大久保忠教が書いた門外不出の三河物語が語る真実とは

徳川家神格化の影響を受けなかった貴重な史料

ここで、ぜひとも大久保彦左衛門と、彼の書いた『三河物語』について触れておかなければならない。 忠教が晩年になってから、昔のことを振り返りつつ、徳川家発展の歴史をつづったものが『三河物語』である。なぜそんなに信頼されているのかといえば、まず、これが徳川家康に長年仕えた家臣のナマの証言だからだ。ナマといえば、彼の当て字だらけの文章も、いかにもなまなましい。例えば「太香」は彼のきらいな太閤のこと、「百将」は百姓のことで、「雲命」は運命、不運は「浮雲」という具合。当て字ながら「気分がでている」というのは司馬氏の評である


「門外不出」の本当の意味
ところで、この『三河物語』が「子孫だけに伝えられた」と思われているのは、当の忠教がこの書物のなかで、何度も、「門外不出」といっているからである。例えば、こんな具合に。

この書物を世間に出すならば、御譜代衆の忠節や出自、家柄、戦陣における戦功なども、ちゃんと調べて書くべきであるが、これはわが子供に当家の家柄を知らさんがために書き置いたものだから、他家の事は書いていない。そういう理由なので、門外不出なのである。おのおのがたも自分の家の忠節や、戦功、代々の家柄のことなどを書き記して、子供たちにお譲りなさるといいだろう。当家も私たち一族のことを、このような書にして子供に渡すのだ。ゆめゆめ、門外不出であるからな。以上。

いま、ごらんいただいたのは『三河物語』の序文の後半部分なのだが、このなかに、いっていることが矛盾している部分があるのにお気づきだろうか。 矛盾しているところ、それは「門外不出」の書物なのに「おのおのがたも自分の家の忠節や、戦功や、代々の家柄のことなどを書き記して、子供たちにお譲りなさるといいだろう」といっていることである。

文脈から考えて、これは明らかに大久保家以外の家に対する呼びかけなのだが、前出の歴史学者、山室恭子氏は、この矛盾を指摘したうえでこういっている。

では、どうしてこんな矛盾が生ずることとなったのか。大して考えもせずに、つい書いてしまったのだろうか。いやいや、この『三河物語』は上・中・下3巻に分かれているが、中と下の巻末にも跛文として、これとほとんど同じ主旨の文章が載せられている。同じことを3回も書いているのだから、うつかリミスとは、とうてい考えられない。

私には、どうも彦さんは初めから、広く世間の人の目に触れることを想定してこの書物を著したのではないか、と思える。執筆しながら、自分の子供だけでなく、世間の皆様方の目をつねに念頭に置いていた。だがら、「皆様方も…」というフレーズが自然と口をついて出ることとなったのだ。本気で門外不出の秘本にするつもりなら、他家への呼びかけの言葉など間違っても書くはずはない。

山室氏によると、実はこの『三河物語』には、書かれた当初から、いくつもの写本が作られているのだという。それらについては、これまで忠教の「門外不出」という言葉が信じられてきたために、「これらの写本は大久保一族の者の手で写されたのだろう」という苦しい解釈がされていたのだ。

だったら、どうして忠教は、広く世間に向けて書いた書物で、繰り返し「門外不出」といっていたのかというと、山室氏は、中巻の跛文の、「門外不出のこの書物が、もし百に一つも落ち散って、よそ様のお目に触れることもあるやも知れぬ。そのために念を押しておきたい。どうか、私の贔贋で自分の家のことばかりを書いたと思し召したもうな。わが子への遺言の書物なので、自家のことばかりなのじゃ」という、いい訳が示しているという。つまり「自分の一族ばかりをよく書いた」という、当然起こりうる非難に対して、前もって「門外不出の書」という防衛線を張っておいたのだろうというのだ。

