美濃の国を改革したのは道三ではなく義龍で在位7年なのに功績がやばい

美濃の国を改革したのは誰?

通説からすっぱりと抜け落ちていた重要人物
みなさんは「美濃のマムシ」と悪名高い、斎藤道三という戦国大名をご存知だろうか。元は坊主上がりの油売りだったが、権謀術数の限りを尽くして成り上がり、ついには美濃一国の大名になった、と伝えられる人物である。

ところで彼は、悪辣陰険な謀略の数々によって「国を盗んだ」といわれているのだが、「斎藤道三が盗んでいたものが他にもあった」というのが今回の話である。 厳密にいうと、結果的に「通説の道三が盗んでいたもの」が、「国」の他に、ふたつもあったのだ。

そのうちのひとつは「創業者の肩書き」を盗んでいた、ということになるだろうか。 驚かれる人も多いと思うが、これまで道三一代の事績として語られてきた「国盗り伝説」の半分は、実は彼の父、新左衛門尉という人物が成し遂げたことだったのである。 つまり、これまでの通説には、本来なら創業者として、その功績を評価されるべき道三の父親の存在そのものが、すっぽりと抜けていたのだ。

道三にそんな父親がいたことすら初耳だという人も多いと思うが、そうなるのも当然である。この父親の存在がクローズアップされたのは近年のことだし、この件について詳しく触れられているのは、一般の人がほとんど手を出さないような専門書くらいだからだ。 それでは、通説では語られなかった道三の父、新左衛門尉の事績とはどのようなものだったのか。まずはそれからみてもらおう。


創業者の名に恥じない実績
斎藤道三の生涯を伝える軍記物語はいくつかあるが、なかでも特に詳しいのは『美濃国諸旧記』である。そして、これまでの通説は、ほぼ、この書物の記述どおりといっていい内容だった。

すなわち、京都妙覚寺の僧だった男が還俗して油売りの商人となり、その後、美濃にいって侍になり、出世を繰り返して、最終的には美濃の国主(守護)の土岐頼芸を国外へ追放して、ついに大名になったというのが、従来語られてきた彼の生涯である。ところが、昭和39年(1964年)からはじまった『岐阜県史・資料編』の編纂過程で、通説を覆す古文書が発見された。これは美濃の隣国、近江の南半分を支配する大名、六角承禎が書いた手紙なのだが、その問題の箇所とは、おおよそ以下のようなものである。

斎藤義龍(道三の子)の祖父、新左衛門尉という者は、京都の妙覚寺の法華坊主が還俗した者で、西村といった。この西村は美濃の長井弥二郎のところへ出仕して、美濃の動乱のときに目ざましい働きをして、次第に頭角をあらわし、長井という苗字を与えられるほど出世した。その後、義龍の父道三は、長井家の惣領を討ち殺して長井惣領家の領地などをすべて奪い、さらに成り上がって斎藤を名乗るようになったのだ。

ごらんのように、これには、京都の妙覚寺の坊主から侍に転職して、長井という苗字を名乗れるほど出世したのは義龍の祖父、つまり、道三の父親だったと記されているのである。 この手紙は、まず、書かれたのが道三の死からわずか4年後の永禄3年(1560年)であることと、さらに、これを書いた承禎が、当時、前の美濃国主、土岐頼芸を保護していて美濃の事情に詳しかったという理由から、きわめて真実を語っている可能性が高いものだ。

そして、当然の結果として、通説は間違っていた、ということになった。つまり、これまで道三ひとりの事績として語られてきた「国盗り」事業は、父子2代で達成したものだったと訂正されたのである。

それでは、従来の説で語られなかった、長井新左衛門尉の活躍とはどういうものだったのか。現在わかっている範囲でだが、妙覚寺の僧だった彼が、いつ還俗したのかは定かではない。しかし、承禎の手紙にあった「美濃の動乱」は大永5年(1525年)のことだ。これは、美濃の守護(国主)である土岐家の一族と、守護代(国主代理) の斎藤家の一族を、小守護代(国主代理の代理) の長井家が追放したクーデターのことで、このとき道三の父、新左衛門尉が目ざましい働きをして頭角をあらわした、ということは前の手紙にもあったことである。

それでは、このときの活躍によって、彼がどのくらい出世したのかというと、 一気に、美濃の実権を握るところまで登り詰めていたのである。実は、この「美濃の動乱」で追放された土岐一族と守護代の斎藤利茂は、その後、復帰したことになっているが、それは名目上のことであった。というのも、このクーデター以後は、小守護代の長井長弘と長井新左衛門尉が実質上、この国を動かしていたからである。

つまり、新左衛門尉はこのときすでに二頭政事の一翼を担う存在だったのだ。そればかりか、東京大学名誉教授の勝俣鎮夫氏は、道三の居城として知られている稲葉山城も、新左衛門尉がこのクーデターのときに斎藤家から奪い取ったものだろうと推理している。だとしたら、国を動かすほどの権勢ばかりか、その拠点(城)までも、すでに新左衛門尉の代には手に入れていたということになる。

