大奥の費用が幕府の財政を圧迫│御台所と御食事作法とは

大奥の年間経費は今の160億円

江戸城大奥には1000人近くの女たちがいたのだが、かかる経費は一体、どれくらいのものなのだろう。

明治維新の10年ほど前、安政年間のころには、年間20万両の予算だったという。
前述のように一両を8~10万円で換算すると、8万円なら160億円。10万円なら200億円に達する。これだけの金を、大奥という大所帯にかけていたのである。この経費のすべては、御勘定所がまとめて管理していた。

例えば月末になると、日用品である味噌・醤油などの請求書が御用達町人から、また魚・野菜類の請求書は御広敷の外にある「お搗屋」(民間ではお納屋という)から、それぞれ御広敷の御台所頭に届く。

御台所頭はそれらをチェックし、問題がなければ捺印して御広敷御用人に送る。御広敷御用人はこれらを御広敷役人に提示し、お互いに捺印して御勘定所へ回す。

御勘定所では、問題がなければ御勝手掛の吟味役と勘定奉行がそれぞれ調印する。
この吟味役は500石高、勘定奉行は3000石高で、明らかに奉行のほうが上であるのだが、吟味役は、その請求書が正当と認められないものなら、調印を拒否できた。吟味役に拒否権を与えることによって、勘定奉行の専断を防ぐ仕組みになっていたのである。

2人の調印がなされた請求書は、それから御勝手掛の御老中の元へ送られ、御老中がお目通しのうえ御勘定所へ戻すと、ただちに支払いがなされる。御老中はこのとき吟味役の調印があることを確認するだけである。それだけ吟味役を重視・信頼していたのである。

外部への現金支払いばかりではない。
奥向きで必要な呉服・綿・針・染め物・化粧品・造花・筆・墨・お香道具などの物品は、その明細書を添えて御広敷御用人から御勘定所へ出される。

そして前述の手続きを経て、元方、払い方、御納戸頭へと支払金が回り、その金で御納戸頭が買い入れて、現品を御広敷御用人へ渡すのがきまりだ。

この呉服類は諸家へ進上するもの、あるいは女中たちに下賜するものであって、将軍や御台所が着用するものではない。
薪・炭・油などは御賄頭の担当で、請求に応じて買い入れ、現品を渡すことになっている。

また経費には、御手許金というのもある。これは諸家へ進上するほか、大奥で使われる現金である。年始、中元、歳暮の年に3度、御祝儀の金が御年寄から御末にまで下賜されるのだ。御広敷も同じで、御用人から御下男まで現金がもらえる。この予算が年3000両であるという。

一番大きいのは、何といっても奥女中たちの給料だろう。
これら1年間の経費の決算は、翌年の2月に行われた。
御勝手掛の御老中が御勘定所へ来て総勘定の検査をするのである。

この年間20万両という予算は幕末の和宮降嫁のあとふくらんで、枠内では納まらず、4、5万両も超過するようになったといわれる。ついに慶応2年、大奥の経費節減が厳重に言い渡された。いかにも財政の逼迫がわかる、次のような策がとられたのである。

①御台所のお召し物は洗い張りをして、見苦しくない場合、引き続き着用すること。
これまで御台所の平生の着物は年々、数多く新調されていた。それらは洗濯されずに「おすべり」といって1年に1度、暮れのお納戸払いで御側つきの者がいただいていた。けれども、これからは洗濯して着用してほしいというのである。

②上礪御年寄から御末まで減禄する。
つまり、奥女中のトップから下位まですべて、賃金カットである。

③朝夕の湿気払いのため詰所や長局などで焚く杉の葉は1日30両もするので、これを廃止すること。
今ならさしずめクーラーのドライ機能の使用中止である。その費用が、大奥全体で1日240万から300万円かかっていたのである。

④詰所、廊下などの金網行灯の張り替え、障子破れの繕いは日々するのではなく、1カ月1度に改めること。

⑤盆・暮れ2回の畳替えを廃し、12月の1回とし、場所によっては裏返しでよしとすること。

このほかにも、筆・墨・紙・薪・炭・油を制限したり、廊下行灯の数を減らしたりした。また買い上げ物品は、安いと認められれば御用達町人以外の商店でもかまわないということになった。

さらに御三家・御三卿・諸家の姫君が年始で登城する際、かかる経費が1回2000両もするので財政が回復するまで見合わせること。また御台所がたしなむ煙草は、1日1斤(代価3両2分)とされていたが、1カ月3斤と改められたりしたのである。

