奥女中の給料や宗教などの生活や部屋での暮らしを探ってみた

奥女中の住宅事情

大奥の女中たちは住み込みである。彼女たちが寝起きする日常の住まいが、長局といわれる総2階建ての寄宿舎のような棟で、その棟は「側」と呼ばれた。南から順に一の側、二の側、三の側、四の側と呼んだ。それぞれ部屋が東西に一列に長く連なっている。

一の側を上礪御年寄、御年寄、二の側を御客会釈・御錠口、三の側をそれ以下のお目見え以上の女中たち、そして、四の側をお目見え以下の女中たちの住まいとしていた。

このほか身分的にもっとも低い御火の番・御仲居・御末(御半下)などが住む下側というのもあり、これは一の側目、二の側目、三の側目まである。彼女たちは皆ここで寝起きをし、ここから勤めに出るのだが、長局で何の側、あるいは何の側目といえば、すぐに女中の格式がわかるようになっていた。

一の側に設けられた御年寄の部屋は、70数畳も畳が敷ける広さだという。ちなみに二畳を一坪(3、3平方メートル)で計算すると、35坪以上。35坪とした場合、115平方メートル以上になる。ただし、これはあくまで畳敷きの部分であって、床の間や違い棚、縁側、炊事場などの床面積は入っていない。そのため実際の部屋の床面積はもっと広いのである。

部屋は一間ごとに柱が立っていて間数が多い。同居の奥女中や部屋子は部屋の2階に住み、1階に部屋の女主人、例えば御年寄と、その使用人(部屋方)たちが住んだ。二の側、三の側となるにつれて部屋の広さも間数も少なくなる。


部屋の住人
部屋には、部屋方をはじめ部屋子、世話子と呼ばれる者たちがいる。
お目見え以上の奥女中が個人的に雇って、自分の身の回りの世話をさせる世話人を部屋方と呼んだが、部屋方は、雇い主である女主人を「旦那」と呼んでいた。

先にも少しふれたが、部屋方はたいてい裕福な町人や農民の娘たちで、行儀見習いが目的で奉公へ上がっている。のちのち大奥勤めが付加価値となって、良縁に恵まれるからである。

奥女中に格式の差があるように、この部屋方にもそれなりの階級があった。
上から「局」、「合の間(アイノマ、「小僧」、「タモン(多門)」、「ゴサイ(五菜)」の区別がある。

「局」というのは、部屋の万事を引き受け、それを取り仕切る存在である。ちょうど御年寄が奥向きのいっさいを取り仕切るのと同じように、規模も格式も極端に小さいけれども部屋のいっさいの世話をやく。町家なら、番頭という役柄だ。

「合の間」は、その局をサポートするが、旦那の髪を結ったり、衣装の世話もする。
「小僧」は、旦那のそばにいて小間使いをする12歳くらいまでの少女だ。成長すると、合の間に昇格する。

「タモン」は炊事・掃除など、下働きのすべてをする下女である。
妓後に「ゴサイ」だが、ゴサイは部屋方の中で唯一男の使用人で、大奥へ入ることはできない。そのためゴサイは、御広敷と長局の境にある七ツロの詰所にいる。容易に外出できない奥女中の雑用、例えば実家への使いや、町での買い物といった外での雑用をこなすのである。

また、ほかの部屋方が外出する際、お供をしたりもする。御広敷を出入りするので、御門札(許可証)を革の袋に入れ、腰につけて歩いていたという。このゴサイを、御年寄なら3人まで、御中幅は1人、雇うことができる。

ちなみにゴサイは世襲だったというが、「旦那の物を盗むのが仕事」といわれていたというから、あまり信用されていなかったのだろうか。けれども彼女たちにしてみれば、何かと重宝な存在だったにちがいない。

