愛媛県・松山城|日本3大平山城のひとつで26年かけて完成

松山城

松山城
国重要文化財 天守、乾櫓など櫓6棟、戸無門など門7棟、塀7棟
別名 勝山城 金亀城
分類 平山城
築城主 加藤嘉明、蒲生忠知
主な城主 加藤氏、蒲生氏、松平氏
愛媛県松山市丸之内1
松山城は慶長7(1602)年に加藤嘉明によって築かれ、五重の天守を構えていましたが、松平定行が城主であった寛永4(1642)年、三重に改築し、天明4(1784)年、落雷のために焼失しました。

現在の天守は安政元(1854)年に再建されたもので、現存天守の中では最も新しいものなのです。五重の天守を建てていた天守台の規模に三重天守を建てたためなのか、扁平気味で、低く見えてしまいます。

丸亀城が小さいけれども高く見えるのと対照的ですね。大天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓を多間櫓でつないだ連立式天守の形式。

側に行くと非常に大きいのですが、小さく見えてしまって、下から上がってくると、最後の本丸に入るまで天守閣が見えない造りになっています。途中には門がたくさんあって、これは見応えあり。戦略的な面白さを味わえます。

松山城本丸は、標高132メートルの山頂にあります。歩いて登ることもでき、江戸代の名残を感じることができます。所要時間は、元気な方で20~30分程度といったとこです。

しかし、体力に自身がないという方もいらっしゃるでしょう。そんな方には8合目付近まで運行しているロープウェーかリフトの利用がお勧めです。チケットは共通券となっていて、どちらでも好きな乗り物を選べるのが特徴です。


築城ノウハウが集約された城
松山城の名城たる所以は「城本来の砦としての役割」にとことん秀でているからだろう。 築城者である加藤嘉明は、豊臣の「七本槍」に数えられ、加藤清正・藤堂高虎と並ぶ「築城名手」として戦国の世で3指に数えられるほどの人物。その築城ノウハウが集約された城なのである。

ところが嘉明が、この名城の完成を見届けることはなかった。彼は26年もの歳月をかけたこの城の完成直前にして、遠く会津の地に異動させられてしまったのだ。

時の大御所・徳川秀忠は、初めは高虎に会津への転封を薦めたそうだ。ところがそれを固辞した高虎は「東北の要衝を任せるに足る人物は、嘉明しかいない」と推挙したという。 一見美談であるが、ことは大猿の仲で知られていた高虎と嘉明のことである。

嘉明が心血を注いだ城の完成日前のタイミングを考えると、別の側面も見えてくる。ちなみに、嘉明は会津への転封後数年で死去している。 果たして嘉明は無念の内の死を迎えたか、会津を任された感謝に死したのか… 歴史が生んだ、光と間を想いながら、城を歩くもよいだろう。


日本3大平山城のひとつ
城下で育った正岡子規が「秋より高い」と詠んだ松山城。誰もが人を仰ぎ見るかのように眺めてしまう、日本3大平山城のひとつである。 初代城主。加藤嘉明は、関ヶ原の戦で伊予20万石を与えられ、およそ四半世紀かけて城と城下町を建設。攻守ともに優れ、これほど多くの櫓や間が級密に配置された縄張をもつ城は全国でも珍しい。

加藤、蒲生両氏の後に松平氏が城主となるが、途中5層あった天守は3層に改築され、さらには城の建設が自粛される中、火災の憂き日にもあっている。

しかし黒船来航の翌年には完全な形で天守が再建。この時に刻まれた葵の御紋は、現存天守のなかでも唯一のものだ。現在、山頂にある城へはロープウェイを使い15分ほどでアクセスできる。城攻めする足軽の気分で、罠が張り巡らされた櫓や門を通るのもよし、大天守から美しい松山平野、瀬戸内海の島々を城主の気分で見渡すもよし。



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