神奈川県・小田原城|信玄と謙信の攻撃を耐えた難攻不落の堅城

小田原城

JRもしくは小田急線で小田原駅に着くと、ホームの南端に天守が望める。この天守のある小田原城本丸は、近世小田原城の中心で、一方、戦国時代1世紀以上、東国に覇を唱え、豊臣秀吉率いる25万の大軍に包朋され滅んだ北条五代の小田原城は、この天守の建つ丘ではなく、山側の丘の上にあった。今の小田原高校の敷地一帯が北条氏の小田原城の中心だったといわれている。

天守の建つ本丸の南側を、箱根から小田原高校に向って歩くと、競輪場と高校の間の道路右側が一段低く凹地を呈する。北条氏時代の本城域を囲んでいた空堀跡だ。高校のグラウンドからさらに登ると小峯川貯水池と梅林があり、その南側に二重の「小峯御鐘の台大珈切」(国指定史跡)がある。

さらに進むと水の尾に至り、大きな谷に至る。この谷間が北条氏の小川原城の閥端である。東端はどこかというと、市内浜町の新玉小学校から蓮上院裏にかけて残る土塁がこれだ。水の尾から新玉小学校までは東西3キロに及ぶ。

戦国時代の小田原城には、惣構という、城下町と家臣団屋敷を囲む約15キロに及ぶ堀と土塁がめぐっていたのである。この惣構を持つ小田原城は、戦国時代わが国最大の城郭であったといえる。

地震とお城
小田原城は、足利時代に大森頼春が築城したのが最初である。その以前はこの地方は土肥一党の所領であったから、土肥一党の者が居住していたには違いないが、その城がどこであったかは、今日ではわからなくなっている。

大森氏はここに約80年いて、相当な豪族として栄えていたが、北条早雲のためにだまし討ちに攻めとられてしまった。明応4年(1495)9月のことである。

早雲の子は氏綱、その子は氏康、いずれも武略にも民政にも長けた人柄で、北条氏は関東一の大豪族となり上って行ったが、とりわけ氏康は卓抜な人柄で、彼によって小田小原城が天下の名城といわれるほど拡大整備されたばかりでなく、城下町もまた大発展した。

「相州小田原は、領主の政道私なく民を撫愛しているので、近国。他国の民が慕って津々浦々の町人・職人共がいたるところの国々から群がり集まって来ている。されば東は一色から板橋に至る一里の間は商店が棚をならべている。

山海の珍物、琴棋書画といえどもないものはない。これまで見たことも聞いたこともないような異国の器物まで数限りなく積みおいてある。人々のにぎわい、商売の繁昌すること、京の四条五条の町にもまさるほどである」と、「小田原記」に記されている。

この記述は大体元亀頃の小田原の状況である。当時ここは唐人小路とて、中国人の居留地すらあった。三浦三崎が北条氏の港で、中国船は三崎に入港し、小田原に来て交易したと「新篇風土記」にある。

城そのものはどうであったかといえば、本丸は40メートルほどの小高い丘の上にあり、東西1キロ、南北500メートルで、西に藤山・小嶺山があり、二重の濠をめぐらし、三の丸は武家屋敷地になっていたくらいのことしかわかっていないが、いかに堅固であったかは、永禄4年(1561)2月には上杉謙信が、同12年(1569)4月には武田信玄がこれを攻めているが、ついに陥れることが出来なかったことをもってもわかる。

謙信と信玄とは、当時の日本において両横綱ともいうべき戦さ上手な武将だ。その攻撃を見事にこらえ得たのだから、名城の太鼓判をおしてよい。

信玄の小田原攻めがあってから20年間、小田原の繁栄はつづき、日本有数の大都会として、関東では、髪の結い方、着物の着方、刀のさしようまで「小田原様」といって、人々が争って真似したと伝えられている。
21年目に、豊臣秀吉の小田原攻めが行われた。


小田原城 日本最大の惣曲輪
難攻不落の堅城
小田原城が歴史の表舞台に躍り出るのは、1495年、北条早雲が入城してからである。

1416年以後、五代にわたって大森氏の居城であった小田原城を奪い取った早雲は、まず本丸の位置を小峯山から東西を酒匂川、早川が流れ、南は海に面した天然の要害の地へ移し、二重の曲輪を造営、さらにその周辺に堀と土塁を築き、三重に武装した。

以後、北条氏は約1世紀の間、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代にわたり小田原城の強化・拡大を進め、難攻不落の堅城の名をほしいままにした。

1561年には上杉謙信、1569年には武田信玄の攻撃を受けたが、城はびくともせず、かえって攻撃の刺激から、小田原城の強化修築に拍車がかかり、氏康の時代になってついに 本格的な惣曲輪づくりに着手した。戦国時代、いまだ兵農が分離せず、農民、町人も戦に徴用する必要があった。よって領民を保護するために、城の大外郭の中に城下町を囲い込む「惣曲輪」の城郭部分がここに出現したのである。

ヨーロッパの城郭の場合、町ぐるみで武装され、城郭都市とすることは常識であったが、日本においては城郭都市は、ほとんど発達しなかったといってよい。『北条五代記』によれば、小田原城の最も盛んなときには、東西50町、南北70町、周囲5里となっており、これは豊臣秀吉の大坂城に次ぐ規模である。府中城(静岡県)や岡山城、姫路城(兵庫県)などは小田原城の惣曲輪を見習って修築したものといわれる。

また、のちに豊臣秀吉は小田原城を攻撃するのだが、秀吉が京都に居城。衆楽第を造営した際、市街をお土居で囲んだのも小田原城を見習ったものであるといわれる。

さらに秀吉は晩年に大坂城の三の九惣曲輪を築いたが、これは自らの死後、後継ぎの秀頼のために、小田原城を見習って大坂城を強化したものといわれる。

現に大坂冬の陣で、徳川家康が大坂城を攻めた際、この三の丸の惣曲輪が威力を発揮し攻めあぐね、三の丸を取り壊すのを条件に和睦、早速三の丸を埋め戻し、再度夏の陣でなんとか落城できたといういきさつがある。

徳川家康は、1614年に小田原城の大外郭を破壊しているが、江戸城の近くにこのような強じんな外郭が存在するのを恐れたからだという。


小田原城(神奈川県小田原市城内)
所在地 小田原市 
種類 平山城 
築城者 北条氏綱 
築城年 明応4年(1495)
歴代城主 北条氏 大久保氏 阿部氏 稲葉氏 大久保氏 
石高 大久保氏11万石 
遺構 復興天守閣 復興隅櫓 天守台 石塁 堀



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