ところで、部屋方を志願する場合は、まずタモンから始めなければならない。タモンから合の間、局と力量次第で昇進できるのである。

けれどもタモンは楽な仕事ではない。花嫁修業の軽い気持ちでは務まりそうにないように思える。水汲み一つとっても重労働なのだ。大きな桶をもち、深い井戸から大きな釣瓶でかけ声を上げながら釣り上げ、水を汲む。担ぐと、太い丸太の棒がしなるほど重い。その水は容赦なく無制限に使われる。

また、日を決めてタモン同士で廊下と台所の掃除をするのだが、渡し掃除といって、大掃除をする日がくると、2階裏の天井にまで水をかけて掃除をしなければならない。大奥勤めという箔は付くだろうがつらい奉公なのである。けれどもここを通過してはじめて、合の間にも昇進できるのである。

さて雇う部屋方の人数だが、旦那の格と考え方によってそれぞれ異なってくる。だから、局とタモンだけという場合もあるし、タモン、合の間、小佃を2人置く旦那も例えば10人扶持をとっている旦那ならば、局1人、合の間2人、小僧1人、タモン2人、ゴサイ1人を雇うかもしれない。

この御扶持は十人扶持だからといって、自分を除いた9人の使用人を雇わなければいけないというものではないのだ。この部屋にいるのは部屋方ばかりではない。子どももいる。部屋方の「小僧」も子どもだが、別に部屋子や、世話子と呼ばれる子どもたちもいる。

部屋子というのは、高級な奥女中が預かっている親類・縁者の娘で、7、8歳から14、5歳くらいまでの少女たちで、しつけや遊芸を仕込んだあと、奥女中として採用を願い出る。そのため部屋子を預かる旦那を、願い親という。

一方、世話子というのは、部屋にいて下働きをする農民や町人の娘たちで、まだ少女のうちにほとんどがゴサイの口利きで部屋にくるという。しつけの仕込みはもちろん、ゆくゆくは下級でも奥女中にと、親は考えて預けるのだろう。

部屋子、世話子と使い分けたのは、部屋子には町人・農民の子どもがいないからだが、その目的は同じなのである。



奥女中の給料
奥女中たちがもらう給料は、一体、どのくらいだったのだろうか。自宅の家計を助け、一生奉公もいとわぬ決意をした女性たちの意気込みに、はたして見合う額だったのか気になるところである。

また、どのような形で受け取ったのか。
奥女中のすべて、つまり最下級の御末(御半下)にまで共通しているのは次の5種類の手当である。

①御切米
これはいわば本給で、1年間にもらえる米の量である。5月と10月の2度に分けて与えられる。この米は蔵前の米問屋に持ち込めば、相場に見合った米価でお金に替えられる。

②御合力金
これは衣装代の特別手当で、小判でもらう。
この御合力金という特別手当が出るようになったのには、次のような経緯がある。
徳川幕府の初期の頃、諸大名は競って将軍家に物品を献上していたのだが、同時に奥女中にも進物をしていた。ところが三代将軍・家光の時代、大名から奥女中への進物が制限された。

そのため春日局が特別手当の恩賜を願い出て、それで御合力金という手当が出るようになったという。ちなみに、「春日局」というのは、家光の乳母、斎藤福に後水尾天皇(第108代)が与えた号である。

③御扶持
本人と、彼女が自前で雇う下働きの女たちの食料である。毎月30日分ずつ、米が現物支給される。男扶持は1日5合、女扶持は1日3合なのだが、奥女中は最下級の御使番と御末以外は男扶持がもらえた。

奥女中の役職によって3人扶持とか、2人扶持と決められている。例えば3人扶持といえば、自分の分と、2人の下働きが毎日食べる米の量だ。男扶持1人と女扶持2人なら、つごう1日11合分の米がもらえる。

④薪、炭、油
これらのほかに、湯の木といって別に風呂用の薪ももらえる。

⑤五菜銀
五菜はゴサイとか御菜とも書き、味噌や塩を買うため、銀でもらう。
年分を現金にこれらのお手当は、奥女中の役職によってそれぞれ高がちがうが、1年分を現金に換算すれば、彼女たちの年俸になる。

