日本の城の特徴と歴史をまとめた一覧表│中部の城

中部の城一覧表

フロイスが地上の天国と称した岐阜城
岐阜県岐阜市金華山天守閣18
築城者: 織田信長
遺構: 石垣

岐阜城の築城は、鎌倉時代初期の建仁2年(1202)に幕府政所執事の二階堂行政が金華山(稲葉山)に創築したことに始まります。そして戦国時代の永正6年(1509)、美濃守護代の斎藤氏が、旧砦跡に築城したものと考えられています。

天文7年(1538)に斎藤氏を継いだ斎藤利政は、同21年に守護職の土岐頼芸を逐って美濃国を奪いました。利政とは「戦国の臭雄」と呼ばれた斎藤道三のことです。

道三は長男の義龍と戦って敗死、永禄10年(1567)には織田信長が義龍の子龍興を逐って、それまでの地名井の口を岐阜と改めました。しかし信長も横死し、孫の秀信の代、関ケ原合戦の前哨戦で落城、その後には徳川家康の娘婿奥平信昌が封ぜられました。信昌は山上の城を嫌い、加納に城を築くことにします。

そこで阜城は廃城となり、天守、櫓なども取り壊されて加納へ移されました。岐阜城は斎藤道三から織田秀信まで、城主10人のうち9人までが横死するという不吉な城なので、嫌ったのかもしれません。

現在、山上に立つ模擬天守は昭和31年に復元されたもので、楼上からは長良川が美しく眺められます。
また、山麓の岐阜公園になっている、信長の居館のあった千畳敷周辺も整備が進み、居館跡入口の木戸も復元されました。


城下町を見下ろす郡上八幡城
岐阜県郡上郡八幡町柳町一の平
築城者: 遠藤盛数
遺構: 天守台、石垣

郡上八幡城は、戦国時代の永禄2年(1559)に織田信長の家臣遠藤盛数が、吉田川と小駄良川の合流点にある八幡山に築いた城に始まります。盛数は、鎌倉時代から12代340年間にわたって郡上地方に勢力を張っていた東氏を滅ぼして入国、築城したのでした。

盛数の子慶隆の時代の天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで、慶隆力識田信雄に通じていた疑いで転封され、代わって稲葉貞通が入城しました。しかし関ヶ原合戦で西軍に属したため転封、前城主の遠藤慶隆が再入国します。

慶隆は、3年がかりで外曲輪の石垣や堀、二層櫓を整備し、山上に本丸を設けて近世城郭を完成させました。明治維新で建物は破壊されてしまいましたが、昭和8年に模擬天守・隅櫓・高塀が建てられました。城に立って吉田川沿いの城下町を見下ろしますと、町並がまるで絵葉書のような美しさに見えます。

なお、有名な郡上踊りは、遠藤盛数が城主のときに、士農工商の和をはかるために催したものといわれ、300年の伝統を誇っています。城下町を歩きますと、いたるところに瓦屋根が目立ち、伝統の紬があり、せせらぎが流れ、名水の宗祇水や山岳信仰の神社などの名跡に出会えます。小京都的な、のどかな城下町といえます。


関ヶ原合戦の舞台大垣城
岐阜県大垣市郭町2丁目52
築城者:一柳直末
遺構: 天守台、石垣

大垣城の築城年と創設者については、戦国時代の明応9年(1500)の竹腰尚綱説と、天文4年(1535)の宮川安定説とがあります。牛屋川を外堀に利用して、本丸と二の丸の小規模な構えで、牛屋城と呼ばれていたといいます。

天正13年(1585)、豊臣秀吉は一柳直末を城主として天守の造営を命じました。四層四階建て総塗篭様式の工事は同16年になって完成しています。以来、400年もの間、この天守は、たいへん優美な城として名高く、歴史のうえからも貴重な城でした。

慶長5年(1600)、天下分け目といわれた関ケ原合戦がありましたが、決戦前夜まで、西軍の将石田三成は大垣城を本拠としていました。昭和11年には天守・隅櫓が国宝に指定され郷土博物館として親しまれてきましたが、昭和20年7月29日の戦災で惜しくも焼失しています。

その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和33年5月に着工、翌34年4月に外観を昔のままの容姿で完成したのが現在の天守です。昭和60年には、天守の周辺に多聞櫓・艮隅櫓などが復元されました。
大垣はかつて地下水にも恵まれ、各家の敷地に豊かな清水がこんこんと湧き出ていました。

城下町大垣の中央を水門川が流れ、「水の都」と呼ばれるにふさわしい風情があります。しかし水に恵まれていた反面、しばしば揖斐川の洪水の被害を受けてきた歴史もあります。


