宮城県・仙台城|伊達政宗が築城してキリシタン後藤寿庵が継いだ

仙台城

仙台城は青葉城の別名でも知られる伊達政宗が築いた城だ。慶長5年、関ヶ原合戦で徳川方に味方した政宗は、同年12月、60万石の新たな居城として千代の青葉川に築城、同7年5月には岩出山城から移り、仙台城と命名した。

政宗が築いた仙台城は山城であった。本丸は標高115メートルの山上にあり、その背後は龍の口という峡谷で、西は険しい山稜と三条の堀切、北に階郭式で腰曲輪と蔵屋敷曲輪(現・仙台市博物館)を配する構えで、当初の大手口は、巽門か子門と考えられる。

昭和20年、空襲で焼失した大手門の隣、現在外観復元されている大手隅櫓に大手口が移ったのは、二の丸(現・來北大学キャンパス)が造桝される二代忠宗の代の寛永15年(1638)から翌年にかけてのことだとみられる。平成10年から同16年3月にかけて、本丸の石垣が積み直され、発掘訓査が実施された。

なんと今見る仙台城本丸の高石垣の大手隅櫓(復元)と残存する大手口土塀(手前)積み換えられた玄武岩の石材は、モンゴル産だ。築城時の石材は城の西、八幡地区等から調達していた。日本の玄武岩を用いると大変高価になるという。


珍陀の美酒
陸中胆沢郡水沢は、現在は岩手県だが、明治以前は仙台藩領であった。仙台領としては最北端、南部藩領と境を接していた。慶長17年(1612)の頃、大名浪人のキリシタンとして当時有名であった後藤寿庵が、伊達政宗に1200石で召抱えられ、知行地としてここをあたえられた。

この地方は奈良朝の時代に大和政権の北進基地として胆沢城がおかれ、さらに平安朝城時代の冒頭にこれが陸奥鎮守府となったところで、古くからひらけた牡説であるが、鎌台倉時代の初期に源頼朝が平泉の藤原氏を討滅してからは、坂東武士の葛西氏が陸前に領地をもらい、この地方もまたもらって分家に支配させていた。

その後数百年を経て、豊臣秀吉の国内統一の時、奥羽の豪族らで気のきいた者は、早くから秀吉に帰服を申し送り、秀吉が小田原城攻めのために関東に来ると、早速に顔出ししてごきげんをとり結び、本領安堵の沙汰を得た。

遅れて行った者でも、伊達政宗などは一身の機略をもって、ごきげんをとり結んだ。しかしこの時勢のバスに乗りおくれた大名もまたあった。葛西家がその一つであった。ために、領地は没収され、昨日にかわる俄か浪人となってしまった。

後藤寿庵は、この葛西家の分家で、代々胆沢地方を支配していたのであるが、本家没落とともに所領を失い、九州地方を流浪しているうちに、伊達の家中の田中荘助と知合いになり、その推挙で、伊達家に召しかかえられたのであった。

田中荘助は伊達家の海外貿易のかかりであるから、その点で大名浪人でキリシタンなかまである後藤寿庵の世話になったこともあったのであろうし、将来も利用価値があると見こんだので推挙したのであろう。また、伊達家としては、その点もあり、新たに領地となった胆沢地方の統治のために、先祖代々その領主の家筋の生れである寿庵が大いに役に立つと見こんだのであろう。

寿庵の一族である葛西一族の多くは、水沢附近で帰農していたのであるが、寿庵は水沢の領主に返り咲くと、その者共や旧臣を集め、屋敷まわりに郎党や足軽共の住宅を建ててこれに住わせた。また、胆沢川の水をひいて灌漑用の水路をひらいたりして、民政の上にもずいぶん努力した。

今にのこる寿庵堰がそれで、今日でも附近数十力村を利益すること一方でない。寿庵は熱心なキリシタンであったので、屋敷の近くに聖母堂と礼拝堂を建てて、キリスト教の伝道につとめ、親友であるガリバリヨ神父を迎えて布教させた。キリスト教が奥州に入り、水沢を中心に南部領までひろがったのはこの時からである。

今日岩手県北部から青森県にかけて先祖代々のキリスト教徒があり、キリストはエルサレムで死んだのではなく、遠く日本にのがれて来て、この地方で生を終えたなどという伝説のある起りは、この時にあろう。

