏は室町戦国時代に有力国人領主に成長、上杉謙信に属したのち小田原北条氏に属した。天正十八年、豊臣秀吉は、小田原攻めにあたり、石田三成、長束正家に忍城攻めを命じた。

三成は忍沼と忍城が一望できるさきたま古墳群の丸墓山古墳を占拠して陣城を構築し、忍沼に入り込む忍川の水量を嵩あげして忍城を孤立させる長期戦に出た。

すなわち、丸墓山古墳を基点に東側と南側に堤防を築いて忍沼の水位をあげ、忍城を水攻めにする作戦だった。石田三成の水攻めに対し、もともと水城でしかも補給路を確保していた城側は、びくともしなかった。

小田原本城が開城しても、忍城は開かなかった。丸墓山の本陣で豊臣勢は、徒労に終ったのだ。今日、丸墓山古墳には、三成が水攻め用に築いた堤の一部が、史跡として保存されている。


久留里城(千葉県君津市久留里字内山)
久留里城は房総半島の中央部の山稜上にある本格的な山城だ。海抜180メートルを測る城は雨城といわれ、常に霧深い山城なのである。今日、山頂に登ると二層の天守のような建築があるが、これはあくまでも想像の建物で、実際に廃城前に存在していたかどうかは疑わしい。

築城は、房総半島を戦国時代に支配した里見氏の中でも、その全盛期をもたらした義堯によった。義尭は天文10年(1541)、上総国守護代をつとめる真皿谷城の武川氏攻略のため、内陸部に入ったこの久留里に本拠を移したといわれる。

義堯の子義弘は上杉謙信と結び府台で北条氏康と対戦するが、謙信は大雪で足止めされ、また武蔵では北条氏に味方する武士も多く、予想に反して敗れて久留里城を撤収。天正2年には上総も失い、安房一国を領するに過ぎなくなった。

久留里城が再び世に出るのは寛保二のことで、上野沼田から久留里に三万石で封ぜられた黒田直純によって。頂純は幕府より5000両を借り受け城を再修、川麓を居館とし、山城に本丸・二の丸を配した近世山城とした。この時、山城をどのように改築したのか詳らかではない。


大多喜城(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)
房総半島の山々が連なる夷隅山系の中央、夷隅川が蛇行する谷間に大多喜町があり、町を見おろす断崖上に、本多忠勝が天正18年に築いた当城がある。忠勝は当初、小川喜根古屋城に入ったが、夷隅川がつくる要害のこの山上と麓に新たに城を築いて移った。

忠勝が徳川譜代の臣として当時破格の十万石の禄高をもってこの地に封ぜられたのは、里見氏に対する戦略からだった。江戸を核とする豊臣大名惚川240万石に対時して、房総半島の先端、安房を領する里見義康があった。

半島を北上し、江戸湾を渡り、北条氏と戦い続けた、反骨精神神あふれる里見氏から徳川領国を守る、安房里見氏を封じ込めるための築城だったのだ。

川城山頂には三層の天守があがったが、この天守は天保13年に焼失。詳しい形状は判っていない。昭和五十年に今の模擬天守が博物館として鉄骨コンクリートで建てられたが、このように大きな建築ではなかったのは確かである。



甲府城(山梨県甲府市丸の内)
JR中央本線で新宿駅から甲府へ向かうと、甲府駅の少し手前からそびえ立つ二重櫓が目に飛び込んでくる。平成16年から高石垣の手前に出現した、白亜眩いばかりの稲荷櫓である。

甲府城は平成2年度より山梨県が史跡として保存修築を進めてきた。主目的は、鉄道と大型自動車等による石垣の積石のズレを防止・修築しようとする石垣改修であった。松喰虫で、石垣上に茂っていた松が枯れてしまったことも石垣の崩れを早めた一脚だった。

石垣が修築され、松にかわり桜が植えられると、人々は、どうしても石垣上に建物が欲しくなる。県では鍛冶川輪に長塀をつくったところ、大好評となり、城址の西側(県庁側)に士塀と門を復興させた。


躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市屋形)
JR甲府駅前より武田神社行のバスに乗る。
武田神社境内が武田信玄が府中と呼んだ躑躅ヶ崎館の跡である。バスに乗ったら(姉路のほうが判りやすい)『武田神社に向かって道が緩やかに上っていることに注目されたい。館の敷地、土塁上からは甲府盆地の大半が望まれる。この館は信玄の父信虎が石和館から移した甲斐守護所であった。

