愛知県・岡崎城|家康生誕の地で波乱の人生の幕開けだった

岡崎城(愛知県岡崎市康生町)

岡崎城は矢作川と菅生川の合流点の丘上に位置する。この丘に初めて城を築いたのは、三河守護二木氏の守護代をつとめた西郷稠頼で、当時は龍頭山城と呼ばれた。

岡崎城が有名になるのは、大永4年に入城する松平清康の時代からだ。清康の時代に松平一族を束ねて、三河の有力国人領主に成長する。清康は岡崎城に移る前に安祥城にあり、いわゆる十八松平家が形成され、その子広忠の時代に徳川直臣である岡崎三河譜代衆が形成された。

広忠16歳の折、水野忠政(刈谷城主)の娘於大14歳と結ばれ、天文11年12月、岡崎城中で松平竹千代、のちの徳川家康が誕生。

清康が息子広忠に於大を迎えたのは、当時水野氏が尾張織田勢と結んでいたためである。竹千代は元信と名乗るが、これは今川義元の人質時代の偏謹(主君が家臣に自分の名の一宇を与えること)で、今川氏支配を離れた桶狭間合戦後は家康と改名。永禄9年(1566)に新田系徳川系図を朝廷に求め、徳川(姓は源)の名乗りを勅許される。こうして大神君徳川家康誕生の城として、岡崎城は特別な意味をもった。


岡崎城 神君出生の城
逆境と忍耐の人生
岡崎城(現愛知県)は、もと「竜頭山城」とも呼ばれ、西に矢作川が流れ、その支流である乙川と伊賀川の合流点にある竜頭山の丘上に築かれた城である。

明治に入り、全国の城が次々と廃城されていく中で、岡崎城も取り壊され、石垣と堀を残すだけとなったが、後に天守と櫓、大手門などが復興されて現在にいたる。

1452年、西郷棚頼が築城したのが発端であり、1524年、松平清康が入城してから以後、松平(徳川)氏の本城となった。清康は三河の有力な領主となり、徳川氏が歴史の表舞台に現れるきっかけをつくった。
1542年12月26日、清康の孫・竹千代が岡崎城で産声をあげる。この竹千代こそが、のちに江戸幕府初代将軍となる徳川家康である。

1542年といえば、戦国まだたけなわの頃、隣国尾張(現愛知県) に生まれた信長に遅れること8年、秀吉より5年遅い誕生であった。


織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川
これは江戸時代の狂歌で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下取りを、それぞれ餅つきにたとえたものである。つまり、信長がついて秀吉がこねた天下餅を、家康は座ったままで手に入れたという意味で、3人の中で一番楽に天下を取ったと皮肉ったものだろう。

家康は器用な人だ、運の良い人だとよく言われるが、実のところ、これほど不器用で運の悪い人物はいなかった。家康の生まれた頃の松平氏は、東に今川、西は織田という東西二つの強力な勢力に挟まれ、極めて苦しい立場にあった。しかも、松平氏の飛躍の道を開いた清康は、家康の生まれる7年前の1535年、自らの家臣阿部弥七郎に殺されてしまう。わずか25歳の若さであった。松平氏の飛躍が一転、苦境に立たされたわけである。

家康の父・広忠はいまだ10歳。内部抗争により岡崎城を追われ、伊勢や三河、遠江を転々とした末、今川義元の援助で、翌年くしくも岡崎城に戻ることができた。しかし、今川氏の強力な支援を受けるため、家康が生まれると、わずか6歳にして今川の人質として護送される。しかし途中、家康は奪われ、織田信秀の人質となった。
さらに1549年、父・広忠は家臣に暗殺されてしまう。24歳の若さであった。

今川氏は早速、岡崎城を占領、翌1550年には家康は3年ぶりで岡崎へ帰るが、改めて今川氏の人質として、駿府へ護送されたのであった。主のいない三河は、事実上今川の保護領となり、松平家臣団の苦闘と忍耐の生活が始まる。
その後、家康は松平家臣団の期待を一身に背負いながら、12年に及ぶ人質生活のほとんどを駿府で過ごした。

1555年、家康は14歳となり、今川義元が義理の親となって元服、義元の一字をもらって「元信」と名乗り、のちに「元康」と改名する。2年後には今川氏の重臣の娘と結婚、これがのちに家康自身があやめてしまう築山殿である。

こうして幼い時から過酷な運命にもてあそばれ、成長期の12年を人質として屈辱に耐えたことが、家康の用心深くがまん強い性格を形づくったといってよいだろう。

1560年、今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲を受けて戦死を遂げる。それは信長を大きく飛躍させるとともに、家康の生涯にとっても一大転換をもたらすことになった。ようやく人質生活から解放された家康は、この時19歳。念願の岡崎城入城を果すことができた。
その3年後、これまでの「元康」という名を捨て、「家康」と改名した。しかし、今川義元の「元」の字を捨て、自立の決心を示し、三河の統一に踏み出そうとした家康の前に再び厳しい試練が待ち構えていた。三河一向一揆が起きたのである。

「南無阿弥陀仏」と一言となえれば、死後の世界を保証してくれる浄土真宗本願寺派は、戦国時代、しばしば農民を組織して一揆を起こし、大名を苦しめた。有力な本願寺の末寺・上宮寺の兵糧米徴発に端を発し、三河国内の門徒は、いっせいに家康に反旗をひるがえしたのである。
一揆の勢力は一時、家康軍をしのぐほどであったが、多くの家臣を失いながらも彼はなんとか窮地を脱し、これを鎮圧することができた。若い家康が、この一揆から受けた教訓は大きかった。

家康は、この戦いから信仰がいかに人々を強くするかを知ったに違いない。彼が人質から解放され、岡崎に戻った際、菩提寺。大樹寺の登誉上人から「厭離械土、欣求浄土」の言葉をもらい、終生の座右の銘として、生涯の旗印とした。これらが、みな一つになって家康を強い信仰者にしていったといってよい。



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