実は御年寄と表使だけは、これ以外にも収入がある。彼女たちはその役職にある間、町屋敷(建物のことではなく、敷地のこと)が拝領できるのだ。それを他人に貸して、そこから上がる地代を自分の収入にしていた。

彼女たちの住まいは大奥の長局で、そこを出るわけにはいかないのだから、住むためではなく、収入源として「敷地」が与えられたのである。場所のいいところを拝領すると、地代が年々上がったというから、相当の収入になったことだろう。

それはさておき、お目見え以上の将軍付き奥女中たちの給料の明細をみてみよう。もちろん給料が一定だったわけではなく、時代によって増減があったことはいうまでもない。以下は「大奥女中分限」による寛政年間の給与明細である。現在の価値にしてどのくらいの年収になるのだろうか。

当時、町家に住み込んだ女中の給料が、年3両2分くらいだった。また、先にふれたように、腕のいい大工は月に20日も働かないで一両を稼ぎ、それで長屋の家賃を払い、食べる・飲む・着る・遊ぶのけっこうな消費生活を送っていた。



奥女中は占い、迷信が好き
普段、宗教を意識していない人でも、葬式といえば、お寺にご厄介になることが多い。お寺は必ずどこかの宗派に属しているので、そのとき初めて自分の家の宗派がわかったりする。

けれども個人ではなく、家が宗派に属しているというのは、考えてみれば不思議である。

実はこれ、江戸時代の檀家制度の名残なのだ。
檀家制度というのは、どの家も必ずどこかの寺の檀家になるという制度で、その確立はキリスト教禁止と表裏をなしている。それだけに江戸の人々にとって、仏教はより身近なものになっていた。

大奥の女中たちの信仰も盛んだった。特に十一代将軍・家斉の時代には、法華宗が奥女中の信仰を集めた。というのも、家斉に寵愛された側室「お美代の方」が、法華宗の行者の娘だったからだ。

娘が将軍に寵愛されたのをいいことに、行者である父親が大奥に信者を広めたのである。

その結果、将軍夫妻までも迷信のとりこになった。
奥女中たちも、何かというと加持祈祷をする隠者(行者)にすがるようになった。
その彼女たちが耳にした隠者の姿とは、「深山幽谷の洞穴に坐して修行し、今も五穀を断って木の実を拾い、松やにを練って常食とし、法身を鍛えて法術に通じている尊い人」というものだった。

彼女たちはこれをいともたやすく信じ、崇めたのだった。帰依する者も多く、加持祈祷に惜しまず布施をしたという。

そのころ、市中でも法術の一つだという呪法が流行っていた。そのため呪法を使って、人を呪い殺そうとする者が絶えなかった。どんな相手を呪うのか。

例えば、正妻を排して妾を家に入れようとすれば、人はそれをよしとしない。当然である。けれども加持祈祷をする僧に州談すれば、いとも簡単にその人を呪法で呪い殺せるという。

金儲けになるなら、どんなパフォーマンスもする貧乏売僧(悪徳僧)が市中にはびこっていたのだ。そんなことをしても無駄であるのに、莫大なお金を使って悪徳僧に引っ掛かる者が多かった。

これほど加持祈祷や呪法が流行ったのは、文化・文政年間から天保にかけてである。天保八年、寺社奉行が変わると、それまで野放しだった加持祈祷が取締りの対象になり、大奥でも、みだりに加持祈祷を僧に命じることが禁じられた。それまでは何かというと、加持祈祷が行われていたのである。

例えば、ある夜、御殿の庭でキツネが鳴いたといえば、翌日、御台所はただちに芝増上寺と上野寛永寺へ天下泰平・国家安全の祈祷を命じる。こんなことが日常茶飯事だった。

ちなみに祈薦料だが、御台所が祈祷を命じた場合は金1枚(七画一分)、奥女中なら金3両が相場だったようだ。事あるごとに加持祈祷にすがる奥女中たちは、毎朝、如意輪観音呪いといって、お呪いの呪文を唱えていた。

