岡山県・岡山城|黒塗りの烏城は軍事的拠点

岡山城(岡山県岡山市丸の内)

岡山城
国重要文化財 月見櫓、西の丸西手櫓
別名 烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)
分類 平山城
築城年 大永年間(1521~1528年)頃、天正元(1573)年
築城主 金光氏、宇喜多直家・秀家
主な城主 金光氏、宇喜多氏、小早川氏、池田氏
岡山県岡山市北区丸の内2-3-1
白亜輝く白鷺城(姫路城)に対し、烏城と呼ばれる岡山城は蝶漆を塗った下見板張の壁伽の天守がどっしりと本丸に建ち、男性的だ。旭川が天守のある本丸背後に大きくカーブを描き、川面に映る天守の姿は格好のカメラの被写体でもある。

戦国大名・宇喜多直家が構えた小さい城郭を、息子の秀家は、天正元(1573)年より大改修、近世城郭としての体裁を整えました。

しかし、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍についた秀家は改易となり、その後、紆余曲折を経て、寛永9(1632)年、鳥取城主池田光政が入城、以後その家系が岡山城主となって明治まで続いたのでした。

天守は空襲によって焼失、現在のものは復元ですが、黒塗りの下見板張りで覆われており、その雰囲気から『烏城』とも呼ばれています。 岡山城を築城した宇喜多秀家は関ヶ原以前は秀吉の養子待遇となり、一時期は57万4千石の大名になります。

そして加賀藩主・前田利家の娘である豪姫と結婚し、五大老にまで上り詰めたにもかかわらず、関ヶ原の戦いに敗れた途端、徳川政権初の流刑者として八丈島へ流されるという波乱の運命をたどった人物だからです。

84歳で没するまで前田家の援助を受けながら、50年の歳月を生きたと言われていますが、栄華を誇った日々から一転、流刑者の生活へ。どんな気持ちで生きたのかと思うと、その生涯、心情をもっと知りたいと思ってしまうのです。


平成9年(1997)、岡山城は築城400年を迎え、大きく様変わりした。まず天守に金箔瓦が、三層目上の軒先瓦だけだが飾られた。全部を金箔瓦にしなかったのは、予算の関係であるかどうか定かでない。本丸害院跡の発掘調査で、多くの金箔瓦が出土したことから、天守がかって金箔瓦を用いていたことが判明したのだ。金箔は黒漆の壁面仕上げに実によく映えるのである。


黒塗りの「鳥城」 軍事的拠点
597年、太閤豊臣秀吉の五大老の一人、宇喜田秀家が築城したのが岡山城である。 『備前軍記』によれば、正平年間にはすでに上神太郎兵衛尉高直がこの地に城を構えたといい、古くからの軍事的拠点であったことがわかる。

その後、金光与次郎宗高が岡山城主となっていたが、1570年に宇喜田直家に滅ぼされた。直家は城の大改修に着手したが、当時の城の遺構は、現在の岡山城の下に埋没しており、その様相は明らかではない。

1581年に直家が没すると、秀家が後を継ぎ、さらに大改修を加えたのが、今日の岡山城の遺構である。 その造営は、8年にわたる大事業で、旭川の流れを変えて本丸の北から東に巡らせ、天然の外堀とした。

父直家の時代には、現在の二の丸内郭にあった天守を、この外堀の湾曲する部分の内側に移している。 三重の天守は、織田信長の安土城をモデルにしたといわれ、不等辺五角形の平面をもつ。

隣国の兵庫の姫路城が、その白亜の外観にちなんで白鷺城と呼ばれるのに対し、黒い柿渋を塗った下見板張りの外観から「烏城」と呼ばれる。 1945年までは、創建時の天守が国宝に指定されて遺されていたが、戦災で焼失、現在の天守は、鉄筋コンクリート造で再建されたもので、外観は忠実に再現されているといってよい。

江戸期の遺構としてのこるのは、月見櫓だけであり、四代城主・池田忠雄が建てた隅櫓だったもので重要文化財に指定されている。また、不明門や廊下門が復元され、当時を偲ぶことができる。

全体の縄張りは「岡山」の地名にもなった丘陵に、本丸を置いた平山城のかたちを取り、本丸の西に二の丸や西の丸、三の曲輪などを置いた「梯郭式」となっている。北から東にかけては本丸を守る郭はないが、旭川が堀として機能している。

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