検地・楽市楽座・鉄砲の大量使用は織田信長が最初じゃなかった

まぶしすぎる天才信長像

なぜ、ここで信長を取り上げるかといえば、彼は「日本史上有数の改革者」とも「近世を創造した人物」ともいわれている。べつに、そのことについて異論があるわけではないが、例えば彼を、「時代を超絶した天才」という目で見てしまうと、どうしても同時代に生きた、他の戦国武将たちの存在がかすんでしまうのである。こうなると、すこし具合が悪い。

というのも、みなさんの常識を覆すことによって、いまひとつ評価の低い戦国武将たちの、イメージアップをはかろうと目論んでいるからだ。 なのに、その横に、超然と輝く天才に手柄を独り占めされては、どうもやりづらくてしょうがないのである。 現に彼が行なった、時代を先取りするような改革。例えば、検地や、楽市楽座、鉄砲の大量使用などは、すべて彼の独創のように思われている。

しかし、検地は、信長が生まれる28年も前の永正3年(1506年)に、伊豆の北条早雲が小田原で行なったものが最初であるし、楽市は、現在史料上で確認されている限り、天文18年(1549年)に、南近江の六角義賢が観音寺城の城下でやったものが最初である。

また、信長は天正3年(1575年)の長篠の戦いで3000挺の鉄砲を使用したといわれているが、『信長公記』の記述にしたがうと、その数は3000ではなく1500挺程度である。さらに、同じ『信長公記』には、それに先立つこと5年前の元亀元年(1570年)に、信長の援軍としてやってきた、根来、雑賀などの紀州勢が3000挺の鉄砲を装備していたという記述がある。

つまり、鉄砲の大量使用も、彼が最初にやったということにはならないのである。 これは、もちろん彼の責任ではない。強いて、その原因を探すなら、私たちが歴史を見渡すときに、彼が49歳に、本能寺の変で暗殺されるまでに到達した、あまりにも高い頂きから戦国の世を見渡してしまうから、こうなるのだ。 そこで、ちょっと変わった角度から織田信長を見直してみたいと思う。

結果的には、ここからは、「織田信長だって、はじめからスゴかったわけではない」という、いわば、当たり前のことを確認してもらうことになるのだが、別のいい方をすれば「彼は途中からスゴくなった」ということでもある。



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