近畿の城 一覧表|日本全国お城情報

近畿 城リスト

小谷城(滋賀県東浅井郡湖北町)
戦国時代、湖北地方を三代にわたり支配した浅井氏の居城が小谷城である。城は大きく三ブロックに分けられる。浅井家及び一族と家臣団が日常生活を営むため、谷間に形成された居舘と屋敬地からなる清水谷。

標高494メートルの大嶽と呼ばれる戦闘川の詰の城地区。そして広間、本丸を中心とした山城域である。この広大な川城に石垣が用いられるのは、三代長政の頃で、元亀年間(1870~73)と推定される。

この小谷城の石坦を築いた湖東の石工たちは、小谷城の南西、伊吹山の麓の近江守護京極氏の舘に、石垣と素晴らしい立石からなる庭園をもたらした石工たちである。彼らは、のちに羽柴秀吉が築く長浜城、丹羽長秀が築く佐和山城、そして信長が築く安土城の各石垣普請に多大な貢献をするのである。

彦根城(滋賀県彦根市金亀町)
徳川赤備えの城、彦根城は琵琶湖に臨む丘と麓にあり、JR東海道本線の車中から彦根市街地にぼっかり浮かび上がる城が眺められる。徳川赤備えとは徳川家康の天下統一のために戦った軍団のうち、真紅の甲冑、武器、武具で装備を固めた井伊家をいう。

井伊家は幕府大老井伊直弼でおなじみの徳川将軍家直参の宿老である。戦国時代には井伊直政が徳川四天王の一人として数々の戦功をあげ、家康が江戸入部の際には上州箕輪城と高崎城の城主となった。

関ヶ原合戦で天下人となった家康は、大坂城の豊臣方勢力を封じるため、井伊直政を佐和山城主に任じた。佐和山城は石川三成の旧居城。中山道と北国街道を押さえ、琵琶湖水運を把握する地にある。

ところが佐和山城はあまりに険しい山城だったため、軍事拠点にはなっても城下町を伴う政治、経済の中心地にふさわしくなかった。そこで直政は琵琶湖に浮かぶ磯島に城を築き、周囲を埋め立てて陸続きとすることを思い立った。

埋め立て等に必要な石材は長浜城と安土城から水上輸送したと伝えられる。こうして彦根築城は徳川幕府の直桔として近畿、北陸の諸大名へ助役を命じ敢行された。

二条城(京都府京都市中京区二条堀川)
二条城は金閣・銀閣・清水寺と並んで京都を代表する観光地である。修学旅行など団体で訪れた人のほとんどは国宝二の丸御殿を見学して、その絢燗さに圧倒されて帰ってしまい、本丸や西側には足を運ばない。

本丸に人々が訪れるのは、本丸に移築保存された桂桝邸が年数回一般公開される時だ。椎宮邸は本丸御殿と称しているが、城郭建築ではなく公家貴族邸で、二条城が城の機能を失ってからの移築建築である。

二条城中を二の丸から北ないし南へ本丸の水堀に沿って歩くと、北も南も共に中仕切門がある。この二つの中仕切門を南北に結んだ線の東側が家康造営の二条城の範囲で、家康時代の天守は北中仕切門脇にあった。

豪華朧々の二の丸御殿は、日本文化円熟の桃山時代を代表する建築と庭園からなる。御殿建築は書院造で、床の間、付書院、帷台描が上段に設けられ、狩野派絵師による、松をはじめとする植物、虎や麓などの鳥獣、中国の説稲が主題の障壁画群が室内を飾る。現存する書院建築では最古の遺描である。

園部城(京都府船井郡園部町小桜町)
ここ数年園部を訪れていない人なら園部の変容ぶりに驚いてしまうだろう。なんと巨大な鉄骨コンクリート製の天守閣が、園部城の真ん前に交流会館という名で立ちはだかる。

初めて園部城を訪れる人なら、この巨大な天守閣風建物のある所が城であろうと勘違いしそうである。天守閣風建物が建っただけでなく、二十数年前までしっかり残っていた武家屋敷街なども、かなり姿を消してしまっているのは残念でならない。