こうまで奥向きが節減の努力をしているからというわけではないだろうが、御広敷でもこんな策を講じていた。

買い上げた物品の支払いをすぐにはしない。相手が何度か催促に来てから2、3割の値引きをさせる「引け方」という策をとり、浮いた分を御手許金に加える工夫をしたのである。

こういう涙ぐましい努力の結果、大奥の年間経費は17万両に納まったという。
けれども時すでに遅く、維新はその2年後にやってきたのである。



大奥で好まれた装飾品と雑貨のいろいろ
紙の装飾具には答や笄がある。
笄は、カミカキ(髪掻)の音便だという。つまり当初は髪を掻き上げるのに男女が用いた髪掻なのだが、のちに女の雷に挿して飾りとする装飾具になったのである。

大奥女中たちの髪の装飾具は、銀作りか鼈甲製である。
銀作りのものは平打の答に限られ、随甲製は笄と花答だという。

平打というのは金属を平たく打つことで、この場合は銀を平打にして作った管ということだ。その形は楕円で、両面に松竹梅、菖蒲などが透かし彫りされている。
この平打の管は長さ約7寸(約21センチ)、耳かきの長さが一寸(約3センチ)ほどだという。耳かきまでついていたのである。

笄は長方形で、長さ8、9寸(約24センチ)で厚さが2分(約0.6センチ)ほど。これは結髪の「片はずし」に限って挿すという。ワゲの掛からない一方、すなわち笄の右の端から約1寸ほど手前に穴をあけ、この穴に贈甲製の花菩を差し込む。花蕃には、主に藤や牡丹などが刻まれている。

藤の飾りは、藤棚から花の咲き垂れる様子がきわめて美しく刻まれていて、作るにはかなりの金額がかかるため、御台所のほかに付ける者はなかったという。奥女中の中には拝領する者もいたが、自らの出費で作らせる者はいなかったようだ。

笄の右端、花菩のあるほうは、左端から心持ち細くなっており、その端が少し丸くなっている。

また笄には「竹の節」というのがある。これは直径が5分(約1.5センチ)ほどの筒形の笄で、中央に竹の節のようなものがこしらえてある。

ハコセコ
これは懐に挟んで持つ装身具だ。主に「紙入れ」として使われた。
「ハコセコ」は掻取を着る者にとっては必需品である。地が猩猩緋や緋天鶯絨で牡丹などの縫入りが一面にあるのは高価なもので、儀式など晴れの日に持つものだという。ハコセコを開くと、一端は箱のような作りである。

反対側の一端は黄金色や紫などの糯子裏が付いていて、そこへ縮緬などで花形などの柿込みがいくつか縫い付けてある。ここに7つ道具を挿すのである。7つ道具とは錐・答・鋏・小刀・楊子・尺・型付である。また、箱の中には紅・紅筆・懐中鏡・薬入れなどがしまわれている。

畳んで、小菊の紙十数枚を重ね、紙を重ねたほうを内にして、懐中に入れる。ハコセコの帯に付いている紐の先の巾着を、懐中から帯の下へ挿し込むのは落とさないためである。

ハコセコは斜めに懐中に入れるが、全部が隠れてしまうほど深くは入れない。約1寸5分(約4.5センチ)ほどが外に出るくらいに入れる。その部分に、銀の平打の善を挿し挟むのである。この管はハコセコに挿し挟むために特製されたもので、7つ道具の一つだ。

銀の菩は、平打のところから先が外に出るので、藤の花などが燦然と輝いて見える。
この様子は美しくもまた神々しかったという。

ハコセコは、お目見え以上の奥女中が出勤のとき懐中に入れていた。けれども御台所と姫君は懐には入れず、鼻紙台の上に置いていた。また、外出のときには駕龍の中へ置いた。このように普段、懐中に入れなかったのは、大名ふうが嫌われたからだという。

代参の奥女中が裾からげをするときなどは、鏡付きというハコセコを代用する。これは巾に鏡と答が入っているだけのものだ。

またハコセコに何もかもが入るわけではないので、快落としという袋もあった。
これは縁は縮緬、裏は羽二重の袋を紐の両端に付けたもの。紐を首にかけ、両方に付いている袋を挾へ落とすことから、この名前がついたという。片方の袋には鼻紙を入れ、もう片方には薬や箸やいろいろなものを入れたという。

