石田三成が失敗した忍城の水攻めの意外な真実とは

とつぜん有名になった忍城の攻城戦

これは、天正18年(1590年)の3月からはじまった豊臣秀吉による小田原の北条家征伐、そのなかでおこなわれた、およそ20もあったろうといわれる攻城戦のなかのひとつにすぎない。しかも、この攻城戦が全戦局に与えた影響はほとんどゼロだったといっていい。にもかかわらず、このマイナーな攻城戦が、とつぜん脚光を浴びることになった。

それは、この攻城戦を題材にした和田竜氏の時代小説『のぼうの城』がベストセラーになって、直木賞候補作にもなったからである。 ところで、この城攻めの司令官が、当時31歳の石田三成であった。 このとき彼が率いたのは、豊臣政権下で同じ奉行職にあった大谷吉継、長束正家ほか、佐竹義宣、多賀谷重経、北条氏勝、真田昌幸など東国の大名たちの兵、合わせて2万3000。当時の三成の身分を考えれば、彼がこれらを率いる司令官に任命されたのは大抜擢だったといっていいだろう。そして三成にとっては、これが司令官として実戦の指揮をとる最初の戦いでもあった


無能な実戦司令官、石田三成
石田三成の軍勢が忍城を包囲したのは、『成田記』によると6月4日のことであった。忍城は「関東の七名城のひとつ」といわれたほどの堅城で、周囲は沼地や低湿地に囲まれている。このような地形のため、三成の大軍もなかなか城に近づくことができず、攻めあぐねて味方の損害がかさむばかり、という状況であった。そこで思い悩んだ三成は、周囲の地形をみて、この城を「水攻め」にするという方策に出る。 この「水攻め」は、秀吉が備中の高松城を攻めたときに使った戦術なのだが、三成はこれを真似たのである。

そうして、三成は付近の村々から人夫を集めると、さっそく、城の周りに長大な土堤を築くという工事にとりかかった。『忍城戦記』には、「数十万人が集まり、昼夜兼行で土を持ち運んだ」とある。着工したのが6月7日で、わずか5日間で完成させたというから、6月11日には竣工したということになろうか。

この土堤の内側に、利根川や荒川の水を引き入れると、予定では人工堤のなかに城が水没して、城中にいる敵は降伏しないかぎり、そのまま全員溺死する、ということになるはずであった。 こうして次第に入工の堤のなかに水が満ちていったのだが、皮肉なことに『関八州古戦禄』には、「城兵高みに集まり、さほど苦しまず」と記されている。なかなか三成の思惑どおりにはいかなかったらしい。

ところが、その数日後、夕方から豪雨になった。雷鳴が響き、車軸を流すほどの大雨である。とうぜん人工堤のなかの水位もみるみる上昇した。 三成にとっては恵みの雨かと思いきや、その夜半のことであった。 人工堤のほうぼうの土堤が決壊して、その水が、寄せ手、つまり三成方の陣所に襲いかかったのである。

その被害は『改正三河後風土記』に、「陣屋6、70軒が押し流されて、上方勢(三成方)の水に落ちて死する者270人」とある。敵を溺死させるはずの人工堤が、逆に味方に甚大な被害をもたらしてしまったのだ。しかも、堤内の水は全部流れ去り、城への道は泥田のようになってしまった。これでは、とてもじゃないが城攻めなどできる状況ではない。

その後、三成は何度か総攻撃を試みたが、結局、忍城は最後まで武力では落城しなかった。北条家の本城の小田原城が開城したのは7月5日のことだが、その後もこの忍城の城兵たちは頑として籠城を続け、7月16日、小田原からの命令を受けてからようやく開城するのである。と、これが、江戸時代になってから著された軍記物語が、こぞって「石田失策」と書きたてている「忍城水攻め」のあらましである。

実をいうと、この攻城戦から、ちょうど十年後の関ヶ原の戦いまで、三成が実戦で指揮をとる姿はほとんどみることができない。 そんなこともあってか、この従来の説は、これまで三成の実戦指揮官としての「無能ぶり」を示す恰好の例とされてきたのである。 しかし、この説には、大きな誤りがあったといわねばならない。 それは、忍城を水攻めにするという方針を決めたのが三成だと決めつけているという点なのである。

まずは、6月の12日付で三成が秀吉に出した書状である。それには、こんなことが書かれている。 「忍城攻めの準備はおおかた済みましたが、攻城軍の諸勢は水攻めと決めてかかっているため攻め寄せようという気がなく」と、三成は秀吉に対して、まず、水攻めの準備が整ったことを報告し、ついで前線の様子も伝えている。

これによれば、どうもこの戦線の将士たちは「なぁんだ、水攻めか」と、気の抜けた感じだったようだ。命のやりとりをする心づもりでやってきた諸隊の兵士たちが「水攻め」と聞いて、ほっとするやら残念やらで気をゆるめてしまうのは、もっともな心理だと納得できるが、ともかく、三成はそんな前線の空気まで律儀に秀吉に伝えようとしているのである。

いっぽう同じ日、秀吉も三成に書状を書いている。そのなかで秀吉は、水攻めの方法や、戦後処理などについて三成に細かい指示を与えている。さらに20日付の秀吉の書状では、三成に水攻めの絵図を提出するように命じ、「工事がおおかた済んだなら、使者をだして(その絵図を)自分に見せるように」といっているのである。

ここまでみれば、もう明らかであろう。秀吉は小田原の地から三成に、事細かに「水攻め」の指示を与えているのだ。いっぽうの三成は、築堤があらかた済んだあとも秀吉の承認を受けなければならなかった。つまり、この「忍城を水攻めする」という方針を決めて、現場に指示を与えていたのは秀吉だったのである。三成は忍城の攻撃を任されていたわけではなく、秀吉の名代として現場で秀吉の指示を忠実に実行していただけだったのだ。



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