守護所は行政府のことで、戦闘面の拠点は、館の背後にそびえる要害山城(標高775メートル、比高205メートル)にあった。要害山の麓には武田信玄誕生の地といわれる積翠寺がある。信玄こと晴信は甲斐国内に堅川な城郭は築かず、城という構築物より、人心が一つになって戦う兵力を重視したという。「人は石垣、人は城・・・」というわけだ。

ところが、ここ躑躅ヶ崎館や険峻の要害山、川中島合戦の海津(松代)城、伊那谷を押さえる館跡の土塁と水堀の高遠城、織田信長との東美濃の攻防、今川領への侵攻などをみると、むしろ晴信はその全盛期においては、山城、平城、丘城を上手に使い分ける取出戦法に長けていたようである。

新発田城(新潟県新発田市大手町)
越後新発田は、溝川氏十万石の城下町である。築城者は溝口秀勝で、溝口氏は慶長3年の入部以来、明治に至るまで新発田を動かなかった大変に珍しい特筆される外様大名であった。

秀勝は、名築城家として知られる丹羽長秀に仕え、岐阜・佐和川・大満・安土・大坂各城の築城に関わった。秀の名乗りは長秀の一字である。天正13年、長秀が没すると羽柴秀吉は秀勝を堀秀政の与力とし、大聖寺城主とした。秀勝は豊臣大名となったのだ。

文禄元年(1592)、築城のノウハウに長ける秀勝は秀吉に肥前名護屋城の普請助役、続いて伏見城助役を命ぜられ、慶長3年に主家恥秀治が上杉景勝の会津転封に伴い越後に封ぜられると、新発田六万石(入封後に1万6000石加地)に封ぜられた。秀勝は関ヶ原合戦で徳川方についたため、新発田城を安堵された。


高田城(新潟県上越市本城町)
上越の城といえば上杉謙信ゆかりの春日山城であるが、春日山城にかわり江戸時代を通して上越の地を治めたのが、ここ高川城であった。春日山城は海抜180メートルの山城である。そこで上杉氏にかわり越後を領した堀秀治は、日本海の水利を生かした海城を直江津に築いて福島城と称した。ところが福島城は日本海の荒波と風雪で思うように機能しない。

そこで慶長15年、徳川家康は六男松平忠輝を上越60万石に封じると同時に、新たな築城を東北、北陸、信越の大名十三家に命じた。ことに忠輝を女婿とする伊達政宗は普請工事の中心になったといわれる。

高田の地が選ばれたのは、直江津に隣接し、矢代川・関川などが合流して、信濃から日本海に出る関門であったからだ。加賀の前田利常、米沢の上杉景勝ら北陸と奥羽の外様大大名に助役を命じることで、徳川政椛に二心がないことを行動で示させたのである。

城は方形の本丸を中核に輪郭式に二の丸・三の丸・山宝、里丸が縄張される。最大の特色は、塁壁には一切石垣を用いず、土塁で統一していることだ。大坂への出陣を前に、家康が築城を急がせたためという。そのためか天守はあがらず、本丸の三層檜を御三階と称して天守の代用とした。今日復興されている御三階櫓の位置にあがっていた。

春日山城(新潟県上越市春日山町)
上越市の閥、海抜180メートルの春日川は上杉謙信の居城としてあまりに有名だ。春日山の麓、林泉寺の手前に監物堀と呼ぶ大手川がある。堀監物が側伽からの枇矢掛りという鉄砲攻撃ができるように土塁と空堀を強化した春日山城の正門である。

近年この辺り一帯が発掘調査後に整備され、資料館も建てられ、春日山城の新たな見どころとなっている。

林泉寺には春日山城から移したといわれる山門が残る。鏡柱を用いた草葺きの門で戦国山城らしい城門の姿を呈している。春日山城は、永正10年(1513)に越後国守護代長尾為景が築き、府中の舘から移り住んだことに始まる。なお、長尾氏の主家越後守護職上杉房能は直江津の御舘にあった。

為景が入城するまで春日川は鉢ヶ峰と称し、南北朝争乱期に長尾高景が府中の舘の詰の城を置いた。府中にとって春日山は逃げの城として重視されていたわけだ。長尾為景は守護房能と対立、房能の兄で関東管領上杉顕定は鎌倉より為景征伐軍を越後に送る。為景の春日山築城は長尾氏の自立を内外に示す行動だった。



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