北陸・甲信越の城 一覧表|日本全国お城情報

北陸・甲信越 城リスト

丸岡城(福井県坂井郡丸岡町鹿町)
丸岡城には、古武士の姿に似る質実剛健な飾り気のない天守がある。この天守のもつ古色でかつ味わい深い佇まいは、現地を訪れてみないと決して判らない。この天守は現存する日本最古の天守建築で、造営は天正3年とも翌4年ともいわれる。安士城天守出現と同時期のものだ。

最近では、一部に江戸時代初期説もあるが、構造・外容を検討する限り、やはり最古の姿をとどめているといえる。こんな古い天守建築だが、国宝ではない。実は戦後まもない昭和23年の福井大地震で天守建築は一度崩れてしまい、今建つ天守は、崩壊した木材を用いて組み画した建物だからだ。旧材を用いての天守は、内部構造の一部を除いて旧態どおりである。



一乗谷朝倉氏館(福井県福井市城戸ノ内町)
昭和60年代から全国各地で戦国時代の山城や居城の遺跡が大規模に発掘され、ふるさと創生や町づくりの核として、多くが遺跡公園のような形で整備公開され、観光を加味した生涯学習の場となっている。

そうした一つ、ここ一乗谷は、訪れるたびに風景が変わる。発掘調査後に出土遺構が整備公開されたと思っていると、数年後には、遺構の上に建物が次々と復元されるのだ。朝倉氏の主舘や居舘群が並ぶ東側は遺構展示のままだが、一乗谷川を隔てた武家屋敷街と城下町地区が次々と復元され変貌する様子には、目を見張るばかりだ。

舘一帯から城下町は、こうして昭和42年から始まった発掘調査により、出土遺構の保存展示や城下町重臣屋敷街の復元工事がなって、今や福井を代表する観光地となった。一乗谷の入口には県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館がある。館内には出土遺物の数々と復元模型など貴重な資料が常設展示されている。

飯田城(長野県飯田市追手町)
信州伊那地方には、実に多くの古城址が良く保存されて残る。この飯田城もその一つ。武田信玄が南信濃の軍略上の拠点として天龍川の支流、松川と谷川に挟まれた所に築城したことに始まるという。

今日、飯川市立図書館脇に桜丸の赤門が残り、棟門である四脚門の堂々とした風格を示す。八双金具や乳頭金具が残り、朱色に塗られた門扉の脇には、全国的にも珍しい起破風造の番所が残る。門の左右には塀もあり、門内には石組み角井戸が保存されている。

この城門だけでなく、飯田城の遺構建築としては脇坂門が原位置にある。また市内の松尾にある木下家には、この丸八間門とも大手門とも伝わる櫓門が、左右の多聞櫓と共に移築されて残る。

櫓門の二階と多聞櫓にあたる壁は真壁仕上げ、城門は透戸であって、格式高い城門建築である。飯田城の創築は詳らかでない。前述したように戦国時代に武田信玄が築城、山伏丸、本丸、二の丸、三の丸地区を築いたといわれる。山伏丸は「詰の丸」に相当する。

高遠城(長野県上伊那郡高遠町)
高遠は三峰川と藤沢川に臨む静かな城下町だ。この二つの河川の合流点に高遠城がある。別名を兜城といい、兜を伏せたような45度勾配の高さ80メートルの山を城郭とする。

天文16年、信濃統一をめざす武田信玄は山本勘助に命じて、伊那谷侵攻の拠点として高遠城の築城を命じたという。信玄は伊那から三河、遠江進出のための中継基地として城を整備し続けた。

城は本丸を中心に二の丸、三の丸が梯郭式に配され、城の東西には勘助曲輪と南曲輪が付属し、北東側には出丸として法瞳院曲輪があった。法瞳院曲輪の弱点を補う形で、北西側には二段の腰曲輪が設けられていた。甲州流兵法を如実に語る縄張だ。城下町方面だけが開かれる堅固な城で、城下町の高台には寺町が形成され、敵は容易に城に近づけない配置となっている。


