九州・沖縄の城 一覧表|日本全国お城情報

九州・沖縄 城リスト

柳川城(福岡県柳川市本城町)
柳川は筑後平野の中央、有明海に臨む。有明海に注ぐ矢部川の支流である沖の端川、堀塚川のデルタ地帯で、街を縦横に堀割が走り、水郷柳川として名高い。詩人北原白秋を生んだ地でもある。この水郷の堀は、柳川築城に際して作られた、防御と資材運搬用の運河であった。

現在、柳川城吐の本丸は学校用地となり、二の丸は市街地で見る影もない。本丸の学校とは柳城中学と柳川高校で、学校の敷地をめぐってごくわずかの石垣と水堀が残る。校庭の一隅には天守台の跡の高まり(塚状)があり、ここが天守台であったという碑が立つ。これほど徹底的に壊された城も珍しい。

城は明治5年の破却令と共に焼失し、残った石材は有明海の堤防護岸用に根こそぎ崩されて、海中へ投下されてしまった。ただ、かつて城主の屋敷が営まれた、現在は「御花」と呼ばれる一角には、今も立花邸とみごとな廻遊式大名庭園が残されている。また、市内堀割には蔵屋敷も残る。

福岡城(福岡県福岡市中央区城内)
福岡城は黒川長政により関ヶ原合戦後に築かれた今も本丸の一段高いところに、25メートル×22.5メートルの大天守台と、これに付属する小天守台の石肛が残る。おそらく津山城のような天守曲輪を形成する予定で、この石垣が構築されたのではないだろうか。

つい最近まで「福岡城に天守建築がないのは、黒川家の幕府に対する遠慮である」といわれ続けてきた。ところが、最近の研究によると、慶長7、8年に「天守の柱立て」が行われたことが判明。そして元和6年に天守が取り壊されたことが明らかになったのである。

天守の形や構造については詳しい資料が見つかっておらず、なんともいえないが、天守地階にあたる石蔵跡には6列×9列の礎石脈が残ることから、大天守は初屑平面が8間×11間以上の大きさであったと推定できる。

佐賀城(佐賀県佐賀市城内)
佐賀城は本丸が学校敷地となり、城一帯にびっしりと県の関係の官舎が建ち並んでいて、天守台石垣上にも協和館という建物があり、わずかに城らしい風景は、現存する賊の門と、門の左右の石垣だけだった。

ところがである。平成16年10月風景が一変した。本丸に建っていた2つの学校は移転、その後発掘調査がなされ、本丸御殿の細かな部分や用途別棟割を確認。なんと本丸御殿を復元したのである。本丸御殿「御座間」だけは、南水会館として移築保存されていた。本格的な本丸御殿復元にあたり、この御蠅間は、元の位柵に戻されている。

唐津城(佐賀県唐津市東城内)
訪れるたびに風景が変わってしまう城址が最近多くなった。ここ唐津城もまた訪れるたびに櫓の数が増えている。数年前に海岸上の石坦に隅梢と長塀が復元されたが、訪れてみたら、駐車場を囲んで土塀と物見櫓が新装されている。

唐津城は慶長13~17年に、名謹屋城を破却した際の資材で寺沢広高が8万石の居城として築いたものといわれる。ところが、今日残る石垣は名護屋城に用いられている石材とは異なるものだ。おそらくは石材は転用せず、櫓や門、塀などの一部の建物を転用したのであろう。

平戸城(長崎県平戸市岩の上町)
平戸島の東側、亀岡には、慶長四年に松浦しげ信が築いた日の岳城という城があった。しげのぶは松浦党水軍を束ねる盟主で、朝鮮出兵に際しては、日本の兵勢を渡海させる役割を担った豊臣大名だった。

松浦領家を徳川大名として家康に認めてもらうため、しげ信はこの日の岳城を自ら焼いて廃城にした。

城があまりに強力でかつ雷ヶ湘戸に洗われる海賊城であったため、あらぬ誤解を生まぬための戦略だった。慶長18年のことだった。鎮信は翌年五月に逝き、松浦氏は御鮪で藩政を行うこととなった。


大分城(大分県大分市荷揚町)
県庁と市役所に接する大分城は、地元では府内城という。大友氏が大分に守護所を置いて御府内といったことに由来する。

府内、府中、あるいは甲府(甲斐の府)・駿府(駿河の府)のように国名を一宇冠する、府の名がつく都市は多い。これらはいずれも中仙に守護所がおかれたことに由来する。

大分といえば大友宗麟を連想するが、大友氏が拠ったのは大分でも西山大友舘で、大分城ではない。

大分城は慶長2年から福原直高が築き始めた城だ。直高は石田三成の妹婿で、豊臣政権末期では豊後水道と大分平野を掌握するため大分川の河口、荷落の浜で新城の構築に着手した。

国東半島と高崎山が波よけとなり、荷落の浜は領国の府となる絶好の地勢だった。3年後、城は一応の完成をみたが、福原氏は完成1ヵ月で所領没収。徳川家康による、「大分築城は無益な工事で、領民を苦しめた」という理由からだった。関ヶ原合戦への徳川方の布石でもあった。

中津城(大分県中津市二ノ丁)
福沢諭吉の出身地中津には、五層の大天守がそびえる。この五層天守は鉄骨コンクリート製で、本来あったものではなく、この模擬天守の建つ所には、本丸二重櫓が建てられていた。