百万石の優美堅固な城金沢城
石川県金尺市丸の内1番1号
築城者: 前田利家
遣構: 門、三十間長屋石垣、堀

かつてこの城は、加賀一向一摸の根拠地となった尾山御坊でした。天正6年(1578)、織田信長は家臣の柴田勝家に尾山御坊の攻略を命じ、同8年には勝家の武将佐久間盛政が御坊を陥れています。盛政はその功により石川・河北両郡の領主となって、御坊跡を城郭に改め、尾山城と称しました。

同11年に前田利家が入城し、名称も金沢城と改めます。利家は家臣の高山右近に命じて大手・搦手を整備しました。文禄元年(1592)には二の丸や北の丸を築き、慶長4年(1599)に内堀を設けます。同16年の外堀の開削を経て金沢城が完成しました。

しかし同7年に落雷で天守が焼失し、後には三層の櫓を建てましたが、元和・寛永年間(1615~43)にも大火に見舞われています。昭和24年から金沢城跡は、金沢大学の敷地となって城跡の見学は不便でしたが、平成7年に大学が移転跡地は市によって整備され、見学が容易になりました。石川門と石垣、三十間長屋や堀の一部や櫓跡などを見ることができます。

また、城跡の東南にある「兼六園」は、わが国三名園の一つで、ぜひ見物したいものです。

園の東南角にある「成巽閣」は、前田斉泰が母の隠居所として建てたもので、幕末の書院造りの代表的な建造物です。内部には甲冑武具類、漆器蒔絵類、金銀象嵌などの金工類、書画、衣装などが展示され、当時の文化を偲ばせます。


能登の景勝地に建つ山城七尾城
石川県七尾市古城町、古府町、古屋敷町、竹町ほか
築城者: 畠山満慶
遺構:本丸、二の丸、三の丸、長屋敷跡、石垣、
土星、空堀

七尾市の南東、標高350メートルの松尾山には、室町時代の能登守護・畠山氏の居城がありました。それが七尾城です。城跡の壮大さから、わが国の五大山城の1つに数えられ、昭和9年には山頂を中心に国の史跡に指定されています。

しかし戦国時代の天正5年(1577)、上杉謙信に攻められ、城内の重臣の反逆もあって、天然の要害、難攻不落を誇った七尾城も落城してしまいました。謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し・・・」という「9月十三夜の詩」は、この時、本丸台に立って野画責みの石垣が城の古さを引き立たせ詠んだものとも、後世の人が謙信の気持ちを察して詠んだものともいわれています。

七尾城は、松尾山のみならず、松尾山を中心にして七つの尾根に広がる広大な山城です。山は急で谷は深く、山の全域に本丸、二の丸、三の丸、西の丸、調度丸や多くの曲輪が広がり、石垣などの遺構をよく残しています。本丸跡に立つと、展望がよく、七尾市街を眼下にして能登島、さらには奥能登地方まで望むことができます。

七尾城への登山口近くに七尾城史資料館があります。館内には、「畠山由来記」など畠山氏にまつわる古文書や、戦国時代の七尾城の一端を偲ばせる武具・薙刀・槍などの遺品・遺物、七尾城の立体模型などが展示されています。ちなみに七尾城の名は、松尾山の七つの尾根(菊・亀・虎・松・竹・梅・龍)に由来します。


神通川を要害とした水城富山城
富山県富山市本丸1-62
築城者:水越勝重、佐々成政
道構: 堀、石垣

富山城は、天文12年(1543)ごろ、神保長職の重臣水越勝重によって築かれたと伝わっています。水越勝重は、後に神保長職と改名したとの説もあります。以後、越後の上杉氏・尾張の織田氏との間でたびたび抗争があり、城主は次々と変わりました。

天正9年(1581)には織田信長の武将佐々成政が入ります。この時代に城下町を流れる神通川の流れを変えて整備したので、城は難攻不落の備えを固めました。

文禄4年(1595)には、越中は加賀の前田氏に与えられ、富山城は金沢城の支城となってしまいます。慶長14年(1609)に大火があり、城は炎上しました。一時は廃城となりましたが、寛永17年(1640)に再建されます。以後、近世になっても加賀藩の分藩の城として明治維新にいたりました。

現在の城跡は、富山城跡公園となり、前田氏時代の堀、石垣が残されています。昭和29年に三層の模擬天守力建てられました。これは犬山城をモデルとして建てられたもので、内部は市の郷土博物館になっています。

また城跡内に、二代藩主正甫の像が立っています。正甫は江戸城中で、ある大名が急病になった際、持参の印籠から「反魂丹」を出して飲ませました。その大名の病が治ったということから、各地の大名がいっせいに富山の薬売りの領内入国を許可したという逸話があります。


亀山丘陵の大縄張越前大野城
福井県大野市城町3番109号
築城者: 金森長近
遺構: 門、石垣

越前大野城は、安土桃山時代の天正4年(1576)に金森長近が大野盆地の亀山に築いた平山城に始まります。織田信長の老臣柴田勝家に属し、前田利家・佐々成政とともに府中三人衆と呼ばれた長近は、信長から越前国大野郡を与えられて、朝倉氏の旧城戌山城に入りました。

