愛知県・名古屋城|信長の時代に20年も廃城とされたが家康が復興させた

名古屋城

関ヶ原の戦に勝利して、晴れて天下人となった徳川家康。豊臣秀吉の遺児・秀頼がいる大坂に対する最重要拠点を、名古屋と見た家康は、かの地に泣く子も黙る巨大城郭の築城を決意する。この普請は築城の名手・加藤清正を始め、秀吉ゆかりの西国外様大名20家に命じられた。外様大名たちの財力を削り、徳川の威光を世に示す狙いあってのことである。家財を投げ打って新たな主君の居城を作る大名たちの心中、いかばかりであっただろうか。

こう度々の手伝いでは、身代がもたぬと愚痴った大名がいてこれを開いた清正か「嫌なら、国に戻り戦支度でもするがよい」と返すと、何も言えずに口をつぐんだという逸話がある。当時の家康の権力がどれほどのものか、よくわかるというものだ。

そんな背景あっての城は、徳川はスゴイを示すため絢爛豪肇さが最重要。 見事な石垣や大天守など、至るところで分かりやすく戚厳に満ちているが、その最たる例が有名な 金の鯱だろう。 金色に塗りこめれられた、武将たちの意地とプライド、そして悲喜交々。慮りながら、いざ名城見学。

名古屋城天守は金鯱であまりにも有名だ。金鯱は、慶長17年(1612)につくられた際は雄が8.65尺、雌が8.5尺で、これに使用した金は大判1940枚、小判にして1万9975枚であったという。残念ながら、この金鯱をのせた大天守と、小天守、壮麗を極めた本丸御殿は、昭和20年の空襲で灰壗に帰した。

戦後、焼け落ちた天守台石垣下より金鯱の溶けた破片を集め、茶釜をつくった。この茶釜が二の丸庭園の四阿内にあるので、見学するのも一興である。名古屋市のマークが大きく刻まれているのが印象的だ。この二の丸庭園には、入口に古びた石碑が立つ。昭和30年代末までは、はっきりと「那古野古城之跡」と読めたが、今では文字が剥落してしまった。


中京繁昌由来
名古屋(那古野)に最初に城が築かれたのは大永の初年だという。大永は西紀では1521年からはじまって7年つづく。なお言えば武田信玄がこの年に生れている。築いたのは駿河の守護大名今川氏親だ。

堤利将軍の一族で三管領の一つであった斯波家の管国で、当時の当主は斯波義達で、清洲に居城していた。この頃三河に大河内貞綱という豪族がいて、今川家と城不和となり、戦いをくりかえしていたが、斯波家に援をもとめた。

一体今川家は斯波家と同じく足利の一族であるから、斯波家とこんな相談に乗って同族相争うようなことをしてはなら銑鉢たて、老臣らは重々諫言したのであるが、義達は心浅くも、ふり切って出兵して、遠江で今川勢と戦った。

結果はさんざんであった。大敗して、戦場近くの寺に逃げこんで髪を剃って降伏した。
氏親は同族の親を思って、義達のいのちを助け、自分の末子の氏豊をつけて清洲に送りかえしたが、同時に那古野に城を築き、氏豊をここにおいた。この城は当時「柳の丸」といって、今の二の丸のへんだという。

その頃、尾張海東郡勝幡城の城主で織田信秀という人物がいた。信長の父だ。織田氏は斯波家の家老の家柄で、両家あって、上四郡を領していたのを上の織田家、下四郡を領していたのを下の織田家と呼んでいたのであるが、信秀の家はそのどちらでもない。

下の織田家の家老であった。斯波氏から見れば陪臣である。
しかし、下剋上といって、権力が下へ下へと移って行く時代で、たとえば足利将軍の権力は管領たる細川氏に移り、細川氏の権力はその家老である三好氏に移り、三好氏の権力はその家宰である松永氏に移るといった調子であった。

これは幕府だけの現象でなく、全国的な風潮で、尾張もご多分にもれず、陪臣たる勝幡の織田家はなかなかの勢力であった。とくにこの信秀は英雄信長の父だけあって、権謀まことにたくましい人物であったが、いつかこの那古屋城に目をつけて、これを奪おうと思い立った。その奪取の計略がおもしろい。

信秀と今川氏豊とは連歌友達で、時々那古屋城に行っては連歌をして楽しんでいたが、ある日、氏豊に言った。

「好きな道というものはいたし方ないものです。こうして殿と心ゆくまで連歌しましても、お暇をいただいて居城に立ちかえりますと、すぐまたやりたくなります。といって、折りかえしまた出かけてくるのも億劫でございましてねえ。こまったものですわい」氏豊は笑った。