高島城(長野県諏諏訪市高島城公園)
諏訪湖に面して、諏訪信仰の中心、諏訪大社の上社と下社があり、この上社と下社の中間に高島城がある。諏訪大社の神官だった諏訪氏が舘を営み、上原城を詰の城としたことに始まる。

今日、城址を訪れると、銅板葺き三層五階の鉄骨コンクリート製の復元天守がある。天守のほか櫓、門が復元され、城壁の石垣がよく残る。この天守はもともと柿葺きで、明治5年に破却される際に写真に撮られていたので、よく外容が判る。

明らかに桃山時代の古式な手法で築かれている。高島城には天守のほか、櫓八基、門六棟が構えられ、石垣で固められて、本丸、二の丸、三の丸、衣之渡曲輪、南曲輪から成った。城域は諏訪湖上の島で、衣之渡曲輪が土橋状に陸と細長い通路で結ばれていた。だから「諏訪の浮城」として、江戸時代から知れ渡っていた。



上田城(長野県上田市二の丸)
上田市の東、小県郡真田町は真田氏が本拠を置いた苗字の地である。武田信玄に屈していた真田昌幸は、武田氏滅亡と共に自立、戦国大名となり、上野国西部から信濃国小県地方を支配、豊臣大名にとり立てられた。

天正11年(1583)、昌幸は真田本城と真田舘を廃棄し、千曲川の蛇行地に接する伊岫山と呼ばれる丘に城を築き始める。昌幸のこの上山築城は、上野で敵対する後北条氏と、信州支配をもくろむ徳川家康が、天正10年に同盟を結んだことによる危機感からだ。

完成間近い上川城を、天正13年8月、徳川勢が7000の大軍で包囲。守るは昌幸以下2000。北条と徳川の同盟に対し、昌幸は越後の上杉景勝と結び、徳川勢に対したことから、徳川勢の来襲となったのだ。真田方の守りは堅く、徳川方は1300人が討死に、上田城は死守された。

松代城(長野県長野市松代町)
長野電鉄松代駅に隣接する松代城は、平成16年にまったく景観を一新した。埋め立てられていた本丸をめぐる水濠は旧観どおりに復元され、崩壊していた石垣も発掘調査と古絵図に基づき復元。

その上、本丸の表門である桝形虎口の太鼓門、本丸搦手門である北不明門がそれぞれ復元された。これほど手が加えられた城址だが、残存していた森忠政時代の天守台石虹は原状のまま残されている。

忠政の時代に天守台石畑の上に何層の天守があがっていたかは不明だ。この天守は、次いで入城する松平忠輝、これに続く松平忠昌の代頃まで存在していたようだが、元和八年に上田城より入部する真田信之の時代には天守建築は失われていた。真田氏時代には天守台石垣上に二層の隅櫓が北西隅に建てられていた。

天守台石垣の西側には、トンネル状の埋門が石組みをもって復元されている。トンネル状埋門は姫路城に残るだけなので、今回の復元の見どころの一つといえよう。

小諸城(長野県小諸市古城)
小諸なる古城のほとり…で始まる島崎藤村の「千曲川旅情の歌」で、小諸城址はあまりにも有名だ。しなの鉄道小諸駅が城内にあって、駅のホームの隣には三の門が残る。この三の門は珍しい特色を備えている。普通、城へ入るには、坂か石段を登るか、平城なら堀を渡る。だが、小諸城址の場合、道を下って、窪地中央の三の門から入るのだ。まさに穴城に入るような錯覚にとらわれる。

この三の門の窪みをまっすぐに進むと深い谷間に入り、千曲川に出てしまう。二の丸、本丸へは門を入り、右手の高台に進まねばならない。小諸城には、このような深い谷状になった空堀が、城の左右に数条穿たれている。空堀を通路に用いるのは戦同時代の城の常套で、「空堀道」といい、入城者を確実にチェックできるシステムである。

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