秀吉の朝鮮出兵と見事にだまされたニセ明の使者

秀吉の朝鮮出兵

ところで「唐の国を征服」するはずだった日本軍が朝鮮で戦争をはじめた理由は、日本に遠洋航海術がなかったからである。明の国に船を横づけできないから、朝鮮半島を通って陸地伝いに攻め入るしか方法がなかったのだ。

朝鮮に軍勢を送り込むにあたって、その前に秀吉は、まず朝鮮の国王に国書を送っている。それには、「わが母が自分(秀吉)を懐胎したとき、日輪が懐に入る夢を見た」というようなことが書かれていて、こういう奇跡のおかげで自分は日本の六十余州を討ち平らげることができたのだ、というのである。そして、「今度は海を越えて大明国に進み、日本の力で、この国を日本のようにしたい。ついては、貴国はその先鋒をつとめよ」と、最後は朝鮮の国王が、唖然とするようなことを命令しているのである。

なぜ朝鮮の王が唖然とするかといえば、当時、朝鮮は明国を宗主国と仰いでいたからだ。とつぜん隣の国の最高権力者からこんな無礼な手紙をもらって、はい、仰せのとおりにいたしましょうと、宗主国を裏切る国があったら、そっちのほうが異常だろう。結論をいうと、朝鮮側は、この秀吉の命令を無視したのである。 そうして、その1年後の天正20年(1592年)の4月13日、小西行長ら第一軍1万8000が、朝鮮半島の釜山(プサン)に上陸する。これが、後世に悪評高い、秀吉の朝鮮出兵のはじまりであった。

釜山に上陸した行長ら第一軍は、約2時間の戦闘で釜山城を陥落させ、翌日には東莱(トンネ)城を陥とした。その後、朝鮮半島に上陸した第一軍から六軍までの将兵約15万は、たった半月で首都漢城(ハンソン)を陥とすという超快進撃をみせるのである。 いっぽう、そのころ秀吉は、この大陸進出のための本陣として築かせた、肥前の名護屋城にいた。彼がこの地に入ったのは4月25日のことで、着陣して早々に「漢城陥落」の勝報を聞いたのだから、さぞ気をよくしたに違いない。さっそく、秀吉は5月18日、前年に関白職を譲って京都の留守番を任せていた甥の秀次に書状を書いて、今後の抱負を披露しているのである。

この書状は二十五条の条書きになっているのだが、前半の十五条は、来年予定されている秀次出陣の準備についてのこまごまとした指示だ。注目されるのは後半の部分で、そこには、「後陽成天皇を唐国の都、北京に移すことにする。おそらくその出発は翌々年になるであろう。そして天皇には北京周辺の十力国を献上する。

公家たちにも、全員に現在の十倍の所領を与えよう」(十七条) 「そなたは唐国の関白に任命して、都の周辺の百力国を与えよう」(二十条) 「日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家か、わしの選択に叶った者を任命しよう」(二十一条)「日本の天皇には良仁親王か智仁親王のどちらかがなればよい」(二十二条)「高麗(朝鮮)の国王には羽柴秀勝か宇喜多秀家を就けて、そうなれば九州には羽柴秀俊を置こうか」(二十三条)などということがつづられている。

いやはや、ものすごい壮大な構想である。ところで、この書状の写しを手に入れた宣教師のルイス・フロイスは、この秀吉の構想を、「多大な妄想、空中の楼閣」(『日本史』)だと酷評しているが、後世の歴史家ではなく、同時代人にも、すでに秀吉の言動が「誇大妄想」だと指摘されているという点は興味深い。 ただ、これが書かれた時点では、大陸に渡った日本軍はまだ快進撃を続けていたのだから、多少浮かれるのもしょうがない


劣勢にたたされた日本軍と秀吉の「7カ条」
天正30年(1592年)の4月に朝鮮半島に上陸した日本軍は、一時は小西行長率いる第一軍が平壌(ピョンヤン)まで占領し、加藤清正の第二軍が朝鮮の国境をさらに北へ越えて女真人(満州族)の国まで攻め入るなど、ほぼ半島全域を征服する勢いをふせていた。 ところが、この年の秋ごろから日本軍は次第に劣勢に転じてゆく。 7月7日には、閑山島(ハンサンド)沖で、朝鮮の水軍司令官、李舜臣率いる水軍に、脇坂安治の水軍が大敗を喫している。

