滋賀県・長浜城|秀吉が築城した初の居城

長浜城(滋賀県長浜市公園町10-10)

豊臣秀吉出世の域長浜城
滋賀県長浜市公園町10-10
築城者: 豊臣秀吉
遺構: 石垣

長浜城は、安土桃山時代の天正3年(1575)に羽柴(豊臣)秀吉が琵琶湖北東岸の今浜に築いた城です。織田信長に従って、浅井・朝倉攻めで軍功をあげた秀吉は、信長から浅井長政の旧領である北近江三郡を与えられ小谷城に入りました。

しかし、この城は山上にあり、領国統治には不適当でした。そこで北陸街道に近く、水陸両路の要衝で、しかも鉄砲生産地の国友村の管理にも便利な今浜に新城を建設することにします。城下町造りも進み、商人も集まってきました。

築城直後に秀吉は、信長の一字を賜って地名を長浜と改めます。秀吉の後には柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが城主となりましたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城とされてしまいました。現在、城跡は豊公園となっていますが、琵琶湖に面して長浜城歴史博物館が建っています。

昭和58年に築造されたものですが、秀吉時代の天守を模しており、往時の城の姿を再現したものです。館内では、秀吉による湖岸での築城場面を想定した「長浜築城ジオラマ」や、古代から現代までの北近江の通史・城郭資料などが展示されています。

また長浜の町には、秀吉ゆかりの史跡が多く残されています。町の中央を北国街道が貫き、旧街道沿いには紅殻格子の旧家や教会、寺院が立ち並び、独特の雰囲気を醸し出しています。


長浜城は秀吉初の居城
天下人、秀吉の居城。大坂城を観察する前に、信長がいまだ天下人であった頃、初めて秀吉が領地を与えられ、自らが居城として構えた長浜城とその城下町についてみておきたい。

琵琶湖の北側の湖岸、現在の滋賀県長浜市は、秀吉の領地となるまで「今浜」と呼ばれた。

その歴史を簡単にひもとけば、南北朝時代の1326年、京の北朝側の足利高氏が、奈良の吉野に朝廷をかまえた後醍醐天皇と北陸の新田義貞との交渉を断絶するために、水路と陸路の要衝であったこの地に築城して、今浜氏に守らせたのが城構築の初見である。

これが今浜の地名の発祥であるが、その後、浅井氏の土地となり、1573年に信長の命により秀吉に滅ぼされ、その褒美としてこの今浜を含む12万石が与えられたわけである。

ところが、それまでこの地域の居城といえば、小谷城に構えるのが常識であった。にもかかわらず、秀吉がこの今浜に居城を築いたのは、彼自身の信長への進言であったという。

それではなぜ今浜に居城を構えたのかといえば、今浜は朝妻港から大津、京へ至る水路交通の要である上、中山道、北国街道へつながる北陸や関東との陸路交通の要であったことが第一にあげられるだろう。

また第二に、標高230メートルの山頂の小谷城は、その城下町の発展性が乏しいのに比べて、今浜は平地で、町づくりに適している上、当時、武将を悩ませた一向一撲で知られる浄土真宗寺院の集中する地であり、その統治のためであったともいわれる。

さらに第三には、今浜の北東に、鉄砲の生産地。国友があり、鉄砲鍛冶職人の工房が集落を形成しており、これらを支配、掌握するためであったといわれている。
このような軍事性、居住性共に優れた土地を選んで居城を建てたところに、秀吉の先見の明があったといつてもよい。

今浜の地が「長浜」と呼ばれるようになったのは、秀吉の命名といわれ、その理由は一説には、今浜では今だけの発展となり、縁起をかついで、末長く続くよう長浜と名付けたという。また、主君「信長」の名の「長」を秀吉が頂戴したともいわれている。


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