熊本県・熊本城|名手加藤清正の築城で日本三名城に数えられる

熊本城

熊本城は大坂城、名古屋城と並んで、日本三名城に数えられる(江戸城は別格扱いとする)。清正公流石垣という美しくカーブを描く石垣、五層大天守のほか、三層柚が小天守を含めてそびえ、しかもこの三層檜はいずれも内部が五階づくりと、大名の居城では破格の城郭であった。

しかも江戸・大坂・名古屋の各城は徳川政権が天下普請で全刷の大名の助役で築いた城郭であるのに対し、熊本城は加藤清正・忠広父子という外様大名が居城として単独で築いた城郭なのだ。まさに天下一の名城の名にふさわしい。熊本城の改築に着手したのは関が原合戦の翌年、慶長六年からであった。

佐々成政時代の隈本城はあまりにも中世的で堀も狭く、城下町経営も水迎が発達していなくて発展が望めなかった。そこで清正は肥後一国の太守52万石の城と城下町にふさわしい建設を行うため、隈本城の東側の台地を新しく本丸とし、築城資材確保と城下町経桝に必要な水路をつくるため、坪井川の流路を城の麓に変え、井芹川と合流させて、城の弱点でもある西の堀とした。さらに熊本平野を流れる白川を、城下町を囲む惣構の堀として高橋の湊と曲結させたのである。



神風連
天正15年(1578)豊臣秀吉は九州を平定して肥後を佐々成政にあたえた。秀吉は平定を急いだのと、持ち前の腹の大きさから、地侍の連中に、本領安堵の朱印状を乱発していた。だから、秀吉は成政に肥後をあたえる時、くれぐれもこのことを言いふくめた。

「地侍の連中を刺戟するようなことは避けよ。3年の間は検地もするな。民をいたわれ」等々。

ところが、成政は信長座下でも猛将の名の高かった男だ。秀吉が信長の後継者気どりで威勢隆々と上るのが療にさわってならず、徹底的に反抗したので、秀吉の征戴に惨敗、いのちだけ助けられ、わずかに越中新川一郡をもらって秀吉のお伽衆(話し相手)の身分でいること2年間だったのだから、おさえにおさえた覇気が胸に鬱積している。肥後の領主となるやバリバリやり出した。検地もやる。地侍をおさえつける。
とり立てをきびしくして城の修理をやるという工合だ。

ついに地侍連中は蜂起して一揆をおこした。戦さの駆引きや武勇の何たるかを知らない百姓共の一揆ではない。武士の一揆だ。猛烈に強い。肥後周辺の大名らが鎮圧の手伝いに来てくれたが、ややもすれば押され気味のありさまだ。しかし、さすがは猛将佐々だ。どうにか鎮圧したが、秀吉は成政に落第点をつけていた。

「やつは時勢おくれの男じゃ。とうてい新時代の大名たるべき器ではない。ことにおれのくれぐれの訓戒にそむいたこと、そのままには捨ておけね」と、領地をとりあげ、その身は切腹の処分にした。

その肥後を2つにわって、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長にあたえた。清正は佐々の居城であった隈本城におり、小西は宇土を居城とした。

この隈本城は、この地方の豪族らが次々に居住していた城で、場所は昔の国府の北郊であった。南部に「球磨郡」があり、熊というところがあり、熊入、隈ノ庄、隈部、隈牟田とあり、隈府なども音読で、本来は「クマの府」だ。

これはおそらく上古の熊襲のクマに関係があるのであろう。上古南九州に居住していた民族の、熊襲という名称は、その居住地からつけられたというのが、最も支配的な学説だ。つまり山間部族で、山の隈(隅っこの意)に住んだり、山の背に住んだりしているからこう呼ばれたというのだ。

肥後南部の球磨地方は山岳地帯だが、このへんは熊襲居住の中心地帯であったろうと考えられている。それから転じて、熊襲どもが住んでいるところは平地でも「クマ何々」というように呼ぶようになったと思われる。

隈本などもそれで、肥後地方にいた熊襲族の中心地であったところから、「クマモト」と呼ばれたにちがいない。

さて、清正は隈本城主になったが、間もなくはじまった朝鮮の役のために前後7年も朝鮮に行っていたので、城に手入れも出来ずにいたが、朝鮮の役がすんで帰国すると、2年後には関ケ原役がおこった。

この役に無精正は九州にいたが、徳川方のために大いに働いたので、戦後は一躍して肥後全国の主となった。半国25万石だったのが、52万石になったのだ。
そこで、大大名たるにふさわしい居城とすべく、普請にかかった。この工事は修理や建増しではなく新築であった。従来の地域を全部ふくんではいるが、それよりうんと広くして、茶臼山を中心とした。

地名を隈本から熊本に改めたのもこの時である。「隈」の字は斡に躍れると書く、武士の居城としておもしろくないというのであったという。その頃、熊本に石引きまはす茶臼山敵にかとうの城の主かなと狂歌するものがあって、一時の流行になったので、清正は喜んだという話がある。