園部城本丸は、府立園部高等学校となっている。本丸である櫓門が高校服門として残り、櫓川に接して全国でも珍しい遺構の番所建築が残り、本丸南東角には巽櫓が二層で残存する。

この櫓門・番所・巽櫓を結ぶ形でかつての本丸土塀が残っている。とりわけ柵門仙方の坂道(かつての土怖)南側に残存する土塀はきわめて貴重な遺構だ。かつては右側にも土塀があって、この土橋(廊下橘)を往来して本丸に出入りする者を外部から見えなくしていた。

福知山城(京都府福知山市内記)
福知山城は、丹波を押さえる上で交通・軍事上の要である。京都の北にあって山陰地方を押さえる上でも重要な位置にある。

福知山城は、中世に横山城と呼ばれていた時代、横山氏が居城としていた。天正7年、織田信長は丹波・丹後から山陰方面の制圧を明智光秀に命じた。光秀は横山城を攻略し、現在復元されている天守や残存する本丸周辺の石垣を構築、城を福智山城と改めた(のち福知山に変わる)。

光秀は藤木椎兵衛、明智秀満を奉行、城代として築城を行った。二層の大入母屋に、三層廻縁高欄をめぐらした形で造営された天守は、安土城、大坂城と並ぶ安土桃山期を代表する建築であった。小天守や菱櫓が有馬氏時代に付け加えられたらしいが、古図に基づいて外観を再現した今日の天守は、実に変化に富む。

舞鶴城(京都府舞鶴市南田辺)
JR西舞鶴駅の北側に石垣が見える。舞鶴城の石虹である。舞鶴城は宮津城と共に日本海に面した海城で、共に京極氏ゆかりの城である。宮津城は明治以降に徹底的に破壊されて見る影もないが、舞鶴城は石垣がよく保存されている。

舞鶴城の見どころは、天守台石垣と本丸に残る石垣である。水堀を伴って残る景観は、安土桃山時代とまったく同じだ。この天守台上に天守があがることは、ついになかった。石垣を築いたのは細川忠興だった。石垣は穴太式流落し枝みを源流とする戦国時代の技法の牛努積み、または笑い積みで築かれていた。



岸和田城(大阪府岸和田市岸城町)
岸和田といえば、だんじりの祭りが有名だ。山車は京の祇園祭りに古くから見られるが、地方都市の山車を競う祭事は、祇園信仰と結びつかないものが多い。だんじりのほか、江戸の山王祭りをはじめ博多・名古屋・川越などの山車を競う祭りは、全国城下町に実に多い。

山車の原型は、城中にあがる井楼矢倉に車輪のついた、いわゆる車井楼にあるといわれる。刑普請すなわち築城現場を家臆や郷村ごとに割り振り、競わせたことに、山車が競いあう原型があるらしい。築城と、山車が競う城下町の祭りは、大いに関係があるらしい。

大和郡山城(奈良県大和郡山市城内町)
近鉄橿原線に乗り、近鉄郡山駅近くを通ると、車窓に石垣と櫓が間近に迫って見える。古都奈良盆地になぜか不釣り合いに映ずる武骨な佇まいである。

この石垣と櫓・門は戦国時代末から桃山期にかけて古都奈良を押さえるため築かれた郡山城である。建物は大手門にあたる梅林門、追手向櫓、法印曲輪の追手東櫓で、いずれも復元された建物である。

郡山城は奈良盆地のやや南に位置する。南都(奈典)の守護職を與福寺が握っていたように、寺社宗教勢力は中世以降、大和支配を進める武家勢力にとって目ざわりな巨大な武力集団であった。この寺社勢力を押さえるため郡山城が築かれ、詰の城として高取城が存在した。


伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)
伊賀上野城といえば、名築城家藤堂高虎が徳川家康の意向を汲んで高石垣を組みあげて築いた名城として有名だ。今日、大小の天守台には、伊賀文化産業城と称する木造の模擬天守が建つが、この模擬天守は、昭和十年(1935)に復興天守の先駆けとなって建てられたものだ。

ここを訪れたら、天守台石垣の周囲に注目してもらいたい。おびただしい飛礫が石垣の下に積まれている。西から豊臣勢が来襲してきたら、この飛礫を高石垣上より放ち応戦するのだ。

伊賀上野城は伊賀盆地の中央にある。緑濃い丘上に、傘を広げたような俳聖殿(松尾芭蕪の記念節)と小さな天守が建つ。「日本こと地元が自慢するのが高石垣である。

高さと技法で日本一の石垣と地元が誇る城には、当城のほかにも大坂城、姫路城、熊本城、江戸城などがあるが、石垣下が水堀であったり、地業土がかぶせられている例が多く、判然としない。当城は昭和46年の実測では、水面下を含め直高26メートル、法高29.5メートルである。

松坂城(三重県松坂氏殿町)
松阪には三つの有名な城祉がある。市の西郊外、かつて南朝勢力の中核であった北畠氏が戦国時代に本拠を置いた大河内城(堀切・土塁が残る)、織田信長の二男信雄がいた松ヶ島城(火守台といわれる所が残る)、そして松ヶ肪城に代わり築いた、ここ松坂城である。

天正12年(1584)六月、築城の名手といわれる糊生氏郷は近江日野城より、伊勢岡12万3000石として松ヶ島城に入城した。しかし、松ヶ島城は海岸に位置して海風が厳しく、その上、狭小であった。

そこで天正16年、内陸に入った四五百森の丘を新城とし、築城工事を始めた。氏郷の出身地近江蒲生郡は、安土城を築いた馬淵の石工集団の本拠であり、氏郷は穴太衆とも親しかった。今日残る本丸周辺部の石垣は、氏郷が故郷の石工たちをもって築いたものだ。

和歌山城(和歌山県和歌山市一番丁)
和歌山城は姫路城、伊予松山城と並ぶ連立式天守があがる天守曲輪を有する名城だ。しかし、今の天守群はコンクリート製である。残念なことに福山城、名古屋城等と共に、第二次大戦の空襲で本来の天守群は焼失しているのだ。

戦国の乱世を統一するために、天正13年、羽柴秀吉は、旧主君織田信長も苦しめられた根来雑賀党をはじめとする紀州の勢力に対し、6万の兵を率いて出陣した。秀吉は紀州攻めの本拠地を紀ノ川の河口、吹上の峰に定めて城郭を営み、若山城と称した。和歌山城の始まりである。

秀吉は紀州平定後に、弟秀長に支配を委ねた。秀長は大和郡山城を本城としていたので、桑山重時を城代に置いて城郭の整備にあたらせた。この時代の石垣には緑泥片岩(阿波肯石)が利用された。近世に入ってからの拡張部分の石垣は石材も手法も異なっている。



赤穂城(兵庫県赤穂市上仮屋)
全国の主要地方都市の多くは城下町だが、その中のかなりの都市がここ数年で築城400年を迎える。

そこで最近、都市の原点である城郭を見直し、町のシンボルとして城を整備する自治体がたくさん出てきた。ここ赤穂市でも「忠臣蔵」の赤穂浪士討入り300年を目前にした平成12年(2000)頃から、思い切った赤穂城整備計画を進めている。おそらく、赤穂ほど注目される史跡整備を実施している都市はないであろう。

既に平成5年度に本丸にあった学校は移転し、全面発掘調査がなされ、出土した庭園と御殿配置が遺描展示された。これに続いて二の丸の民家をすべて撤去、失われていた二の丸と三の丸の中間の水堀と二の丸御殿及び庭園跡を全面発掘し、その出土遺構を目下展示すべく整備中だ。そればかりでない。三の丸では大石神社と廃城前の武家屋敷遺構以外のすべてを撤去、部分的に発掘調査して、展示を進めている。



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