同月中には、ついに朝鮮の宗主国である明が参戦してきて、平壌に攻撃をしかけてきた。このときは鉄砲を使って撃退したものの、翌文禄2年(1593年) 1月の平壌での戦いでは、日本軍は弾薬不足でろくな戦いもできず、敗れて、漢城までの撤退を余儀なくされた。 そして、1月26日には碧蹄館(ペクチェグアン)で、この漢城奪回めざして南下してきた明軍約4万3000と、日本軍約5万との間で一大決戦が繰り広げられている。この戦いでは日本軍が大勝利をおさめて、明軍を追い払うことができたのだが、この大勝利も、全体の戦局を見渡せば、当面の危機を脱しただけにすぎなかった。

3月には、劣勢の日本軍にさらに追い討ちをかける事態が起こった。敵に竜山(ヨンサン)倉を焼き討ちされてしまったのである。ここには日本軍を養う2ヵ月分の食糧が貯えられていたのだからたいへんだ。さて、問題なのは、この朝鮮半島に渡った日本軍の苦戦ぶりを、このとき九州の名護屋にいた秀吉が、どこまで知っていたかということである。 朝鮮では、この年の4月初旬ごろから、明の遊撃将軍、沈惟敬と、日本の小西行長が、和睦によってこの戦争を終結させよう、という話し合いをはじめている。

そうして、このふたりの協議の結果、日本軍が釜山まで撤退することと引き換えに、明の使者が名護屋の秀吉のもとにいく、ということになったのである。 5月23日、秀吉は、この明の使者を名護屋で引見した。 ただし、これは明の国王(皇帝)から派遣された正式な使者ではない。沈惟敬が自分の配下のふたりを正規の使者に仕立てて送り込んだ、いわば急場しのぎの「ニセ明使」である。

ちなみに、従来の説では、秀吉はこれを本物の明使だと信じて疑わなかったということになっている。だとしたら、沈惟敬と協議を重ね、朝鮮半島からこの「ニセ明使」を伴っていっしょに名護屋にやってきた行長も「秀吉をたばかっていた」可能性がでてくる。でも、その疑いはひとまず置くとして、明側が交渉のテーブルについたものと思った(?)秀吉は、この「ニセ明使」に、次のような7カ条の和議の条件を出したのである。

一、明国の皇女を日本の天皇の后にすること 二、日本と明の勘合貿易を復活させること 三、日本と明、両国の家老が和議の誓紙を交換すること 四、朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲すること 五、朝鮮の王子を人質として差し出しすこと 六、そのかわり加藤清正が先に捕らえた二人の朝鮮の王子は返そう 七、朝鮮の家老は今後日本に逆らわないように誓紙を出すこと

これを秀吉の「譲歩」とみるか「誇大妄想」とみるかは、意見の別れるところである。当初、秀吉が公言していた「唐国までも征服する」という目的からみると、たしかに大幅な「譲歩」だろう。しかし、朝鮮半島で劣勢にたたされていた日本軍の状況や、和睦の使者として海を渡ってきたのが「ニセ明使」たちだ、ということを知っていれば、とうぜん実現不可能な要求ということはわかりそうなものである。

だとしたら、これは現実の状況を無視した秀吉の「誇大妄想」がなせるワザ、ということになる。 ともかく、こうして「ニセ明使」と行長は、秀吉に突きつけられた「七カ条」という難題を持って、再び朝鮮半島に戻ってきた。

このときの日本軍はほとんど半島南岸へ撤退していて、釜山周辺に駐屯してる。 和睦の道を探っていた行長と沈惟敬は、おそらくこの地で秀吉が示した「七カ条」の和議の条件を前にして、頭を抱えたに違いない。 「こんな要求、皇帝におうかがいをたてるまでもなく、通るわけがない」沈惟敬も、それくらいのことはいったかもしれない。 ところで、このとき、もうひとつの当事者国である朝鮮側は、「断固、このまま戦争を続けるべきだ」と主張していたため、ずっと、この和平協議の「蚊屋の外」に置かれていた。

侵略戦争をはじめたのは日本、侵略されたのは朝鮮、戦争をやめたくなったのは日本と明国である。朝鮮側としては、このまま戦争を続けていたら勝てるかもしれないと思っている。しかも、いま講和なんか結んだら、国土の南半分は日本の領土になってしまうかもしれないのだから、これは当然の主張だ。ただ、善悪は別として、三国とも自国の利益を最優先したなりゆき上、このような展開となってしまったのである。