慶長六年(1601)に着工、12年に完成している。熊本城は、その石垣の築き方に独特なものがあって、日本の諸城郭中最も異色がある。江戸中期の肥前平戸の殿様松浦静山の著「甲子夜話」に、「肥後の石垣は高けれど、こば(勾配)なだらかにしてのぼるべく見ゆるまま、かけ上るに、四五間はのぼらるるが、石垣の上、頭上にくつがえりて、空見えず、そのままかけ下りしとぞ」とあるように、壁面が彎曲しているのだ。

一体、石垣の傾斜工合には、下げ縄(垂直) 。たるみ(緩勾配) 。はねだし、と三種類あるのだが、熊本のはこの最後の「はれだし」で、半弧形の積み上げ様式である。こういう積み上げは角錘形の石の狭い小口を壁面に出し、広い小口を奥の方に入れないと出来ない。普通の石垣とくらべるとおそろしく多量に石材がいるわけであるが、そのかわり堅固でもあれば、上述の通りよじのぼることも出来ない。城壁としては理想的なものである。

この様式は、林子平の「海国兵談」によると朝鮮の城壁に多いとあるから、朝鮮役で、清正が学んで来たものであろう。朝鮮の築城法は昔から特殊なものがあったらしく、天智天皇の頃、唐との個幣関係が険悪になった時日本証詭各地に築城しているが、そのうち長門の一城、筑前御笠郡の大野城、豊前築上郡の橡城の三城は朝鮮人に命じて、朝鮮式に築かせている。

清正のことを、当時の書物に「石垣つきの名人なり」と書いてある。朝鮮から彼自身が学んできたのでもあろうが、石工を連れて来たのでもある。彼は瓦工、陶工なども連れてかえって来、熊本市の旧家福田家はその瓦工の子孫で、熊本築城に瓦を製し、代々扶持をもらっていたという。

肥後の各河川の堤防には清正が築いたものがのこっていて、これはこれまで決して崩れたことがないというので、肥後の人々は、「清正公様の堤防は何百年たっても崩れはせんが、この頃出来は現代科学の粋をつくしたというても、すぐ崩れてしもうじゃないか」と言って、今でも益々清正崇拝熱を高めているが、この堤防も、彼が連れて来た朝鮮の石工らが朝鮮式石垣つきの法によって築いたものであろう。

九州各地には、たとえば長崎市の眼鏡橋、鹿児島市の甲突川にかかっている諸石橋と、熊本県の通潤橋と、肥後の石工の手になるのが多く、その堅牢と精巧を誇っているが、その石工は上述の朝鮮石工らの子孫なのである。

話が横にそれたが、熊本城の石垣の壁面は弧形であるとはいえ、その勾配の度は各部によって違う。それは上部建造部の大きさに応じたのだ。上部建造物が大きければ、石城 垣の基礎底辺を大きくするから、勾配はゆるやかになり、建物が小さければ基部底辺を小さくするから勾配は急になるのだ。

天守閣などは七層という壮大なものであったとい熊 うから、そこの石垣はゆるやかであり、外郭の矢倉などは、小さいものだから勾配杯漁になっている。ついでに書いておく。

熊本城の旧建造物として現存しているのは宇土櫓だけであるが、これは清正がこしらえたのではない。小西行長の居城であった宇土城の櫓であったのを、清正がここに移したのである。戦利品ともいうべきものだけがのこって、戦勝者自身のこしらえた建物はのこっていないのであるから、運命は皮肉である。


西南戦争の舞台
熊本城は、加藤清正によって1601年頃から数年にわたって造営し完成された大城郭である。清正は1561年、尾張国(現愛知県)に生まれた。幼くして父と死別したが、母が豊臣秀吉の母と従姉妹であったことから、秀吉にひきとられた。時に清正9歳、1570年のことである。

当時、子供がなかった秀吉は、清正をわが子同然にかわいがり、常に身近において兵法を学ばせた。秀吉が天下をとり、本拠大坂城を築城した際、いまだ20歳そこそこの清正を築城廻りに任じている。城づくりの英才教育といってよい。

清正が築城名人として名声を高めたのは、朝鮮侵略の前線基地として築かれた肥前(現佐賀県)名護屋城を築いた時だろう。巧妙なつくりをもつ巨大な城を、わずか5ヶ月で完成させている。このような名築城家が自らの居城として、そのもてる実力のすべてを注いで完成した城こそが、熊本城であった。


熊本城(熊本県熊本市本丸町)
別名 銀杏城 
所在地 熊本市 
種類 平山城 
築城者 加藤清正 
築城年 慶長6―12年(1601)
歴代城主 加藤氏 細川氏11代 
石高 細川氏54万石 遺構 復興天守閣 櫓 門 堀 他建造物多数



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