大阪府・大阪城|蓮如が大坂という地名の名付け親

大阪城

徳川政権下に築かれた今の大坂城は、わが国の城郭の最も完成された姿をしている。石垣技法、建築技法、兵法でいう縄張面も含め、面積は江戸城に及ばないにしても最高峰のものばかりである。大坂築城後は元和値武となり築城禁止、城修築の制限が徹底され、築城技術は著しく後退するのである。

この最高峰の大坂城は天守は棋擬復興だが、石垣と堀は中核部はよく残り、櫓は川基、櫓門と多聞は三棟残る。慶応四年の失火で焼失した櫓や御殿群は、宮内庁書陵部が蔵する古写真でその全容を知ることができる。大坂城は難波の歴史を育んできた上町台地の最北端に築かれた。

上川台地は住吉大社から天王寺を経て、大坂城天守で終わる。城の東は寝屋川(大洲川)、平野川、猫間川が洗い、城の北端で三河川は淀川に合流、難波の湊をつくった。大坂城は、南の台地続きから攻められやすい。慶長十九年の大坂冬の陣で、真田好白(幸村は俗称)が城の南に真田出丸を構築したのは、この弱点を補うためだった。


絢爛豪華さでは空前の規模となった大坂城はまさに太閣秀吉が築き上げた浪速の夢 石山本願寺のあった上町台地は、信長も当初は天下布武の拠点として築城を考えていた場所である。そして信長の後継争いに勝利して、覇者への道を歩み始めた秀吉も柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で滅ぼした直後の天正11年(1583)より築城に着手した。

本九部分は1年半後に完成し、さらに1年の歳月をかけて本丸に天守閣や御殿を建て、二の丸や外堀が完成した。その威容は安土城をしのぐものだったが、天守閣の外観など、十分に安土城を意識したものになっていた。この城を見た人々は、戦国の陛を制した覇者の存在を知ることになる。

秀吉はこの城を拠点に、徳川家康と戦ってこれを屈服させ、関東や九州に人兵力を送ってこれを制圧。ついに天下統一を完成した。その間にも、大坂城はさらに完成度を高めてゆく。城下には諸大名の屋敷も建造され、城内には瀬戸内の水運を通じて諸国の産品が集まり、名実共に日本の政治経済の中心地として発展してゆくことになる。しかし、大坂城の栄華は、「難波のことは夢のまた夢」という秀吉の辞世の句そのままに、秀吉一代のものだった。


金と朱
大阪城は、秀士口築・城の前までは石山城といった。石山は四天王寺の西にある小丘阜で、聖徳太子が四天王寺をこしらえるにあたって地ならしした時に出た石ころを集めて埋めたところから、この名称ができたと伝えられている。

明応5年(1496)、本願寺の蓮如上人は河内の光善寺から四天王寺へ参詣し、このあたりを散歩し、この伝説に心ひかれること一方でなく、その年の9月、ここに一向城念仏の道場を営んだ。すると、地ならし工事の時、礎石や石瓦が多量に出土した。

それで四天王寺が建てられる以前、すでにこの地に大寺があったのではないかと考えられ、「かかる由緒ある丘に寺を建てることを思い立ったのは仏縁深重のいたすところ」と、蓮如の感激は一方でなかった。翌年11月、堂舎落成すると、石山御坊と名づけ、これを隠居寺とした。

大阪という地名は、漣如が「摂州生玉荘内大阪という在所」と書きのこしているのが初見で、ずっと昔は小阪といった。思うに石山の近くに阪があり、これを小阪といっていたのがいつかなまって、蓮如の頃には大阪と呼ぶようになっていたのであろう。

この石山御坊の問前町として発生した町が次第に盛んとなり、ついに摂津の中心となり、やがて今の大阪となって来たのである。

蓮如の石山御坊創建から24年目の天文元年(1532)、京都山科の本願寺と京都六条の本国寺(日蓮宗)との間に争いがおこり、いつ合戦がはじまるかわからない形勢になったので、本願寺の当時の法主証如上人は祖師の御影を奉じて石山御坊に疎開した。これは6月のことであるが、呆せるかな、8月、山科本願寺は本国寺の僧兵に焼きはらわれてしまった。

