滋賀県・水口城|三代将軍家光が築城した小さな二条城

水口城は小さな二条城

東海道の宿場町
のんびりとした田園風景の中を走る近江鉄道の単線電車に乗り、水口駅で降りると、かつて東海道五十二次の宿場町として栄えた水口の町並みを偲ぶことができる。

初代将軍徳川家康も、二代秀忠も、京都へ上る際は東海道を利用した。桑名、亀山、膳所にはそれぞれ城郭があるので、当然それらに宿泊したのだが、亀山と膳所の間は、やや距離があるため、その中間の水口に宿泊しなければならなかった。

初代家康は、水口の地を好み、関ヶ原の戦後、すぐに徳川氏の直轄地とし、1607年、1614年、1615年の三往復にわたり水口に宿泊したが、寺院などを利用していたという。

また1620年、二代秀忠の娘和子が、後水尾天皇の妃として入内の際、秀忠も和子も水口の寺院に宿泊した。しかし、本能寺で明智光秀に奇襲をかけられて非業の死を遂げた織田信長のことを考えると、やはり寺院に宿泊するのは無防備すぎる。そこで最低限の応戦設備をそなえた宿泊施設を建設することとなった。

1634年の三代将軍家光の上洛が決まるとその2年前より、宿館あるいは御茶屋として水口城の造営が開始された。築城には延べ10万人の大工を動員、3年がかりで完成された。

家康崇拝から生まれた城築城にあたり、まず2キロほど離れた場所にあつた水口岡山城跡から石材を運び、水口城の石垣に転用、本丸と二の丸の二つの曲輪が築かれた。本丸は75間×79七九間、二の丸は出丸とも呼ばれ、本丸の東へ張り出された20間×20間の敷地に建ち、どちらもほぼ正方形の間取りをもつ。

本丸は将軍専用の宿泊施設で、二の丸は食膳を調えるための賄所と、警護のための番所が置かれた。本丸の間取りは、東から順に玄関、遠侍、広間があり、西に奥向きの座敷や亭、休息所、風呂があった。北には台所や控えの者の部屋があり、これらの配列は京都での将軍の居城である二条城と酷似している。

二条城は1626年、家光の命により作事奉行小堀遠州が改修築したものである。そして水口城はその数年後、同じく家光の命によって遠州が造営を担当した。つまり、二条城の改修に満足した家光が、二条城の縮小版として遠州につくらせた城こそが水口城であったといってよい。

家光は祖父にあたる家康を強く崇拝し、まるで信仰するかのようであったことはよく知られている。家光が肌身離さず持っていた御守袋には「生きるも死ぬも何ごともみな大権現(家康)さま次第」という一文が入っていたといい、夢にみた家康の姿を画像として描かせたり、家康の夢をみて病気が治るという霊体験をしたという。

父秀忠が、弟の忠長ばかりを可愛がり、将軍を継がせようとしたといわれ、家康の命令で、なんとか家光が将軍職に就けたといったことも無関係ではない。

そこで、祖父の築いた二条城をさらに豪華に改修築し、1632年に父秀忠が死去すると、家光は誰に遠慮することなく、祖父が好んだこの水口の地に城郭を築いたのだろう。

というのも、水口城完成の年、今度は祖父家康を神として祀った日光東照宮を、現在の絢爛豪華な姿に大改修しているからである。二条城、水口城、日光東照宮といった一連の造営は、決して無関係ではなかったといってよい。

城郭の屋根は通常、耐火性に優れた瓦で葺くが、水口城の本丸西の将軍の奥座敷や亭、休息所、風呂などに限って、木賊葺と呼ばれる木製の趣味的な屋根であったという。しかも亭は縁側のついた3階建てで、西に突き出された本格的な数寄屋造であったといわれる。

さらに周囲は遠州得意の作庭が施されていたという。これらの意匠は、城郭とか単なる宿泊施設というよりも、遊興施設といったほうが正しく、水口を愛した祖父の気分を満喫することが、水口城の役目であったのかもしれない。


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