兵力差10倍の桶狭間合戦で織田信長が見せた脅威の決断力

日本史上屈指の奇襲戦を勝利に導いた

永禄3年(1560)駿河、遠江、三河を支配する東海の覇者・今川義元は、2万5000の人軍勢を率いて上洛をめざした。その途上には、織田信長の清洲城がある。

この当時、信長は四方の敵を倒し、やっと尾張下四郡の支配を安定させたばかりで、まだまだ尾張統一への途上についたばかりだった。信長の兵力では、強大な今川軍に対抗するだけの力はなかった。しかし、今川家は父・信秀の時代から争ってきた仇敵で、信長は降伏して今川の軍門に下ることをよしとしなかった。今川軍の侵攻に対しては三河との国境にある多数の砦を強化して、準備を怠ってはいなかった。

この時、今川義元は信長が清洲城に籠城して戦うだろうと読んでいた。領内各所の砦に兵員を配置しているために、信長の動員兵力は最大でも2500。10分の1以下の兵力では野戦に出ても勝算はほとんどない。そのため、敵地である尾張に入った義元も多少の油断があったようである。

今川軍の先鋒部隊は国境にあった丸根砦、鷲津砦などを次々に落城させている。またこの時期、今川家のものとなっていた大高城は、激しい争奪戦が行なわれていたが、織田軍の攻撃を徳川家康(当時は松平元康)などが救援して守り通している 運命の5月19日、義元は本隊を率いて今川軍が奪った後に前線基地として確保している大高城に入る予定だった。しかし、その途中にある桶狭間で行軍を停止した ここで兵を休ませず、大高城に入ってしまえば悲劇は起きなかったのだが、やはり、信長の主力は通か後方の清洲城に籠っていると楽観して、気が緩んでいたのだろう。

だが、信長は籠城してはいなかった。 部下の諸将にまで籠城と思わせておいて、この日の朝には密かに清洲城を出て、令軍を熱田神宮に召集した。この出障の時、信長は清洲城の本九内で幸若の『敦盛』を舞う。それが終わると突如として出陣を告げ、自らの準備が終わると馬廻りだけをつれて清洲城を駆け出したという。武将たちは慌てて戦闘準備をして、信長の後を追う。信長は熱田神宮まで急行し、そこで後軍の到着を待ち、ようやくにして2000ばかりの軍勢が揃った。

この逸話を見ると、信長はやけになって突撃を開始したかのようだが、実は締密な情報網を最前線に張り巡らしていた。義元がわずかな兵を率いて、主力部隊とは別行動をしているとの情報を得て、進撃を開始したと想定できる。そのまま最前線に急行し、いったん中島砦に入る。そこで義元の本隊が桶狭間にいるという情報を得ると、躊躇することなくその襲撃を 決断した。

昼過ぎ、桶狭間は突如の豪雨に襲われて視界不良だったのも幸いした。雨の中を密かに義元本隊に接近した信長は、ここで総攻撃を命令。この時、義元の本隊は織田軍に倍する5000の兵がいたのだが、ほとんどの兵が甲冑を脱ぎ休憩していた。 そこを急襲されては兵力差ももはや問題にはならない。雷鳴とともに本陣に織田軍が殺到すると、今川軍は大混乱に陥った。

その間隙をついて本陣に突入した服部小平太が一番槍をつけ、続いて突入した毛利新助が義元の首を討った。大将を討たれた今川軍は指揮系統も大混乱に陥ってしまい、もはや反撃にでることも不可能となり、たちまち壊走していく。これによって今川方は全軍が尾張より撤退した。信長は最大の危機を脱して、彼の尾張の支配権をより強固なものにした。 また、この合戦後に今川から念願の独立を果たした徳川家康との同盟も成立させている。



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