その後、この二頭政事を担っていた長井長弘と長井新左衛門尉は天文2年(1532年)に相次いで病死した。長弘のあとを景弘が継ぎ、新左衛門尉のあとを継いだのが道三である。すると、家督を継いだ道三は、早くもこの翌年の九月までにライバルの景弘を始末してしまい、それ以後、美濃の実権は、道三が一手に握ることとなったのである。

こうしてみてくると明らかなように、道三の「国盗り」は、父、新左衛門尉が築き上げた土台抜きには語れないものであった。にも関わらず、その創業者としての功績をそっくり息子に盗まれたばかりか、名前すら知られていなかった新左衛門尉は気の毒という他ないだろう。

ただし、この「歴史の偽造」は道三の罪ではない。あえてその容疑者を探すなら、『美濃国諸旧記』他、この「国盗り」を道三一代の事績と記していた軍記物語ということになるだろうか。しかし、これらにしても別に悪意があって偽造をしたというわけではなく、おそらく、後世にこれらが執筆されたときには、すでに新左衛門尉の名前は忘れ去られていて、「坊主あがりの侍が大出世をして実権を握っていた」という伝承だけが残っていた。そんな事情だったかもしれない。

義龍在位7年間の功績
天文23年(1554年)の3月、家臣たちから擁立されて新国主となった義龍だが、実は、彼が美濃の国主だった期間は、わずかに7年でしかない。 というのも義龍は永禄4年(1561年)に、35歳という若さで病死してしまったからである。 しかし、この短期間に彼がおこなった数々の施策は、ほとんど戦争しかしていない道三とは、比較にならないほど進歩的だったといっていいのである。

まずは義龍がおこなった外交政策だが、これまでみてきたように、隣国の大名たちは、土岐家の一族を保護し、それを美濃侵略の口実にしてきた。そこで義龍は種々の工作によって幕府に働きかけて、永禄元年(1558年)に治部大輔という官職を手に入れ、翌永禄2年には、将軍の相伴衆に列している。この相伴衆というのは読んで字のごとく、将軍の宴席や、将軍が他家へ訪問する際に随従、相伴する役職のことだが、簡単にいってしまうと「将軍に信頼された側近」という肩書きを手に入れた、ということだ。

つまり義龍は、これまで「土岐家の国を横領した纂奪者」だった斎藤家の家格の底上げをはかって、最終的には相伴衆に列したことで「幕府に認められた正統な美濃の支配者」という地位を獲得したのだ。これによって、他国は美濃侵略の大きな口実を失うこととなった。この外交政策ひとつをみても、義龍がけっして凡庸な国主ではないということがわかると思うが、外交政策以上にみるべきものが多いのは、彼がおこなった国内政策である。

まず、彼は、国内の統治機構として「宿老制」を導入した。これは、国内の諸問題を6人の宿老(有力家臣) の合議によって決めたということだが、なぜこのような体制にしたのかは、先代の道三が有力家臣たちの支持を失って強制引退させられたことを思うと納得がいく。この時代、安定した政権を築くには、どこの国でも有力家臣たちの信頼を得るということが不可欠だったのだが、義龍は、常に彼らの了解を得ながら諸問題にあたるという姿勢を制度化したのである。

さらに、義龍の代になってから、国内の武士に宛てた知行宛行状(大名から家臣に与えられる「土地」という給料の証明書)が、さかんに出されるようになった。 注目されるのは、そのなかで知行(領地)をすべて貫高という統一単位で記録していることである。 これは「検地」ほど強制的な方法ではないが、義龍が領国内の生産力を正確に把握しようとしていた、ということだ。実をいうと、これはたいへんな「大改革」なのだ。というのは、この貫高で表わされた領地の生産高から、一定の規準によって公平に軍役を課すというのは、当時、北条家、今川家、武田家などの先進国だけがおこなっていた進歩的な軍団編成のシステムだからである。

この時代の大名は、主君といってもほとんどの場合は、その国の小領主たちの「盟主」にすぎなかった。いってしまえば組合長のようなものだ。そこから一歩踏み出して、領国全体の土地を把握する権限を持ち、これらの小領主たちを家臣団として編成していたのが、北条、今川、武田などの先進国である。

つまり、義龍は、彼らのように大きな権限を持った大名になる、その前段階にいたのである。実は、そのことを裏付ける証拠もあるのだ。その証拠というのは、彼が永禄3年(1560年)に印判状を発給していたという事実である。この印判状という様式で文書を発給できるということが、「大名が強力な権力を持っていた証拠」だ。

だが、美濃の国を改革したのは道三ではなく、義龍だったという結論には、もう納得していただけるのではないだろうか。つまり、「通説の道三」は「義龍の改革者としての功績」も盗んでいたのである。



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