断ち切られた「か細い講和の糸」
「ニセ明使」が朝鮮半島に戻ってからさほど経たないその年の夏、小西行長の家臣の内藤如庵が、今度は「日本のニセ講和使節」として、明の皇帝のもとへ向かった。これは明国の遊撃将軍、沈惟敬と行長が協議して決めたことである。 そうして、それから半年後、この如庵が明の皇帝に提出した文書には、次のような、驚くべき内容が記されていたのである。

「日本の関白秀吉が、恐れおおくも、深く頭を下げてぬかづきながらお願いいたします。考えますに明国皇帝陛下のご威光は世界をあまねく照らし、日本もまたその赤子です。その思いを朝鮮を通じて伝えようとしたのですが、朝鮮はこれを隠して申し上げてくれません。つまり、戦の原因は朝鮮にあるのです。

日本は沈惟敬との約束を守って、城も領地も朝鮮に返して恭順の意を表わしています。いま使者を遣わしましますから、願わくは、かつてのわが国の足利家のように、わたくしに日本国王の称号を下賜していただきたく、伏してお願いいたします。そうしていただけますなら秀吉は、いっそう忠誠の心を励まして、長く貢献をおこたらないことを誓いましょう」

これが有名な「関白降表」である。言い換えれば「秀吉の降伏宣言」だ。 もちろん、この「降表」が本物ではないということは、すべての学者が認めていることである。だったら、このニセの「降表」を誰が作ったのかというと、これは別に署名があるわけではないのだが、小西行長と沈惟敬、このふたりが共同で作成したということが、ほぼ間違いないとされている。

とすると、今度こそ行長は、本当に秀吉を「たばかった」ということになるだろう。しかも今回のは、いくら「平和のため」とはいえ、国書を偽造したうえに、その文面のなかで、明帝の前で主君の秀吉に土下座までさせているのである。それだけではない。日本の現国王である天皇を差し置いて「秀吉を日本国王にしてください」と頼んでいるから、二重の背信行為だといってもいい。

しかし、ともかく、この秀吉の「降表」を受け取った明国側は、秀吉を「日本国王に任命する」という国書を持たせた使者(この使者のことを冊封使という)を日本に送ることにしたのである。 この冊封使が明国の首都、北京を発ったのは、文禄4年(1595年) の1月30日だった。

この時点ですでに、名護屋で秀吉が「ニセ明使」と引見してから1年半以上も経っているのだが、その後もいろいろあって、この明の冊封使が日本の大坂城で秀吉に会うのは、なんと、さらに1年半以上が経過した文禄5年(1596年) の9月1日のことであった。 さて、古来、諸書は、この日、大坂城の大広間で起きた事件をドラマチックに、おおよそ以下のように伝えている。

この日、秀吉は明の皇帝から贈られた中国の衣装と冠をつけ、大広間の上座に悠然と座って上機嫌な様子であった。 主だった諸大名たちも、同じように明帝から贈られた衣装を身につけて列席しながら、なにやら嬉しそうであった。というのも、内心ではみんなが待ち望んでいた戦争の終結が、すぐ目の前まで近づいていたからだ。 そんななか、明の冊封使が秀吉の前に進み出て、皇帝から授かってきた国書をうやうやしく捧げた。

それを、秀吉のかたわらにいた僧がまた、うやうやしく受け取って、おごそかに読み上げた。 「なんじ秀吉、中国の尊むべきことを知り、使節を送って、北のかた万里の関を叩き、服属を願っている。感心なことである。よって特になんじを封じて日本国王とする」 これを聞いた秀吉の顔からほんの一瞬、表情が消えた。 そして次の瞬間、別人となった秀吉が、席を蹴って立ち上がっていた。 「わしを国王にだと?・わしが国王になったら帝(天皇)をどうし奉るのじゃっ。けしからん。おのれ行長っ、わしをたばかったか」

雷通のはためくような怒鳴り声が広間の壁を震わせ、取り乱した老人が、行長の首をはねると息まいているウソで塗り固められた講和の糸が、ついに断ち切れた瞬間であった。 翌日、秀吉は朝鮮への再出兵を決意したのである。



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