お守り袋
錦の布で袋を作り、両端を緋縮緬の紐で丸くくける。御台所は、中に摩利支天鬼子母神のお守りが納められている。
奥女中のお守り袋も綴子や錦の布などで作るが、中に鬼子母神や観音祖師などのお守りが入っている。


煙草入れ
煙草入れは、御台所のものも、奥女中のものも同じ品である。
叺型(袋状のもの)で、幅4寸5分、縦2寸5分ほどの大きさだ(約13.5センチ×7.5センチ)。叺とは本来、藁や筵で作った袋や入れ物をいうが、これは錦の布で作られていて、糯子の裏が付いている。

止め金具は銀製で、月にほととぎす、菖蒲などの型が鋳造されているが、きわめて拙い技だという。煙草入れには煙管は添えられていない。大奥の煙草盆には必ず煙管が添えられているので、必要なかったのである。

煙管は羅宇が紫檀の黒塗りで、そこに金蒔絵の御紋が3つ、雁首(火皿)と吸い口には一つずつ御紋が彫られていたという。羅宇とは、雁首と吸い口とを繋いでいる竹の管のことだ。ただ、宿下りのときには煙管を持ち歩くこともあったようだ。煙管はたいてい銀製で、天地が長く、羅宇は短く、やはり拙い仕上がりだったそうだ。

また部屋の主人ともなると、中には羅宇に唐草などの模様がある銀メッキの延紙を巻いた。延紙とは、縦7寸、横9寸ほどの(約21センチ×27センチ)小形の杉原紙のことで、江戸時代には賛沢な鼻紙として用いられていた。大形の杉原紙は錦絵用として使われている。

扇子
扇子は御年寄でも持たないことが多かった。持ったとしても、人の前で使うことはなかった。それだけに他の奥女中は、なおさら持てなかったことだろう。御台所はお正月の三が日に限って檜扇を用いた。ほかは通常の扇子で、夏の季節に使用した。

とはいえ、御台所が自ら扇子で煽ぐというわけではない。お側の者が煽ぐのである。
けれどもすぐに「よろしい」と言われたという。

汗をかくのは下品と思われていた時代だったので、奥女中もよそへ行って煽がれるとすぐに辞退し、屈んで鼻の先を少し自分で煽いだものだそうだ。

扇子の長さは一尺(約30センチ)ぐらいだ。世間にあるより少し大き目のもので、それ以外、これといって外形に変わりはない。

扇の親骨は黒染めで、要は随甲製だ。地紙の片面に金箔の粉末(金砂子)で草花や源氏絵などが写し出されている。

奥女中は出勤の際、扇子を持参できない。けれども詰所には必ず団扇が備え付けられていた。扇子も団扇も、目上の者の傍では使わないならわしだったという。宿下りのときなどは扇子を携帯するが、決して帯に挿したり懐中に入れたりはしない。鼻紙や日傘などの小物と一緒に広蓋にのせて覆いをし、お付きに持たせたのである。

日傘
傘はささないことが多かったようだが、四季ともに同じものを使用していた。紙は土佐産の紺色の厚い和紙(紺土佐)で、両天であるという。すなわち青天・雨天両用の傘なのである。縁は五色の絹糸で飾られていた。

奥女中の傘の長柄には萌黄綴子の上袋を掛けるが、御台所のそれには通常、ひどんすを掛け、裏はいずれも玉虫色の甲斐絹などが付いていた。

汗拭い
御台所の前で汗を拭くときにはうつむいて拭くのだが、このときに使うのが汗拭いである。今のハンカチぐらいの大きさで、白麻製である。

上草履
御台所の草履は5枚草履といい、表は5枚重ねで周囲が萌黄天驚絨製で、真ん中が畳になっている。裏は竹の皮である。鼻緒は紅白の天鴬絨製で、細いのが5本付いていう。

また、庭に出るときに履くのは黒塗りの桐の下駄である。これは紅白の太い鼻緒で、表は萌黄天驚絨で、楕円形の中心は市松模様の畳になっている。

奥女中たちが履く上草履は京草履といい、江戸で作られたものではない。京で作られたが、決して高いものではなかったという。表は5枚重ねで、裏は竹の皮3枚。鼻緒は、萌黄か赤白色の天鷲絨製で2本である。

鼻緒の色はいろいろあるが、模様付きはないという。鼻緒の上へは白羽二重の絹布を縫い付ける。そこに自分の名前を記しておくためだが、上礪以下御中脇などは部屋方の小僧がお供に付くので、その必要はなかったという。小僧が、誰の草履か心得ていたからだ。