ちなみに司馬遼太郎氏は、「作中、徳川家について露骨なことが書かれていることもあって、門外不出とした」といっているが、このどちらも、忠教が「門外不出だぞ」と「この書物に書いた理由」としてはありうることである。 ただし、ここで重要なのは、忠教が「門外不出」といいながらも、実際にはこの書物を広く世間に流布させようとして書いた疑いが濃厚だ、ということだ。 ならば忠教がこの書物を流布させることで、世間に訴えたかったことというのは、いったいなんだったのだろうか。

つまり、忠教は、先祖代々徳川家に仕え、一度も徳川家に弓をひいたこともない大久保家がどうしてこのように冷や飯を食わなければならないのかと、その不満を訴えたかったようなのである。そのため彼は、この書物のなかで、譜代衆がいかに大変な苦労をして徳川家を支えてきたのかということを、繰り返し力説しているのだが、問題にしたいのは、彼の「目的のためなら多少の創作も辞さない」という執筆方針のほうである。

『三河物語』で創作されたストーリーが、のちに編纂された幕府公認の史書に取り入れられているという事実も、この書物が「門外不出」どころか、忠教によって積極的に流布された書物だったという可能性を示す、ひとつの証拠だといえるだろう。 こうしてみてくると明らかなように『三河物語』という書物は、けっして全幅の信頼をおける史料ではなかったのだ。

泰平の世がはじまって、行政の才能を持った人材が次々と登用され、徳川政権のなかで重きをなしていくなか、武辺一辺倒の譜代衆はどんどん閑職に追いやられていくばかり。しかし、この武辺一筋の譜代衆がいたからこそ、徳川家は天下を取れたのだ。このことを、もっと天下に知らしめなければ……。これが、忠教がこの書物を著した本当の目的だったのである。

とすると、ここに描かれた三河武士の姿、貧乏な暮らしに歯をくいしばって耐えながら殿様一筋に奉公に励むという、うるわしい姿も、そのまま素直には受け取れなくなる。これは宣伝用につくられたイメージなのだ。(山室恭子著『群雄創世紀』朝日新聞社刊) つまり、『三河物語』のなかで、このようなシーンに出くわしたら、これからは、眉に唾をつけて読むべし、ということである。


信康切腹までのいきさつ
天正7年(1579年)7月16日。徳川家康は織田信長に名馬を献上した。その使いとして、家康のいる浜松から信長のいる近江安土城に派遣されたのが、家康の家臣団のなかでは筆頭家老の地位にあつた酒井忠次だった。

この名馬の献上が、このあと家康の嫡子、信康の切腹という思わぬ大事件へと発展するのだが、このいきさつを、もっとも詳しく記しているのが、大久保忠教が書いた『三河物語』である。

このとき忠次は、岡崎城にいた徳姫から信長宛ての手紙を預かって持参していた。 徳姫というのは信長の長女で、12年前、9歳のときに家康の嫡子、信康と結婚して、これまでに信康との間にふたりの娘をもうけている。しかし、どうやらこの頃は、信康との夫婦仲はうまくいってなかったようで、この手紙の内容というのは、夫、信康の暴虐や、姑、築山殿(信康の実母にして家康の正妻)のいじめや淫行ぶりを父の信長に訴えたものだったらしい。

『三河物語』によると、手紙には夫(と姑もか)の悪口が12か条にもおよんで書かれていたというが、その内容については記されていない。が、ともかく、娘の手紙を読んだ信長は、使者の忠次を別室に呼び出して、この手紙を開きながら一条一条、「これはまことか」とたずねた。

すると、忠次は、 「いかにも。存じております」 と答え、この調子で、信長がたずねた10か条すべてに、 「心あたりがございます」 と答えたので、信長は残りの2か条についてはもうきかず、「徳川家の家老がここまで知っているとあらば間違いあるまい。されば思案の余地はない。信康殿を切腹させるよう家康殿へ伝えられよ」ということになってしまった。