昭和39年、折からのコンクリート天守復興ブームに便乗して、これも本来なかった二重の小天守と共に模擬新築されたものだ。石垣上より初層が大きく張り出し、二層目大入母屋上に三重がのる型で、五層目には廻縁が付す望楼天守である。

この模擬天守の設計者は、あろうことか萩城天守の外容を再現したのだ。萩城天守をそのまま中津城にもってくることにためらいを感じたのであろう、白亜総塗込めの萩城天守を下見板張に変更している……。

竹田城(大分県竹田市大字竹田宇岡)
地元ではもっぱら「岡城」と呼ばれる竹田城は、滝廉太郎作曲「荒城の月」の舞台として著名だ。城址には滝廉太郎の像が立ち、苔むした高石垣や、九重連山など九州山地を一望する景観が楽しめ、観光客の絶えることがない。ちなみに「荒城の月」の作詞者は土井晩翠で、作詩の舞台は会津若松城とも仙台城ともいう。

歌は廉太郎作曲によって愛唱歌となったが、弘前城の項でも述べたように、城と桜の結びつきから、散る美しさと武士道が、日本人の心の中でひとつながりのものとなった。その背景には軍国主義があったといわれる。

桜と城は本来なんら関係はなく、鎌倉期から幕末まで、城と結びつきの強い植物は松か竹であった。だから竹田城をはじめ竹と松を冠した城名が日本中にたくさんあるのだ。


人吉城(熊本県人吉市)
JR八代駅より約2時間、日本三大急流の一つ球磨川に沿って遡ると、急に大きな盆地と町が現われる。人吉町の中心街である。穏やかになった球磨川に洗われて、人吉城の石垣が塁々と残る。球磨川に面する石垣には舟着き場である石段と、舟を係留する台座が所々に置かれていて、人吉城が球磨川の水運と深いかかわりのあることを物語る。

築城は鎌倉時代、肥後に地頭職として入部した相良長頼によったと伝えられる。今日残る石垣は、18代義陽が建造を始め、代を継いで50年もの歳月を費やし、寛永16年に完成させたものだ。なお、城は球磨川の南岸に、城下町は北岸にあり、武家屋敷街と寺町は、城と同じ南岸ながら、その西側に形成された。


飫肥城(宮崎県日南市飫肥)
日南市の内陸部(山側)を妖肥といい、まるでタイムマシンで江戸時代に舞い戻ったような武家屋敷街、商家、町屋群が残る。NHKテレビ期の連続ドラマ「わかば」で連日タイトルロールに登場しているのが飲肥城大手門と武家屋敷街だ。

昭和40年代までは、東京や関西の人々の新婚旅行先といったら日南海岸が一番人気だった。

この南国人気で日南海岸に観光客があふれかえっていた頃、飫肥城には大手門をはじめ、書院などが次々と復元されたが、今はかつての人気はないようだ。しかし、妖肥城には全国的に珍しい、藩知事がいた本格的な数寄屋書院である像章館や藩校振徳厳が完存している。


鹿児島城(鹿児島県鹿児島市城山町)
鹿児島の観光の中心は西郷隆盛が最期の地として柵能った、内南戦争の群台城山である。城山の雌私学校跡の石垣には今も弾痕が生々しく残る。城山は一朝事ある際に烏沖勢が楯籠る詰の城であった。

城山の麓の鹿児島城は慶長18年、島津家久が築いた。本丸、二の丸、東側に私学校が幕末に開かれた出丸からなる。

大手に榊門が幟えられ、東側と西側に物見櫓を兼ねた多聞櫓が石垣上に建てられる以外は、塀をめぐらしただけで、島津氏72万石の大大名の城としては、たいへん簡素な構えであった。幕府に対する配慮から重層の櫓や天守は建てなかったのである。そのかわり、薩摩、大隅、日向の3国にはなんと120カ所に及ぶ麓とか外城と称する支城を置いた。

中城(沖縄県中頭郡中城村宇泊)
琉球では城をグスク(グシク)という。中城城と記す出版物が多いが、この用法はおかしいのである。グスクは聖地である御嶽でもある。琉球では今も石で囲まれた区画、石塀で包まれた祠をグスクといい、石積みの間や巨石が重なる透き間から祖霊神であるニライカナイが出入りして、祈念するとこの石囲いの中に捕ると信じられている。

琉球の城はすべて石塁で囲まれ、集落ごとに必ず一つあって、今も拝所として、正月や祭祀の折には、先祖を迎えるため、集落の人々がグスクに詣でる。だから今の沖縄に旅して城を訪れる人は、城内や城の周囲に、足を踏み入れてはならない個所があるので、観光地以外の城址では特に注意をされたい。石垣上にのぼったりしてはいけないし、木々の扱いにも注意が必要である。

首里城(沖縄県那覇市首里金城町)
那覇の街にそびえる首里城は、現代沖縄のシンボルであり、琉球の伝統文化・技術を結集した巨大モニュメントだ。かつて米軍統治下の沖縄に旅した人が必ず訪れたのが、首里城の大道という大手道に構えられた守礼門であった。この守礼門は昭和33年(1958)に復元され、平成15年(2003)には改修されて、より鮮やかな色彩を放っている。

この復元守礼門と、門を入った所にある首里城への石門の2つだけが、米軍支配下の沖縄で琉球の歴史を伝える遺構だったのである。



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