家康と秀吉の決戦である天下分け目の関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

豊臣政権の後継をめぐる天下分け目の合戦は裏切り部隊が続出した 秀吉の死後、五大老筆頭だった徳川家康は、諸大名を懐柔して勢力をのばしていた。

奉行の石田三成は家康による豊臣政権の纂奪を警戒してこれと対立したが、日頃から三成と仲の悪かった加藤清正や福島正則などの諸将に襲撃されそうになり大坂城を退去して領地の佐和山城に蟄居。その間に家康は、彼に従わない会津120万石の大大名。上杉景勝を桐喝。これを恐れず徹底抗戦の姿勢を崩さない景勝に対して、諸将を率いて会津への遠征を行なおうとした。

家康が大坂城を留守にした隙に三成は行動を起こし、西国の雄・毛利輝元を盟主に祭りあげて、反家康派の勢力を結集して挙兵。大坂城を占拠した。ここに、天下を二分する関ヶ原合戦が始まっていく。

三成挙兵の報せを受けた時、家康は会津を目前にしていた。しかし下野の小山で評定を開き、会津征伐に参加した諸将を味方につけることに成功。そのまま全軍を率いて江戸へ引き返した。家康に従う東軍の諸将は、前線基地の尾張清洲城に結集し、国境を越えて美濃へ侵攻。西軍だった織田秀信の岐阜城を落とす。

その時点では、三成などの西軍は濃尾平野にまで進出していて、大垣城を中心に大軍を展開していた。岐阜城を陥落させてさらに進撃した東軍は、大垣城の北方にある赤坂に陣を張り、対峙状態に入った。両軍ともにまだ戦場に到着していない徳川家康を待つ態勢に入っていた。

大垣城の西軍と対峙していた東軍の元に、3万の大軍を引き連れて徳川家康が到着したのは慶長5年(1600)9月14日のことだった。家康は陣形を見て取ると、攻城戦をする不利を覚って、大垣から京へ向かおうとした。その動きを察知した西軍は、深夜のうちに大垣城から出て関ヶ原一帯に布陣した。東軍もまた西軍を追随して、関ヶ原に展開する。

15日の朝、関ヶ原の小盆地には東軍約7万5000、西軍約9万の大軍勢が結集していた。西軍主力は東軍の前面に展開し、また、小早川秀秋や毛利秀元などの緒隊が東軍の側面や後方の山や丘陵に布陣。その真ん中に東軍が展開する形となった。包囲職滅することが可能な、西軍が圧倒的に優位な陣形である。

その日の早朝は、関ヶ原一帯に濃霧がたちこめていた。 その霧が晴れると、すぐ目の前に敵軍が槍先を向けている状態だった。戦いは東軍先鋒の福島正則の部隊と、天満山に陣する宇喜多秀家の部隊との間で始まった。 東軍の諸隊が、関ヶ原西方に展開する西軍めがけて突撃を開始する。

この方面には石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継などの西軍部隊が陣していたが、石田家の家老島左近や宇喜多家の家老明石全登などが奮戦して、寡勢ながらも東軍を圧倒していく。このまま東方の南宮山に拠る毛利秀元などの約2万の軍勢が突撃を開始すれば、三成が描いた勝利の方程式が決まるはずだった。

しかし、戦いが始まっても毛利勢は動かない。家康の調略が効いていたのだ。それでも前面に展開した石田三成や宇喜多秀家などの部隊の健闘で、午前中の戦いは西軍が押し気味だった。

ところが、家康はもうひとつ秘策を用意していた。1万5000の大軍を擁する小早川秀秋の寝返りである。戦場の側面に位置する松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋は、ついに山を駆け下り側面から西軍に攻撃を仕掛けた。この裏切り攻撃に西軍の大谷吉継が戦死し、押し気味に戦いを進めていた宇喜多隊も壊滅。ついに西軍は総崩れとなり、天下分け目の決戦は東軍の圧勝。この一戦により、家康は新たな天下人となったのである。



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