奥女中には、主に部屋方が歩く板廊下用と奥の畳廊下用の2足の草履が必要だった。

板廊下は部屋方の者が水汲下駄で歩くので、濡れていたり汚れている。そのため、替え草履がないと奥へ行かれないのだ。上草履も替え草履もこしらえは同じである。
部屋方の者は、外出には雪駄か京草履を履いた。

千足草履という章草履もある。蕊を芯にし、紙の緒2本を撚った鼻緒のもので、毎日、千足くらい履き捨てにするところから付いた名前だという。また御末などが雨の日に履く板(付)草履というのもある。一枚板の上へ畳を付けたものだ。いずれも履き捨て草履である。

絵元結箱・櫛箱
これは結髪のところで出てきた絵元結や小びんさき、畳元結などを入れておく黒塗りに蒔絵がついた箱である。長さ一尺(約30センチ)、幅7寸(約21センチ)で、蓋は打着せである。

紐は紅色で、長さ1尺5寸(約45センチ)また、櫛箱もある。これは大きさは絵元結と同じだが、掛籠(掛子)がある。掛籠というのは、他の箱の縁にかけて、その中にはまるように作った箱のこと。この場合、櫛舘にはまるように作られている。中に挟、擬撫、櫛払、髪櫛などを入れる。これも黒塗りに金の蒔絵がついている。

昆布箱
これはお歯黒をしたあと、「口祝い」といって「結び昆布」を噛むそうだが、その昆布を入れておく箱である。長さ3寸8分(約11.4センチ)、幅3寸(約9センチ)、高さ3寸で、黒塗りで金の蒔絵がついている。

お歯黒というのは、鉄片を茶の汁、または酢の中に浸して酸化させた褐色で悪臭の液(鉄漿)に、ふしのこをつけたものなので、後味のいいものではないはず。口直しとはいわず「口祝い」というところが面白い。ちなみに「ふしのこ」というのは、タンニン材として用いられるヌルデの若芽・若葉などにできる瘤状のもの。これまた味の良いはずはない。

もちろん、このお歯黒を入れておく「黒葉釉」というのもある。

眉作り箱
これは、置き眉を作るときの小道具入れである。黒外しという際置筆の大小二対、白外しという白際を作る筆の小一対、それに紅筆一対、象牙製の芯立て一本、提墨などを入れておく箱である。長さ9寸(約27センチ)、横7寸(約21センチ)、高さ8寸(約24センチ)である。これも、黒塗りに金の蒔絵がついている。

乱箱というのもある。これは櫛など、そのほかの手作りの道具を入れておく箱である。また爪切箱というのもある。爪切鋏を入れておくのである。また、手箱というのもある。これには白粉箱や鏡などを入れておく。いずれも、黒塗りに金の蒔絵がついている。

煙管
紫檀の羅宇である。黒塗りで金蒔絵の御紋が3つついている。雁首と吸い口にそれぞれ1つ御紋が刻まれていたという。

おあがりばし(食事用)
これは柳の白い丸箸。

おもく茶碗
これは薬用の茶碗。外側は梨子地へ御紋散らし。内側は銀の延べたのが嵌めてある蓋物。差し上げるときには三方にのせる。御台所には中年寄、将軍には御錠口が渡す。渡す前に、お風味をするお風味茶碗というのもある。



朝・昼・夕食―大奥の御食事作法
将軍や御台所の日々の飲食物はすべて御広敷の賄い方の御膳所で調理されて、大奥の御膳所へ運ばれる。順序は次のようになる。

まず調理がすむと、御広敷番頭は御用達添番をつれて御膳所に行く。すべての料理の毒味をするためである。なお調理する品はいずれも10人前ずつだが、毒味をするので実際に大奥の御膳所へ運ばれるのは9人前ずつである。
毒味の模様はこうである。

一品一品の料理を懸盤(食器をのせる膳)へ盛り、まず御用達添番が一箸ずつ味わう。ついで御広敷番頭も味わう。対座してしばらく何事もなければ、目礼して「よろしゅうござろう」という。

料理のうち、汁ものは真鐡製の鍋に、そのほかのものは漆塗りのお菫に入れる。これを御膳所の役人が御広敷御錠口から大奥の御膳所へ送る。大奥の御膳所は、お膳立てが整ったところで当番の中年寄に知らせる。