寿庵が伊達家に召抱えられて胆沢にかえって来た翌年の慶長18年、19年とつづいて、京阪地方と江戸ではキリスト教の大弾圧が行われ、教徒らの一部は南部へ流され、また宣教師の中でこの地へ逃れて来る者も多かったので、寿庵によって信仰の根をおろされた奥州はキリシタンらの第二の拠点となった。幕府の強硬なキリスト教政策にもかかわらず、奥州の大名らはキリスト教にたいして至って寛大であったせいもある。

水沢を中心に、奥州のキリシタンらは平和な8年間を送っていたが、元和6年(1620)の夏、伊達家の家老の石母田大膳から、寿庵にちょいと用事があるから城下に来てくれよと、使いが来た。
寿庵は石母田と懇意ななかだ。早速に出向いた。

「遠いところを呼び立て申して気の毒でござったな。実は殿から、貴殿に言うようにという話があってな」「ほう、なんでござろう」「貴殿の宗旨のことじゃよ」ついに来た、という気持が寿庵にはあったに相違ない。中央でさかんに弾圧が行われているのだ。幸い奥州ではなにごともなかったとはいえ、遠い雷鳴を聞いているような不安はあったはずである。

「貴殿も知っていやろうが、大公儀のキリシタンにたいする弾圧は一通りのものではない。それで、殿も心配されてな、こう仰せある。おれの力にもかぎりがある。今のようではかばい切れぬことになるかも知れん。それ故、あまりおおっぴらな布教はせぬように。

また、自邸にバテレン(神父)を泊めることはこれまでの行きがかり上いたしかたはあるまいが、それも長くは滞在させぬよう。人に改宗をすすめたり、おおっぴらに説教することもつつしむよう。宗門のことは出来るだけ秘密にして、おのれ一人だけの信仰にしておくようと、こう仰せられたのだ。

政宗のこの注意は、ずいぶん理解もあり、寛大でもあったのだが、それは第二者の見解だ。熱烈な信仰にこりかたまっている当の寿庵にしてみれば、心外千万であったろう。

いやいや、政宗の言葉だということを信ずることが出来なかった。重臣らが大公儀の強い弾圧におびえて、中途でこんなさかしらをするのだと思った。

「それが殿のおことば?いやそんなことを仰せられるはずがない。殿はローマの教王(法王)様に支倉六右衛門殿をお使者としてつかわしておられる。その支倉殿がまだ帰国もされぬのに、キリシタンを苦しめるようなことを仰せ出されるはずはない。殿はキリシタンにはご理解が深いお人でござる」

寿庵がこう思うのも道理であった。政宗は幕府の禁教政策によって捕えられて入牢していたフランシスコ会派のバテレン、ルイス・ソテロを、名医であるからという名目で幕府からもらい受けて仙台に連れ帰っている。そのソテロの勧めによってローマ法王庁に使者を出している。これほどキリスト教に好意を見せている政宗が、そのローマにつかわした支倉の帰国も間近であるという現在、布教を禁断するとは思えないのだ。

どうしても、老臣らのさしくりとしか思えない。とりわけ茂庭石見は頑固な反キリシタンだ、おそらく茂庭の策略ではないか、と思った。
石母田はなおおだやかにさとした。

「そう一向きに考えてはならぬ。貴殿も上方や江戸のことはお聞きのはずじゃ。仙台領内で公然と布教が許されていることが、大公儀の耳に入りでもしたら、当家の立場はどうなるとお思いか。キリシタンを領内におくこともかなわぬようになるではないか。出来るだけわざわいを軽くしたいと、殿は思うておられるのだ。そこを聞きわけてはしいのだ」

パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば、石母田はヨハネ寿庵と親友の間柄で、しばしば寿庵を救うために忠告をしているとある。しかし、石母田がキリシタンであったとは記述していないし、転宗したとも書いてない。単に寿庵の親友で同情者であったというにすぎないであろう。寿庵は苦しげな顔になりながらも、あくまでも強固であった。

「おことばはありがたいが、拙者にはそんな約束は出来ん。布教をやめることも、主のみ教えにそむくこと故、それも出来ぬ」
石母田は嘆息しながらも、なお説いたが、ついに寿庵は心をひるがえさなかった。


仙台城(宮城県仙台市青葉区青葉山)
別名 青葉城 千代城 
所在地 仙台市 
種類 平山城 
築城者 伊達政宗 
築城年 慶長5年(1600)起工 慶長7年(1602)完成 
歴代城主 伊達氏13代 
石高 伊達氏62万石 
遺構 石垣 土塁 塀



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