家康と秀吉の決戦である大阪冬の陣と大阪夏の陣

大阪冬の陣と大阪夏の陣

大阪冬の陣
天下取りの最後の仕事として徳川家康は豊臣家を滅ぼそうとして大坂城を包囲した 関ヶ原合戦後、天下を掌握した徳川家康は、慶長8年(1603)には征夷大将軍に宣下され江戸幕府を開いた。しかし、豊臣家はまだ大坂で健在だった。成長する豊臣秀頼の存在を排除しなければ、徳川の天下は安定しない。そう考えた家康は、慶長19年(1614)に、豊臣家を滅亡させようと20万人といわれる大軍を召集して大坂城を攻めた。

徹底抗戦の決断をした豊臣方には、関ヶ原合戦後に浪人した多くの名将や猛将が援軍として参陣。真田幸村や後藤又兵衛が籠る天下の名城は難攻不落だった。 徳川方は最初は力攻めをしようと攻めかかるが、城の南方に出城を構えて徹底抗戦する真田幸村や、城外まで打って出て奮戦する木村重成に阻まれて、城に近づくことさえできない。

そこで戦術を転換、ヨーロッパから輸入した大砲で本丸を砲撃し、大坂城の事実上の支配者である淀君の恐怖心を煽り講和にもちこむ。しかし、これが罠だった。和議の条件として、大坂城の外堀を埋めることを豊臣家に認めさせたのだが、徳川方では外堀どころか内堀の一部までも埋め立てた。しかも、豊臣方に抗議する間も与えない突貫工事で、大坂城を無防備な裸城にしてしまったのだ。 


大阪夏の陣
豊臣家を根絶やしにして徳川家康は江戸幕府を揺るぎないものにする 慶長20年(1615)3月、講和成立からわずか3ヶ月余りで、家康は再び豊臣家に難題をつきつけ、大軍を率いて大坂へ出兵した。防御能力を失った大坂城はもはや籠城戦には耐えられない。豊臣方は野戦に一繊の望みをかけて出撃した。

道明寺付近で徳川軍の迎撃を試みたが、豊臣方は寡兵であり、また、寄せ集めのため相互の連携もできていない。そのため戦場への結集が遅れて、孤立した後藤又兵衛の部隊は全滅、その他の部隊も各個撃破されてしまった。いよいよ徳川軍の主力は大坂城に迫った。5月7日、豊臣方は1万5000の兵を集めて天王寺口に布陣、家康鷹下の20万の大軍と睨み合った。ここで豊臣方の真田幸村は秘策に打ってでる。

阿部野に本陣を敷く家康を狙って全軍が一丸となって突撃、さらに戦上手の明石全登の部隊が迂回して本陣の側面を突く。家康の周囲に布陣する緒隊がその迎撃に気をとられ、防備が手薄になった隙をついて幸村が本陣を狙うというもの。 家康さえ殺してしまえば、この戦いは決着がつく。

豊臣方の決死の突撃により、激しい戦いが始まった。 幸村の狙い通り、家康の本陣付近にも混乱が生じている。その隙を見逃さず、幸村が率いる真田隊は家康の本陣に突撃。本陣は総崩れとなり、家康も一時切腹を覚悟するほどその攻撃は激しかった。しかし、いま一歩及ばず真田隊は全滅。最後の抵抗もむなしく終わり、大坂城も落城。豊臣家はついに滅亡した。




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