茨城県・水戸城|水戸徳川家の名城も戦災で現存しない今は学校

水戸城(茨城県水戸市三の丸)

水戸駅のすぐ北側、小高い丘陵上が水戸徳川家の居城、水戸城址である。城内には学校群が建ち並ぶ。

本丸が水戸一高、東二の丸が同校グラウンド、二の丸が水戸三高、第二中、茨城大附属小、三の丸が三の丸小の敷地だ。藩校遺構として有名な弘道館は、三の丸の旧大手門前にある。

弘道館は水戸徳川家九代の斉昭が開校した藩校で、本格的な書院造の正庁、至善堂、正門等が残る。弘道館の北側には、三の丸をめぐっていた土塁と空堀が明瞭に残存する。とりわけ士塁の保存状態が良好で、関東の城郭らしい景観をつくる。

弘道館正門前に架かる橋が大手橋で、大手堀切は今は道路となり、橋の下を通る。橋を渡ると土塁が方形に囲む。桝形虎口の跡だ。

佐竹義宣が豊臣大名として築いた水戸城の正門であった大手門は、桝形の外側、橋詰側に柱配置が六尺五寸で建つ櫓門であった。この櫓門は、二葉の古写真が伝わり旧状が判る。


水戸徳川家の名城
水戸藩の姿を見事に写す
今残る水戸城の遺構は、徳川家康の第十一子頼房が寛永年間に整備したものである。

この地に初めて城が築かれたのは1193年であり、この地の豪族・馬場大嫁によるといわれる。1416年から1590年までは、江戸氏が代々城主を務め、その後頼房が1609年にわずか7歳で入城するまでは佐竹氏が城主であった。今日の水戸城の縄張りも佐竹氏の築いたものを原型としている。

北を那珂川、南を千波湖に狭まれた天然の要害に城は築かれ、東西の斜面上に本丸、二の丸、三の丸、城下町である南町、泉町、大工町を配する惣構えとして五段の堀を構えている。

本丸は台地東端の崖上に築かれ、東西一一五間、南北六三間の規模を誇ったという。しかし本丸に天守は築かれず、北西と南西に三階建ての物見櫓が建てられたに留まった。また、石垣も本丸から三の丸にかけていっさいつくられなかった。これは、華美な装飾には金をかけず、文化振興に力を注いだ水戸藩の姿を写して見事である。

水戸城は幕末、そして第二次大戦と、3度にわたり戦災に巻き込まれたため、当初の建物はほとんど現存しない。また城域は、水戸市の中心部として開発されたため、遺構の破壊もかなり進んでおり、地形としてかたちをとどめるに過ぎない。

本丸跡には現在、水戸第一高校があり、旧水戸薬医門(重要文化財)が移建されている。

本丸と二の丸を隔てていた空堀は、現在、水郡線の線路が走っており、大手橋が架かる。旧二の丸は東西190間、南北160間の広さで3階建ての櫓や政庁である屋形があったという。現在は水戸第三高校、茨城大学付属小学校、水戸第二中学校の敷地となっている。

二の丸からさらに橋を渡ると、旧三の丸があり、水戸藩子弟の文武教場であった弘道館が現存する。正面は桟瓦葺きで、切妻屋根をもつ四足門が建ち、正庁、至善堂、孔子廟正門、鐘楼などが漆喰塗りの白壁の塀に囲まれて、今に伝えられている。

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