そこで、石山御坊は本山に昇格して、石山本願寺となる。同時に伽藍も本山にふさわしく壮大なものに修築し、当時の本願寺の最も有力な地盤であった加賀から築城技術者を招集し、堅固な城郭の構えとした。

いかにこの寺城が堅固であったかは、この翌年日蓮宗と同盟していた管領家の当主で阿波国主である細川晴元が大軍をひきいてこれを攻めたが、攻めあぐんで和を講じたことでもわかる。

この寺城は、築城後31、2年経って永禄7年(1564)の冬、火災にかかって堂塔伽藍ことごとく焼亡したが、証如は宗徒の力を総動員して忽ち堂塔を再建し、城壁もまた十分に補強した。当時の本願寺の力は非常なもので、常陸・越後・加賀・能登・越中・越前・近江・尾張・三河・伊勢・河内・摂津・安芸等の日本の最も豊沃な米作地帯全部がその地盤となっていたから再建などなんの造作もなかったのである。

当時の寺城は八町四方、周囲に深濠高壁をめぐらし、近くには信徒が集まって殷盛な町を営んでいた。町は六町あって、その周囲にはさらに濠がめぐり土塁がきずかれ、町は蓮如上人の頃から番匠、建築工事関与者の家筋の者によって形成され、自治制がしかれていたという。


大坂城古代から重視された聖地
大坂の名付け親

1583年、信長の後継者の地位を手に入れた秀吉は、京都の大徳寺で、信長の一月忌を済ませ、6月4日、ついに自らの本拠となる城づくりのために、大坂入りを果した。

当時大坂は、波静かで最も安全な船路といわれた瀬戸内海に面し、貿易を行なうのに極めて好都合であった。また海へ流れ込む淀川を遡れば、京の都を経て、琵琶湖に至ることが可能な水路の要であり、大和川をたどれば奈良へつながり、さらに陸路で関東とも結ばれる交通の要衝として、古来栄え続けてきた土地である。

その中でも、中心を占める上町台地は、淀川がいくつにも分かれて流れ、北と東は急斜面に囲まれる天然の要害の地形をなしていた。

そのため、この地は古代からたえず重視されてきた所で、四世紀には早くも大和朝廷に所属し、三種の神器の一つである玉を制作する「玉作部」と呼ばれる集団の居住地であったとされ、現在玉造稲荷神社や難波・玉造資料館で当時を偲ぶことができる。

また、5世紀の仁徳天皇の高津宮もこの地にあり、現在は高津神社としてその場所を今に伝えている。さらに7世紀の難波宮もこの土地の南に隣接していたという。いっぽう、近くの四天王寺は、聖徳太子の創建である。

戦国時代には、浄土真宗門主・蓮如がここに石山本願寺を建てて本拠としている。蓮如が門徒たちに送った手紙である「御文」をみると、1498年の文章の中に文献上初めて「大坂」の名が現れる。この大坂とは、淀川支流の大川に架かる天満橋の東付近より、現在の大阪城へ向けて登る坂であるという。蓮如こそが大坂という地名の名付け親であった。

彼は1496年より、「大坂坊舎」と呼ばれる寺院の造営に着手する。これが石山本願寺である。そしてこの寺跡に、秀吉は大坂城を造営することになるのである。

この寺の正確な所在地については、難波宮(東区法円坂)の発掘で大きな成果をあげた山根徳太郎氏が1954年に「法円坂説」を提唱し、また1977年には、岡本良一氏が「大坂城本丸付近説」を発表、以後二説が併存しており、決着はいまだについていない。