「オンハラダハントメイウン、オンハントマシンダマニシンバラウン」
このお呪いは計り知れない罪を滅ぼし、悪事・災難を避けてくれると信じられていた。
それにまた、奥女中は占い好きでもあった。当時、丸利という袋物商がいた。そこでは御神籔箱も売っていた。

形は寺社にあるものと同じだが、懐に入るくらい小さくて、象牙に朱塗りがしてある。中に番号の記された蕊が入っている。一箱、金一分。なかなか高いのだが、それも道理で、この御神薮箱は奥女中や芸人相手に限って売られていたからだ。

彼女たちはこの高価な御神銭箱と、本屋から買い入れた『元三大師百銭判断紗』という小冊子を手に、事あるごとに御神籔箱を揺り動かして銭を引き、小冊子に照らしてみて、その吉凶に一喜一憂していたのである。部屋方のタモン1人を雇い入れるときでさえ、この御神銭箱で占っていたという。

奥女中たちがすがれるのは、神仏のほかにはなかったのかもしれない。けれども参詣しようにも、彼女たちが大奥の外へ出られるのは宿下りのときだけだ。

お目見え以上の女中たちは宿下りさえできない。そのため信心深い彼女たちは毎年、下働きに雇っている部屋方のタモンに、あるいは御広敷の御下男に頼んで代参させていた。

代参させるのは、正月7日、5月6日、9月9日に本所の法性寺。また初卯に、亀戸の妙義神社。初寅に芝金杉の正傳寺の毘沙門。初亥には下谷上野の徳大寺に、という具合である。

また4月27日は、雑司ヶ谷の鬼子母神へ代参させる。これは明らかに「子授かり」を願ってのことだろう。あるいは「安産」かもしれない。いずれにしても、「将軍の子が欲しい!」という願いがこめられていることは間違いない。

また代参というわけではないが、奥女中たちはいわれのあるさまざまな習わしにも使いを出し、吉例にあやかろうとした。
例えば「久永の出世の御飯」という習わしがある。

これは、本郷元町の5000石取りの久永家に代々伝わるしきたりである。
昔、いつの頃か、この家の長男が病死し、次男は家出して行方不明。家督を継ぐ者がいなくなり、一家は絶望の淵に立たされた。察した家来が探しに出て、大変な苦労をして次男に巡り会えたのが、ある年の10月初旬であった。

次男はある旗本の中間をしていたのだが、ちょうどそのとき夕飯の最中で、きざみ昆布に油揚げで御飯を食べていた。さっそく家来は次男を連れて帰り、無事に家督を相続させることができた。
その後、次男は出世を果たしたという。

このことから、家来が次男と巡り会った毎年10月初旬の日に、久永家では出世の御飯として「きざみ昆布と油揚げ、それに御飯」を武家の男女に振る舞うようになったという。器具持参の者へも同じものが照られたというから、奥女中たちは弁当箱のようなものをもたせて使いに出したのだろう。

出世は大奥人生の最大目標であったから、どうしても「久永の出世の御飯」にあやかりたかったに違いない。

奥女中はまた、迷信家でもあった。こんな話がある。
日の沈むころに便所に入ると、黒髪を刈られるがごとく切られる。そう固く彼女たちは信じていた。そのため彼女たちは、便所に入る前に次のような歌をくり返し3回、口ずさんだ。そうすれば、髪を切られないと信じていたからである。

髪切りや姿を見せよ神国のおそれを知らば早く立ち去れ

信心深いということは、迷信深いということでもあるようだ。
ちなみに、奥女中に限らず当時の人々は、「蛇が年をとると頭の両側から耳が生えてくる」と信じていたことも事実なのである。


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