中年寄は、御仲居たちが懸盤へ勝り並べたお料理の1人前をひと通り味わう。再毒味するのである。「よろしい」ということになれば大奥に運ばれた9人前は、ここでまた1人前減って残り8人前になる。

御仲居は中年寄の指図にしたがって、合格した料理を懸盤へ並べ替える。懸盤の内側は朱塗り、外側は黒塗りで、縁には葵紋と、御台所の生家の紋とが金蒔絵にして置かれている。その懸盤に献紗をかけて、御仲居が御次の女中控え所まで持っていく。

御次がこれを受けとり、御休息の間の入口まで運ぶと、御台所付きの御中礪が受け取って御前に出すのである。
食事の際の、着座の仕方は次のようになる。

まず、御台所の後ろに御小姓が2人並んで座る。御座の正面へ一の膳、二の膳を据える。御膳から少し下がったところに御年寄が座り、それより少し下がった右側に中年寄が座る。中年寄の右に黒塗りの椀型の御飯柵、また左には春慶塗りの三方の盆が置かれてある。

また、御年寄の左、少し下がったところに御中礪がいる。その左にはやはり同じ盆が置かれている。

朝の食事内容は、だいたい次のようなものだったという。
一の膳(本膳)は、まず御飯。汁は、味噌汁に落とし玉子。お平(浅い椀)は、花の香を十分にいれた豆腐の淡汁。口取(置合)としては蒲鉾、胡桃の寄せもの、金糸昆布(昆布の心髄だけをとって細く刻んだ金糸状のもの)、鯛の切り身、寒天など。

チギ箱(千木箱)へは朝に限って、食べる前にお初だからと飯粒を3つ入れて蓋をする。千木箱というのは、芝神明大祭のときに売られる杉や桧などの薄い材を飯柵形に曲げた容器のことだ。

二の膳の焼物は、ほうぼうや鯛。精進日でなければ、魚は必ず朝から出たという。お外物は、玉子焼きへ干し海苔を巻いたもの。御壺は、煎り豆腐。香の物は瓜のかす漬、大根の味噌漬などである。

なお、二の膳の香の物は御広敷の御膳所からもってきたものではなく、大奥の御膳所で調理きれたものだ。御広敷からくる本膳の香の物はきわめてまずく、臭気さえあるので、そうなったという。また、お外物というのも大奥の御膳所で調理されたものである。

さて、御台所はどのくらいの量を食べるのだろうか。この時点で8人前が用意されているわけだが、御台所に出されるのは、もちろん一人前である。
御台所の食事の際、御年寄は柳箸で肴をむしってあげるのだそうだ。例えば煮魚の場合、身をむしって、その魚の上にのせるのだという。

それを御台所が一箸なり口に運ぶと、すぐに御年寄は「お代わり」という。つまり一口食べただけで、新しい煮魚に交換される。煮魚にしる焼き魚にしろ、一口しか手をつけないのだから上半分を食べたあと、裏をひっくり返すようなことは決してしないのである。

この時点で、次の間には7人前が残っている。「お代わり」をするということは、別の一人前の肴に手をつけることになるので、残りは6人前になる。

膳部に出たすべての品々は二度までお代わりを出していいことになっていたが、二度まで「お代わり」をすることはまずなかったという。ということは、御台所は一品につき二箸ずつしか食べなかったようだ。

しかも「お代わり」をするのはたいてい大奥の御膳所で作られた料理だったという。
それほど御広敷の御膳所から運ばれてくる料理は、おいしくなかったのだろう。

また、気になるのは料理が作られてから口に入るまでの時間だ。毒味は2回もある。
その間に料理が冷めてしまわないのだろうかという疑問が起こる。

実は大奥の御膳所には箱火鉢があり、汁ものなどは鍋のまま温めなおされていたのでそうでもなかったという。

食事が終わると、御中聰が御次の者に「お茶を」と申しつける。御次は銀瓶に煎茶を仕立て小室焼きの茶碗を添えて、三方にのせて御中繭に渡す。御中臨はお茶を茶碗に汲み、少し冷ましてから御飯用のお椀を御年寄から受けて茶碗のお茶を移す。

