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織田信長の生い立ちから安土城建築までの歴史に迫る

信長の出発点は勝幡と那古野の二つの城

戦国時代を席巻した覇王と怖れられた信長の出発点は勝幡と那古野の二つの城にあった織田信長が天文3年(1534)に生まれた勝幡城は、信長の祖父・織田信定が築城したものの那古野城を得るまで信長の一族が本拠として住んでいた。城の完成は永世年間(1504~1520)といわれる。

信長の織田家は守護代の織田本家から見ると傍流であり、当時は守護代の織田大和守の奉行でしかなかったので、勝幡城も分相応なもので、曲輪内には板葺き平屋の母屋と、数棟の建物があったが、これも土豪の屋敷とさほどかわらぬ規模である。しかし、この小城は尾張最大の商業地である津島に隣接していた。この地の利が、織田家の懐を潤して、父信秀が戦国大名として勢力を拡大してゆく原動力になったと思われる。信長が誕生した時期の織田信秀は、織田家の分家でしかなかったが、徐々に織田本家を凌ぐようになっていた。

那古野城は駿河の今川氏が尾張守護を兼任した16世紀初頭に築城。その後、織田信秀がこの城を奪う。濃尾平野中心部の台地にあり、領国支配には都合のよい地理条件にあったことから、信秀はここを本拠に定めた。

この時に信長も勝幡城から移住してきている。信長は嫡男だったが、幼少の頃より奇行が目立ち、家臣団からは敬遠されていた。しかし父の信秀だけは信長の素質を見抜き、総領息子として信長を遇した。そんな信秀が急死すると信長は織田家の家督を継いだが、清洲城に移って後、この那古野城は反信長派の拠点となった。 信長の重臣である林秀貞がこの城に入るが、彼は信長の弟である信勝を柴田勝家とともに擁立して対立。やがて、織田家の勢力が美濃に拡大するとこの城は廃城となったが、徳川家康が天下を獲った後、この那古野城の跡地に名古屋城を築いている。


永禄10年(1567)に稲葉山城を攻略
濃尾平野の中心部にある小牧山は、尾張と美濃の国境に近く、美濃国を支配する斎藤氏の本拠である稲葉山城を遠望する戦略的要地だった。桶狭間合戦後ようやくのことで犬山城を奪取して尾張を統一した信長は、美濃侵攻作戦を本格始動し、小牧山に城を築いて本拠地を清洲城から移転することを宣言した。攻略目標との兵妬線をできるだけ短くしようという戦略である。

標高85メートル、東西約600メートル、南北約400メートルの山域全域を縄張りとする大規模な城郭を突貫工事で完成させ、永禄6年(1563)には清洲から家臣団を移住させている。さらに南側の山麓には、商家なども清洲から移住させて城下町も形成されている。この時代では屈指の規模をもつ城だったが、美濃を攻略すると、信長はここを4年で惜しげもなく放棄して岐阜へ移転。

彼にとって小牧城はあくまで前線基地でしかなかった。美濃の斎藤氏の居城である稲葉山城は建仁元年(1200)には砦が築かれていたが、この立地条件に目をつけた斎藤道三が、大規模な改修工事を行ない美濃支配の拠点として稲葉山城を築城。この時代屈指の難攻不落の城である。

信長の父・信秀もまた美濃を攻略するため幾度も出兵したが、その度にこの堅城に野望を阻まれてきた。 しかし、永禄10年(1567)信長は斎藤氏の重臣である西美濃二人衆を内応させ、ついにこの城を奪取。美濃を制圧するとすぐに、小牧城からここに本拠を移した。尾張と美濃の2ヶ国にまたがる広大な濃尾平野を支配するには最適の地である。そして、信長は城の名を岐阜と改めた


織田信長の一向宗弾圧に断固として反抗し続けた門徒衆の石山本願寺
淀川と旧大和川の合流点にある上町台地は、地形そのものが難攻不落の天然の要害。 また、瀬戸内海と京の都を結ぶ水運の起点であり、経済先進地の堺にも近い。信長がめざす天下布武の拠点には最適の地だが、そこにはすでに城郭があった。台地の北端に築かれた石山本願寺である。

もともとは本願寺第八世の蓮如が隠居して小さな居坊を建てたものだが、その後、京・山科本願寺が失われると一向宗(浄土真宗)の本拠はここに移された。一向宗は一揆による武力闘争により、戦国大名でさえ恐れる巨大な宗教勢力となっていたのである。

信長が摂津まで侵攻してくる時期になると本願寺の顕如上人は、信長が既存の宗教勢力を圧迫し始めるのに気付く。その時期から顕如上人は、いずれ信長と戦わなければならなくなると予感し、断固として抵抗する決意を固めていた。各寺内町の堀割を深くし、至るところに高井楼を組み上げる。また、本願寺門徒の多い紀州の雑賀衆鉄砲隊を大量に動員し、戦闘集団としての力を蓄えていった。

