高知県・高知城|全国で唯一本丸と天守が完存

高知城

高知城は、天守をはじめ本丸を構成するすべての建築物が完存する。本丸が完存するのは全国でも唯一なのである(姫路城本丸は術前曲輪の多間櫓群と御殿が焼失している)。なかでも本丸御殿は貴重だ。本丸御殿が残るのは他には川越城があるが、川越城は表御殿の一部で、しかも玄関と大広間に過ぎず、完存していない。

その点、高知城は、前庭、式台、書院、上段、廊下、茶処までも揃う。高知城は慶長六年、山内一豊によって築かれ、山内氏20万石の居城となった。一豊が高知城を築くより前、岡豊城(高知県南国市)にあった戦国大名長宗我部元親も、この地に新拠点の城郭を築こうとした。しかし、城地をとり巻く平野は相次ぐ水害で地盤が弱い。そこで、新城を桂浜の浦戸城に変更せざるを得なかったのである。


理想家の悲劇
高知城をこしらえた山内一豊は尾張の生れ、通称猪右衛門。はじめ上の織田家といわれていた岩倉の織田信安に仕えたが、信安が織田信長にほろぼされたので、長らく牢人の後、信長に仕えた。

彼はその賢夫人若宮氏によって有名だ。年輩の人なら誰も知っていることだが、話の順序だから一応略述する。

彼が信長に仕えて間もなくの頃、東国の馬商人が東国で無双といわれた駿馬を安土城知下にひいて来て、買手をもとめた。織田家の武士らはこれを見て、いずれもほしいと思ったが、あまりにも高価なので買おうという者がない。

織田様といえば、天下様だが、そのお城下でも買える人がねぇの、商人は空しく東国へ帰ることにした。
一豊は馬を見て、家にかえり、つくづくとひとりごとした。

「貧乏ほど口惜しいことはないわい。あわれ奉公のはじめにあのような駿馬に乗って、殿のご見参に入ったら、どんなにかうれしかろうものを」一豊の妻は傍らにあって聞いていたが、ふと聞いた。
その馬の値段はいかほどでありましょう。
「黄金十両と申していたわ」
「それほどまでに思いをかけられた馬ならば、お求めなさりませ。代をまいらせましょう

妻は鏡箱の底から金子をとり出して、夫の前に並べた。一豊は仰天して、「これはまあ何としたことぞ。年ごろ貧に追われて苦労なことばかりであったのに、これほどの金のあることを知らせもせず、情こわくよくもかくして来られたものよ」と恨みごとを言い、また、喜んだ。

「ほしいとは思っていたが、とても買えるとは思っていなんだ。ああ、うれしや!」「お恨みはもっともでありますが、この金はわたくしが当家に嫁いで来ます時、父がこの金は尋常のことには使ってはならぬ、そなたのむこ殿の一大事の時にまいらせよと、くれぐれも申し聞けて、この鏡の下に入れてくれたものです。

貧は世の常のことでございますから、そのために使おうとは思いませんが、うけたまわりますれば、こんど京で馬揃えがございますとのこと、これは天下の見物でありますし、あなた様にとってはご奉公はじめでもあります。これこそ父の申しおきました大事の時であると存じますので、こうしてまいらせるのでございます」
一豊は大いに喜び、その馬を買いとった。

間もなく、京で馬揃えがあった時、その馬に乗って出たところ、信長の目についた。
信長はたずねて事の次第を知ると、「その馬商人が東国第一の駿馬をひいて当地に来たのは、おれが城下なら買い得る者があろうと思うたればこそのことだ。それをむなしく帰したならば、まことに口惜しいことであった。猪右衛門は久しい牢人ぐらしで家も貧しかろうに、よく求めてくれた。おれが家の名誉を保ってくれたのだ。武士の嗜みとしても上なきことだ」
と賞讃したが、これが一豊の立身の糸口となったという。

以上は新井白石の「藩かん譜」によって書いた。一般に流布されている説であるが、白石は「誠にや」と疑っている。土佐藩代々の藩主の言行録である「流沢遺事」には、これを元亀元年(1570)の信長の越前朝倉征伐の直前のこととして、一豊が出陣を前にひかえ馬がなくて嘆いていると、妻女が馬を買う金を出してくれたので、一豊は感激して、この戦さに殊勲を立てたということになっている。一豊の信長仕官が、元亀元年の朝倉攻めの少し前であったことは事実のようだ。

歴史上の人物のこういう話は小説的につくりかえられて、色々に変化するもので、今となってはいずれが本当だかわからないが、一豊夫人が父譲りのヘソクリをもって馬を買いあたえた事実はあったのだろう。

夫人の賢女ぶりを語る話はまだある。一豊は立身して、天正18年(1590)には遠州掛川6万石の大名になった。元亀元年の朝倉攻めから20年目である。

慶長5年(1600)に関ケ原役がおこった。周知の通り、この戦争ははじめ会津で上杉景勝が事を起し、それを征伐するために家康が諸大名をひきいて東行しているすきに、石田三成が西で挙兵したのだ。

変報は家康が野州小山にいる時についたが、諸大名は妻子が大阪にいる者が多いのに、くわしい様子がわからず、皆々不安一通りではなかった時、一豊の妻女がしかるべき身分の侍を馳せ下して夫に報告したので、はじめて事情が判明したと、これも「藩かん譜」にある。

南海道随一の名城、高知城は本九全体が石垣とともに現在する唯一の城。城内15の建造物が国の重要文化財になっている。

これだけの美城、さぞ華やかな傾奇考の手によるものに違いないと思いきや、初代城主・山内一豊は実直が取り柄の武芸者。築城の奥には、奏・千代との二人三脚のサクセスストーリーがあったのだ。

極貧の身であった一豊は、妻の助言に従い身の丈に合わない駿馬を無理して購入。 この馬の素晴しさが織田信長の目に留まり、一気に名士として名を馳せることになる。

その後も彼は、賢妻に支えられて信長、秀吉に仕えて厚い信頼を築き、6万石の領主に成り上がる。秀吉の死後は徳川家康に従い、時には居城を丸ごと明け渡すほどの忠義を示して絶大な信頼を得た。そして関ヶ原の戦後に、24万石を与えられ、ついには土佐一国の領主となったのだ。

戦国3英傑すべてを主とした稀有の将と、彼を支えた賢妻。主に忠義を尽くした人と、その人を信じ抜いた妻の純白の心から、この美城は生まれたのである

高知城(高知県高知市丸ノ内)
所在地 高知市 
種類 平山城 
築城者 山内一豊 
築城年 慶長7年(1602)
歴代城主 山内氏16代 
石高 山内氏24万石 
遺構 天守閣 大手門 他建造物多数



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