「拙者もそうなのだ。おことが帰って行かれるとすぐ、また歌ごころがわいてくる。どうじゃろう、こんどからまいられた時は、お泊りになっては」「そうまでご迷惑をおかけしては」

「なんのなんの。迷惑どころか、ありがたいのだ」

そこで、2、3泊しては日夜に連歌を楽しむことになり、ついにはどちらから言い出したことか、氏豊から言い出したにしても、言い出すように信秀がしむけたのであろうが、城中に逗留所を構築することをゆるした。

信秀はせっせとここへ来ては、数日逗留して、氏豊と往来しては連歌三昧にふけっているようであったが、享禄5年(天文元年。1532)の春、大永元年から11年目、城下の村落に火を放って、城内の人々が火事よとさわいで気をとられている間に、一手の兵をもって突如攻めかけさせ、同時に信秀は城中にあってさわぎ立てて斬り立てた。

油断しきっていた今川勢はどうしようもない。手もなく城を追いおとされ、氏豊はいのちからがら逃げ落ちた。

多年の親交も、風流の道も、すべてこれ権謀術数の材料にしかならない、おそろしい時代のすがただ。かくて、まんまと城を乗り取った信秀はここに移り住んだ。
後年の信長吉法師が生れたのは翌々年である。

信秀はこの翌年、古渡に新城をきずいて引き移り、那古屋城にわずかに数え年2歳の吉法師が城主としてのこった
信長は20歳までここにいたが、20の時、この前年主家の斯波氏をほろぼして清洲城主となっていた織田信友を討取って城をうばい、清洲に移った。

以後しばらく、那古屋城には城代をおいたが、2年ほどで廃城となり、ずっと復興されないこと42年間、慶長15年(1610)におよんだ。


数奇な金の観と抜け穴伝説
徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の本拠として威容を誇ったのが名古屋城である。天下に知られた金の観をいただいた天守、築城当時の姿を残す櫓や門、そして石垣に「天下普請」によって築城にそそがれた、当時の人々の情熱を偲ぶことができる。

この城はそもそも「那古野城」と呼ばれ、今川氏豊を城主とした。ところが1532年、織田信秀が城を奪い、その子織田信長はこの城で生まれたという。しかし、信長は勝幡城で生まれたという説もあって誕生地は判然としない。

どちらにしても、成長した信長は名古屋城主となる。しかし、勢力を拡大するにつれて清洲城、岐阜城、安土城と本拠を移したため、名古屋城は20年以上も廃城とされ、草木の繁る森林と化していった。

名古屋城が再び脚光を浴びるのは、徳川家康が天下人となるまで待たなければならなかった。家康は徳川幕府の一大拠点として、かつて信長の居城のあった場所に目をつけ、巨大な城を新築、九男でわずか7歳の義直に与えた。

築城にあたり、同じ尾張平野にあつた清洲は、徹底的に破壊され、そればかりか城下町ごと名古屋に移転された。築城というより、移築と呼んだ方がふさわしいかもしれない。天下取りを目前に、西軍を迎え撃つ防衛線をなすための急務であったからに他ならない。

清洲城下の武家屋敷。町屋敷はいうまでもなく、神社3、寺110、橋や民家の植木、庭石にいたるまでもが、根こそぎ移築された。7万人もの住民も、強制移転させられたという。清洲の町は、またたく間に荒野と化したといわれる。この移転を「清洲越し」と呼び、当時の「臼引き歌」には思いがけない 名古屋ができて花の清洲は 野となろうと歌われている。

造営に関わった普請奉行は佐久間政実、荒川忠征、作事奉行は小堀遠州、縄張りは牧野助右衛門、大工棟梁は中井正晴、大工頭は岡部又右衛門であった。

1612年には本丸殿舎が完成し、天守には金続があげられた。天守は五層五階で、延床面積では江戸城や大坂城の天守を上まわり、史上最大規模であった。容積では、姫路城の2倍以上を誇った。翌1613年には三の丸の工事が始まったが、大坂冬の陣が起こり中断、その後、豊臣家が滅亡し、三の丸を造る必要がなくなり、未完のまま中止となった。






名古屋城(愛知県名古屋市中区本丸)
別名 金鯨城 柳城 亀尾城 蓬左城 
所在地 名古屋市 
種類 平城
築城者 徳川家康 
築城年 慶長15年(1610)
歴代城主 徳川氏 石高 徳川氏61万石 
遺構 復興天守閣 本丸 西の丸 深井九 二の丸 石塁 堀



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