信長と石山本願寺の間で戦いが避けられないものとなったのは、元亀元年(1570)頃。野田城に籠る三好党を攻めた信長が、勝利の余勢をかって本願寺にも攻めかかる。 大坂ばかりではなく伊勢長島や越前などでも門徒衆が一揆を起こし、10年間にわたる戦闘状態に入るのだった。しかし、大坂の石山本願寺は織田軍の大軍の包囲に耐え、ついに持ちこたえて停戦にもちこんだことで、その鉄壁の防御能力を証明してみせた


長篠合戦では武田騎馬軍国に対して織田信長は3000挺の鉄砲隊で臨んだ
奥三河の長篠城は、信州方面から三河や尾張への侵攻ルートにある戦略拠点。信玄の存命中は武田方に与していた城主の奥平信昌は、その死を知るとほどなく徳川方に寝返った。この地を失うと、武田勢は本拠の甲斐・信濃と東三河の占領地との連絡が絶たれてしまう。

また、奥平氏の裏切りは武田氏の新当主となった勝頼のプライドをかなり傷つけた。そのため感情的にもなっていたようで、出陣に反対する宿老たちの意見を無視して出陣を強行。天正3年(1575)4月、1万5000の軍勢をもって長篠城を包囲して猛攻をくわえた。

これに対して、城側はわずか500の寡兵だった。それでも要害を頼りに必死の抵抗で持ちこたえたが、兵糧蔵を占領されて食料が底をつき、あと数日で落城というところまで追いつめられてしまった。

信長が率いる織田徳川連合軍が援軍として到着したのは、そんな際どいタイミングだった。これまで武田軍に対して守勢だった信長だが、今回は3万の大軍を動員して積極攻勢に出た。それは、戦国最強といわれた武田騎馬軍団を粉砕する秘策があってのことである。徳川勢8000を含む大軍は、長篠城に隣接した設楽原に布陣。丘陵地が連なる複雑な地形は機動戦を得意とする武田軍には不利である。信長はここに馬防柵とよばれる防御の柵を幾重にも張り巡らせ、さらに土塁で固めて強固な陣地を構築。重戦車のごとき武田軍騎馬隊に備えた。

そして、突撃してくる武田軍に対して、この戦いのために準備した3000挺という大量の火縄銃が一斉に火を吹いた。

武田軍の騎馬や兵は馬防柵に阻まれ、突撃が止まったところを狙い撃ちにされた。 山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱といったこれまで武田軍を支えてきた名将たちが、次々に倒れてゆく。日本合戦史上初めて採用された、大量の鉄砲を集中運用する戦術は凄まじいまでの威力を発揮した。壊滅的被害をうけた武田軍は侵攻能力を失って、以後は甲斐・信濃の本拠を守るのが精一杯の状況。この7年後に織田軍の侵攻によって滅亡することになる


琵琶湖畔にある安土山に巨大城郭が完成
日本の国土の中心部である近江平野の琵琶湖畔にある安土山に巨大城壁が完成 京の支配権を握り畿内へ勢力を広げた信長は、その本拠地である濃尾平野と京への連絡路にある近江に新たな拠点を築くことにした。

そして選ばれたのが安土である。 東海道と北陸道が交差する陸上交通の要地であり、四方に敵をかかえる織田軍団にとっては、各地の有事に即応するには最適の地。また、琵琶湖岸にあって水運にも恵まれていた。湖岸には明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城などもあり、軍団の連携にも好都合である。

標高189メートルの安土山の全域に城郭は縄張りされた。琵琶湖の湖面は現代よりも広域で、当時はこの山も湖に張り出した岬のような状態。三方を天然の堀に囲まれた要害の山でもあった。そしてこの時の築城には、6年間の長い歳月をかけている。

小牧城の時のような前線基地ではなく、信長はここを天下統一の拠点とするつもりだった。それだけに完成した安土城は、これまでの日本の城郭と比べてそのスケールは桁外れ。また、常識外れで人を驚かせる趣向が随所に見られるあたりは、いかにも信長らしい。この城には新しい時代の到来を告げる信長のメッセージもこめられていた。

もっとも特徴的なのは、山頂の本丸にそびえる壮麗な天守閣。多層の高層建築を目にしたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、「ヨーロッパのどの城よりも広大で豪華なものである」と、感嘆している。また、本丸や二の九、三の丸などの曲輸は、すべて石垣によって組まれ、さらには山麓部に配置された家臣団の屋敷群にも石垣が使われていた。

安土城は天正7年(1579)に完成したが、この頃には石山本願寺も屈服し、畿内はほぼ信長の勢力圏になっていた。また、もっとも危険な相手であった武田氏も滅亡させて、甲斐・信濃まで織田氏の支配領域は広がっている。もはや、信長が天下の覇者となるのも時間の問題といった状況である。

しかし、城の完成からわずか3年後に本能寺の変が勃発。信長は自刃し、主を失った安土城もまたその直後に焼失してしまう。城は明智軍により接収され、山崎合戦直後に光秀の娘婿の明智秀満が放火して城を退去したといわれるが、その真相については諸説ある


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