佐賀県・名護屋城|日本全国お城情報

名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋)

秀吉朝鮮出兵の前線基地名護屋城
築城者: 豊臣秀吉
遺構: 石垣


名護屋城は、全国を平定した豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵するために、その前進基地として築いた城です。もとは松浦党波多信時の家臣、名護屋経述の居城があった場所でした。それを大きく改造したものです。総面積17万平方メートルは、当時としては大坂城に次ぐ規模です。

天正19年(1591)秋に始まった工事は、西国大名の分担により、わずか5ケ月足らずで翌年春には主要部分が完成したといわれています。城の構えは、中央最上段に本丸を置き、中段にはそれを取り囲むよう二の丸・三の丸・遊撃丸・東出丸・弾正丸・水手曲輪があり、下段に山里丸、台所丸を配置しています。

門は大手口のほかに5ケ所あり、さらに北側には嫉鉾池と呼ぶ堀がありました。文禄2年の名護屋城を描いた「肥前名護屋城図開風」によると、本丸の西北隅に建つ天守は、五層七階の望楼型の建物だったようです。

この出兵のために全国の主だった諸大名のほとんどが参集し、名護屋城の周囲およそ3キロ圏内には約120もの陣屋が築かれました。今でもその半数以上に、石垣や士塁の跡が残されています。

また、名護屋城跡への入口には佐賀県立名護屋城博物館があり、当時の政治情勢や城跡についての資料など力程示されています。


名護屋城ユーラシア大陸征服の前線基地
息子の死と朝鮮侵略
天下人となった秀吉が、次に目指したのが朝鮮侵略であったことは、日本の歴史上最大の汚点であるといわざるをえない。いまだに韓国と日本の国交上の障害の一つになっているといわれる。

秀吉は1586年、大坂城にて宣教師クエリョに大陸侵略を以下のように告知している。「秀吉は日本全国を統一し、最高の地位に昇り、所領も金銀も十分もっているので、何も望んでいない。ただ、彼は死後、名前と評判が残るのを望むだけである。

日本を秀長に譲り、朝鮮・中国を征服するために渡航するという」これが大陸侵略の公式発言とでもいうべきものであった。この侵略行為のために歴史に悪名を残すことになったことは皮肉な結末である。

翌1587年にも秀吉は『妙満寺文書』によれば、「高麗(朝鮮)を内裏に出仕させようと思う。もし、出仕しないならば、来年に成敗する。自分の一生のうちに唐国(中国)まで領分にしようと思うから骨がおれる」といい、朝鮮だけではなく、中国まで含めたユーラシア大陸の制覇を目指していたことがわかる。

その記録にある通り、1590年には朝鮮使節が来日し、秀吉に対面しているが、『続善隣国宝記』によれば侵略計画について「私の願いは他でもない、ただ名前を三国に顕すのみである」とここでも侵略の理由を功名心からだと明言している。

しかし、ただ単に功名心のためだけで果して大陸を侵略できるものかどうか疑問あり、従来侵略の理由についてさまざまな説がたてられてきたが、中でも大勢を占めるのが、息子鶴松の死との関係である。

秀吉は、正妻である北政所との間に子がなかったが1588年、淀殿との間に長男・鶴松(棄丸)ができる。しかし1591年、わずか3歳でこの世を去っている。この年は鶴松だけでなく、秀吉の片腕ともいうべき存在だった弟。秀長が病没。

また、実母大政所の病状が急変し、急遠秀吉は上京するが、その臨終に間に合わなかった。さらに利休までが秀吉の命で自刃してしまった。堀正意の『朝鮮征伐記』によれば「秀吉は佳名を三国に顕したかった。

それに幼児鶴松を失い、その鬱憤を晴らすため」侵略したという。また、頼山陽も『日本外史』に「秀吉初め子なし。浅井氏、男鶴松を生む。秀吉、これを愛す。この歳、鶴松、夭折す。悲哀累月、心楽しまず。従者曰く『大文夫、まさに武を天里の外に用ふ。どうして鬱々となさん』」と記し、同様の意見を述べている。

このように見てくると、鶴松の死の鬱憤発散説も一理あるといわなければならないだろう。


肥前名護屋城は常識外れの大きさだった
朝鮮出兵の前線基地として、玄界灘を望む松浦半島の一角に名護屋城が完成したのは、文禄元年(1592)のこと。わずか1年弱で大坂城とほぼ同じ規模をもつ大城郭を築いてしまったのだから、豊臣政権の土木工事の能力は凄い。また、周辺には諸将の屋敷も集まり、城域全体で20万以上の将兵が駐留できるようになっていた。晩年の秀吉は中国大陸を征服するという妄想にとり憑かれた。

その中国への道を確保するために、軍勢が通過することを朝鮮半島の李王朝に求めたが拒絶され、これを実力で占領することにした。肥前に兵姑基地の名護屋城を築き、諸将に命じて大量の大型船を建造させて、侵攻の準備が整った文禄元年(1592)、先鋒の加藤清正や小西行長の部隊がまず渡海して、破竹の進撃を開始。それに続いて続々と諸将の部隊が渡海して、総計15万といわれる大軍が朝鮮半島に上陸した。

戦いの経験もない朝鮮軍は弱体化しており、戦国の世を生き残り戦慣れした日本軍との差は歴然。鉄砲を大量に使った戦術の前には手も足も出ずに首都の漢城(ソウル)を占領され、先鋒部隊の加藤清正などの軍は中国(明)との国境にまで到達した。

しかし、日本の水軍は弱かった。 戦術や軍船の構造にも問題があり、朝鮮水軍の名将・李舜臣に大敗して半島沿岸の制海権を奪われ、兵姑線を切られてしまった。また、各地で民衆が義勇兵となりゲリラ戦術で日本軍を悩ませる。明からの援軍も派遣されて、戦争の継続に不安を感じた前線司令官の小西行長は、明軍との間で密かに講和工作を行なう。そして、朝鮮王朝が朝貢することを条件に、秀吉に撤兵を納得させたのである。文禄の役と呼ばれる第一次の朝鮮出兵は終了した。

しかし、この講和条件は小西行長が秀吉を謀ったもの。李氏朝鮮の側は秀吉に朝貢する気などなく、それを知らない秀吉は朝鮮や明が約束を破ったと激怒。慶長2年(1597)再び大軍を朝鮮半島に上陸させる。三度目の朝鮮出兵となる慶長の役では、日本軍の襲来を予測して、朝鮮側でも防備を整えていた。そのため日本軍は半島南部を確保するのがやっと。やがて慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、すぐに撤兵が行なわれた。


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