しかし、法円坂一帯の発掘では、本願寺の遺構が全く発見されておらず、大阪城内からは焼土が発見されていることから、後者の説をとる研究者が多い。

また近世の文献上においても、1675年の『葦分船』に「今の城のうち」とあり、1701年の『摂陽群談』にも「今金城の地を云ふなり」とあって、すべて大坂城跡を指している。さらに、幕末の『摂津名所図会大成』にも「今の金城の地なりといふ」と記され、共通した所見を示している。

その他、「蓮如井戸」というのがかつて存在したが、1732年の『浄照坊来歴』に「大坂御堂というは(中略)大坂御城大手のあたりにありし御堂なり。其ほとりに今にいたりて井戸あり。蓮如井戸といふ」とあり、やはり大坂城内にあったとされている。このような記録からみても、現在の大阪城の位置に本願寺があったとするのが有力であろう。

また、石山本願寺はその地の利だけでなく、その構えについても傑出していたとみられ、イエズス会士の報告によれば、水を満たした濠が三つもあったといわれ、『陰徳太平記』などからも本願寺は完全に城郭化されていたものと推測できる。

寺というよりも城に近いものであったことがわかり、『言経卿記』にも「本願寺城」とも「大坂之城」とも呼ばれていたことが記されている。その上、『信長公記』には、「大坂もこう津・丸山・ひろ芝・正山を初めとし、端城51ヶ所申付、楯舗)構え内にして5万石所務いたし」とあり、周辺に数多くの支城を構えて、より守りを堅固なものにしていたことがわかる。


城の構造
農民から織田信長の草履とりを経て、天下人にまで上り詰めた秀吉が興した豊臣家は、晩年にできた子・秀頼の代で滅び、その栄華の象徴であった豊臣大阪城もまた、豊臣家とともに姿を消すこととなった。

大阪城公園内には、古建築や石垣などの遺構が残っているが、これらはすべて徳川時代につくられたもの。しかし江戸時代にすら、大阪城に着任した譜代大名や旗本達はその事実を忘れ、2つの城を混同した言い伝えを残した。

秀頼が徳川の勤番武十の夢枕にたったという「胎衣の松」伝説をはじめ、言い伝えの中には、怪談話が多く含まれている。秀吉の愛児・秀頼を滅ぼして政権を奪ったことへの後ろめたさが、徳川の家臣に広く根付いていたのではないだろうか。

現在残される徳川時代の建築物や、根強い「太閤伝説」の中で生まれた不思議なエピソードなど、大阪城の真の魅力は大阪城公園内にカオスのように渦巻いているのだ。

なんと畳36枚分、奇跡の奇石
大阪城第一の巨石「蛸石」。畳にして36枚分の大きさで、虫肖のような模様があるためその名がついた。隣の大阪城第3の大きさの振袖石とともに、家康の孫に当たる備前岡山藩主・池田忠雄が運び込んだ

豊臣から徳川へ。その名を受け継いだ門
本丸の正面入口にある「桜門」は、豊臣大阪城時代にもこの辺りに門があり、見事な桜並木があったことから。ちなみに両脇の石は「竜虎石」と呼ばれ、雨が降ると石に竜と虎の姿が浮かび上がると伝えられた

本願寺、豊臣、徳川、三代を架け抜けた橋
大坂夏の陣図屏風にも描かれている極楽橋。現在のものは昭和40年に再架されたものだが、徳川時代にも架けられていたとされる。名前は秀吉築城前にあった、大坂本願寺にちなむという

埋蔵金はないけど江戸幕府のマイ蔵金
徳川幕府が設けた金庫。幕府の金庫としては現存唯一のもの。3重に重なる入り口の向こうには常時500~ 800億円もの資金が貯蓄されていたといい、泥棒対策に悩まされていたとか


大坂城(大阪府大阪市中央区大阪城公園)
別名 錦城 
所在地 大阪市 
種類 平城 
築城者 豊臣秀吉 
築城年 天正11年(1583)
歴代城主 豊臣氏 徳川氏 
遺構 復興天守閣 本丸 二の丸 石塁 堀 櫓など



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