なぜ、こうするのかというと、小室焼きの茶碗は水毒を消すと言い伝えられているからだという。お茶の御用がすめば、ただちに御膳は片づけられる。

結局、用意された食事は、手のつかない6人前が残ることになる。その6人前は、当番のお目見え以上の女中たち、つまり御年寄や御中聰がいただくのである。

将軍が一緒に食事をとるときも給仕の仕方は変わらない。ただ懸盤を使わず、黒塗りの、足が折りたためる八寸膳を使うという。

なお、昼の献立も朝とあまり違わないが、千木箱はない。夕食は、一の膳がなく二の膳だけである。お好みで酒を出すこともある。また、朝昼はすべて黒塗りの椀を使うが、夕飯にかぎって陶器製の茶碗で食事をしたという。



大奥で女の戦い!イジメがエスカレート
今でも、女同士の対立や嫉妬をモチーフにしたドラマは数多い。女だけの巨大な館である大奥でも、嫉妬や権勢欲にからむ確執から、さまざまな対立が起きた。
実は、こんな話がある。
文政年間というから11代将軍・家斉の時代である。

ある冬のことだった。御三の問を務める、50歳に近いおせきという者が自害した。そのとき、部屋の者たちはいっこうに気づかなかった。いつものように床に就いたと思っていたのだが、夜が明けても起きてこない。心配になり御三の間に行くと、寝ている湘団の上に座って喉を刺した格好のまま、夜着をひっかぶってうつぶしていたのである。

医師が駆けつけてきたが、表向き病気ということで処理された。おせきは部屋の二階住まいだったので、そのおびただしい血が階下の襖、壁、唐紙へ流れて、実に恐ろしい情景だった。

命を断つほどなので、よほどのことがあったのだろうが、30年余りの奉公を無にしてしまったと、部屋の者たちは無念がった。

その後、また同じ部屋の2階で自害する者が出たため、おせきの霊が足を引っ張ったのではないかと噂され、この部屋の上下は空き部屋となり、そのうち道具類の物置になったという。

ベテランの奉公人を自害に追いやったのには、どんな事情があったのだろう。部屋の2階住まいといえば、部屋の旦那(主人)とは同居という関係だ。おせきにとって旦那は、世話親か願い親になる。

しかも同じ部屋から自殺者が2人も出ている。偶然とは思えない。一体、どんな確執があったのだろうか。

自害といえば、井戸に飛び込んだ女中の話も残っている。この女中の旦那は、実に気難しく、やかましい人で、女中たちはたいへん難儀をしていた。というのも宿下りを何度願い出ても、聞き入れてもらえなかったからだ。そのため若い女中は悩んだ末、井戸に飛び込んだのである。その後、この井戸に身を投げた者は12人におよんだという。

9代将軍・家重の寵愛した2人の側室、「お幸の方」と「お千瀬の方」の対立では、「お幸の方」はことごとく「お千瀬の方」につらくあたり、あげくの果てに暴力まで振るっている。

また、御台所付きの女中たちは将軍に寵愛される側室を、寄るとさわると悪し様にののしることがあった。御台所の気持ちを推し量ってのことだと大奥勤めの経験者は語っているが、それだけではないように思える。

お目見え以上の女中たちがこうであれば、それより身分の低い者たちの間で陰惨な対立が起きてもおかしくない。
最後に、新参者いじめについてふれておこう。御末が新入りの添番にするいじめの話である。

御末詰所では当番を交代する際、炉の灰をかきまぜてならし、先番・当番両者立ち会いのもとで詰所の受け渡しをする。

その際、かきまぜてならした灰に梅の花の形を描くことになっている。このとき、たまたま詰所の前を通りかかった新入りの添番は、古参の御末にこんなことを言われ「突然で失礼ながら、見なれぬお方だ。

いつごろからお役に就かれたのかしら」さらに、新入りの添番は必ず御末詰所の炉の灰に面型を押すことになっている。この際だから今、押していったらいいと。「はて?」と不審気な顔つきをするやいなや、新入りの添番は寄ってたかって押さえ込まれ、顔を灰に押し当てられる。

こうして彼女は顔も頭も灰だらけにして、その場を立ち去ることになる。灰には一輪の梅の花どころか、添番の鼻の跡がくっきり残る。まんまと引っ掛かった新入り添番は、その後、面型さんと呼ばれて笑い者にされたという。まさに「新参舞い」という裸踊り同様、麓憤ばらしのためのいじめである。

大奥は外界から隔絶した閉鎖的な社会だけに陰険な派閥抗争も当然、起きる。それに個人的な嫉妬が重なれば、いっそういじめが陰惨になるのは容易に想像できる。そうしたいじめや嫉妬から生まれた怨恨が、大奥の怪談話につながっていったと考えられるのである。


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