長崎県・島原城|キリスト教布教の中心地

島原城(長崎県島原市城内)

島原城は元和4年から8年の歳月を費やして築かれた。城を築いたのは松倉重政で4万石の封地だった。

しかし、島原城を訪れると誰もが、巨大な幅を有する水堀が囲み、みごとな高石垣が塁々と重なるさまを見て驚いてしまう。どう見ても4万石の旗本大名の居城ではない。しかも、外観は復元であるが、五層の天守がそびえ立つのだ。

徳川幕府は島原城を築くことで、戦国大名有馬氏の本拠を押さえるだけでなく、天草・有明海を監視し、また、キリシタン大名の系譜につながる外様雄藩大名たちへの押さえともしようとしたのである。


巨大な城と百姓一揆
キリスト教布教の中心地
九州。島原半島は、桃山期から江戸初期にかけて、キリスト教布教の一大中心地であった。 その発端は1562年、領主・有馬義貞がキリスト教宣教師ルイス・アルメイダに布教を許可したことにはじまる。

義貞は、南蛮貿易のために島原半島の先端に口之津港を開き、そこへ教会を建てさせた。 教会といっても、もとは寺院であった建物の側面に、教会風の脇廊をつけて改造したものであったという。

現在の玉峯寺の地が教会跡であるという。この他、有馬にも教会があったといわれ、宣教師パジェスは「祝日に領主の建てた荘厳な教会でミサを行なった」といい、宣教師フロイスも「有馬及び大村の主なる僧院二、三の教会を、その地が異教徒の往来が激しいところなので、外見よりそれと見分けがつかないよう直した」と記している。

口之津港にほど近い加津佐には、1580年に建てられたというセミナリョ・コレジオ跡がある。セミナリョは現在の中学・高等学校、コレジオは英語でカレツジすなわち大学に相当し、ヨーロッパの大学なみの学問的レベルをもっていたという。

これらを建設したのは、1580年、巡察師ヴァリニャーノから受洗したキリシタン大名有馬晴信であり、家臣団の受洗を奨励し、領内の農民のほとんどもキリシタンとなった。晴信は貿易に力を入れるとともに、病院や慈善院を開設、日本初の活字印刷による出版も手掛けている。

島原半島にはキリシタン墓碑も数多く、日之津に1基、加津佐に6基、野田浜に2基、北有馬に4基、南有馬に1基、西有家に17基、地元ではカマボコ型といわれる西洋風アーチ形状の石碑が残されている。

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