忠次は、急いで浜松へ帰ると、すぐに家康に信長の言葉を伝えた。すると、聡明な家康はすべてを悟って、「しかたあるまい」そういって観念したという。しかし、頭ではあきらめながらも、どうにも割り切れない無念さも残っていたようで、「信長殿に恨みはないが、身分の尊卑に関係なく、誰でもわが子は可愛いものよのう。

それにしても、信長殿が10か条を一つ一つたずねた折に『存じません』と答えたなら、信長殿もかようなことはいいださなかっただろうに、いちいち『心あたりがある』などというからこのようなことになったのじゃ。いわば、忠次のせいで信康の腹を切らせるようなものぞ。が、こうなってしまってからではどうにもなるまい。わしも東に武田という大敵を抱える身、ここで信長殿と敵対するわけにはいかぬ」

こんな本音を漏らしたのち、信康を切腹させることを決意した。 ちなみに、このあと『三河物語』では、信康の停役(後見人ともいうべき付け家老)の平岩親吉が家康の前にまかり出てきて「拙者の首をお切りなされ」と、自分の首を信康の命乞いに使ってくれと哀願する。が、家康は、「わが家の筆頭家老(忠次)が、一度、信長殿の前ですべてまことと申したことが、いまさら停役の首をもっていったところで覆ろうはずもなかろう。この上、死人を増やしたくはない」といって、親吉の懇願を退けた。そうして家康は、信康を居城の岡崎城から追い出したあと、最終的に遠江の二俣城で切腹させた、というのである。

ところで、これまでは、この話を載せている『三河物語』が、学者たちの絶大なる信用を集めていた史料であったため、これがそのまま事実とされてきた。しかし、前章で確認したとおり、『三河物語』には随所に作者である大久保忠教の創作がずいぶんと混じっているし、また、忠教は、特に酒井忠次を嫌っていたようだから、ここでも事実を語っていない可能性はじゅうぶんにありうるのである。

というわけで、これは再検討を要する事件といえるのだが、やっかいなのはこの史実を偽造した容疑者が、「忠教だけではない」という点である。 それはさておき、実は『三河物語』では触れられていないのだが、家康の正妻にして信康の実母でもある築山殿が、信康切腹の半月前に、家康の家臣によって殺されているのである。つまり、『三河物語』が伝えているのはこの一連の事件の一部にすぎないのだ。そこで、まずは築山殿の殺害も含めた、この事件全体の経緯をみていただこうと思う。

さて、徳川家側の史料では、このとき信長が徳姫の手紙を見ながら忠次に「これはまことか」と確かめたことになっているが、その徳姫の手紙の内容(12か条)というのは、作家の典厩五郎氏が調べたところによれば、次のようなものだったという。

一、近頃、岡崎城下ではたいへん踊りが流行っているというが、領主がしっかりしていれば町の者は踊りなどにわれを忘れることはない。これすべて領主たる信康が悪い
二、信康はそのくだらない踊りを好むばかりか、踊りがへたな者を怒って弓で射殺した
三、信康は鷹狩りの帰途、獲物がなかったために不機嫌となり、狩り場で出会った僧侶の首に荒縄をかけて、馬で曳きずり殺した
四、徳姫が生んだ子供が2人とも女子であったため、信康は不快であるとして徳姫を折檻した
五、築山殿は悪人で、信康と徳姫のあいだを、なにかにつけて不和にしようとする
六、築山殿は徳姫に意地悪をしようと、武田家の家臣で美貌の娘を信康の側室とした
七、徳姫付きの侍女が信康に諫言したところ、信康は怒って侍女の口を引き裂いてなぶり殺した
八、築山殿は、武田方の諜者である減敬という医者と密通している
九、築山殿は、その減敬を通じて武田勝頼に密書を送り、織田・徳川両家を減ぼしてくれと訴えた
十、築山殿は、首尾よく織田・徳川の両家が滅びたあかつきには、自分を武田の家臣の妻にしてくれと頼ふ、それに対して勝頼は、小山田という家臣の妻にすると、約束の起請文を送ってきた(典厩五郎著『家康、封印された過去』PHP研究所刊)



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