しかし交通も不便なので、北陸・美濃両街道を押さえる要地に新たな近世城郭として大野城を構築しました。長近は在城11年で飛騨へ転封となりましたが、城郭と城下町の基本は、長近時代に定まったものです。

山頂の本丸に、天守と付属する小天守と天狗書院を置き、ほかに隅櫓・城門など諸建物が設けられました。東の麓には二の丸・三の丸・外郭などが置かれています。
現在、標高249メートルの亀山山上には、昭和43年に復興再建された二層三階の天守と天狗耆院が野面積みの天守台上にそびえ、大野市のシンボルとなっています。

最上階は展望台で、大野市街をはじめ大野盆地を足下に、遠く白山連峰も眺められます。ほかの階には、歴代城主の遺品や古文書などが展示されています。また城下町は、自然と素朴さが魅力です。碁盤目状の町割り、江戸時代から続いている朝市、縦横に走る水路、各所に見られる湧水、名水、古刹が立ち並ぶ寺町など、山国の城下町を堪能できます。


小規模な古式の天守丸岡城
福井県坂井郡丸岡町霞町1-59
築城者: 柴田勝豊
遺構: 天守、石垣

丸岡城は、安土桃山時代の天正4年(1576)に、織田信長の武将である柴田勝家の甥の勝豊が越前平野の「まるこの丘」に築いた城です。別名を霞ケ城というのは、「人柱となったお静が、城を守護する大蛇となって天守下の井戸に棲み、敵に包囲された時に、霞を吐いて城を包み敵の目をくらました」という伝説があるからです。

丘頂の本丸を中心に、二の丸・三の丸が連郭式に設けられ、その周囲は、広大な五角形の内堀で囲まれています。堀幅の広いところでは50間(約91メートル)にも及んでいました。

本丸には三層三階の望楼型天守が建てられ、城下町造りも進められます。櫓の上に望楼を載せた初期型天守です。屋根には福井特産の笏谷石で作った石瓦が載っています。ただし、天守の築造年代については、天正4年の築城時と同時期ではなく、構造的な面から慶長年間(1596~1614)以後ではないかとも考えられています。

江戸時代の城主は、本多・有馬氏と続き、明治維新を迎えました。北陸地方では唯一の現存天守ですが、昭和23年の福井大地震で倒壊してしまいます。

昭和23年(1948)の福井大地震の際に天守が倒壊しながらも、その7年後に古材を用いて修復。再建されている丸岡城。人守現存の城の中でも、最古の建築様式をもつ城の歴史を紐解くと、織田信長と一向衆との壮絶な戦に辿り着く。

越前地方で天正3年(1575)に起こった一向一揆で、信長が派遣した柴田勝家を中心とする7万の大軍が一向衆を殲滅し、この地方を平定した。その際、敵の拠点のひとつであった豊原寺を勝家の甥・勝豊に与えたのだが、地の利が悪かったため、西に4km離れた丸岡に築城した。これが丸岡城だ。

戦乱の世真っ只中に築かれただけあって、直線的な破風や黒い板壁、福井産出の笏谷石を使った石瓦のほか、望楼や銃眼、物見窓など、戦のための仕掛けが生々しく残っている。貴重な歴史の生き証人である。

同25年に重要文化財の指定を受け、同30年に修復再建されました。現在は天守の一角だけを残して昔日の面影は失われましたが、周囲に100本の桜が植えられ、春には「花の霞ケ城」の名をほしいままにしています。


上杉謙信の居城春日山城
新潟県上越市春日山1丁目、中屋敷大豆、中門前、春日
築城者:長尾為景
遣構:天守台、空堀、井戸跡、土塁

春日山城は、戦国大名・上杉謙信の居城として有名になりました。頚城平野にそびえる標高180メートルの春日山にあります。南北朝時代に築城されたという説もありますが、大々的に普請したのは戦国時代の長尾為景です。

為景の子が上杉謙信で、天文17年(1543)19歳で城主となって、天正6年(1578)49歳で死去するまで、この城を根拠地として関東、信濃、北陸へと進出して戦いました。

城の規模は極めて広大で、春日山全体に及んでいます。面積でいえば5万ヘクタールを超えるでしょう。曲輪・空堀・士塁・井戸・虎口などの戦国時代の遺構が残っています。縄張からは、本城地区・追手地区・根小屋地区・砦群の4つに分けられます。

本城地区には本丸跡・天守跡・二の丸跡・毘沙門堂・お花畑・米蔵跡・井戸曲輪・景勝屋敷と呼ばれる城の主要曲輪群が並びます。井戸曲輪の井戸は直径10メートルの大きなものです。追手地区は重臣たちの屋敷があった場所、根小屋地区には直江山城屋敷・右近畑・御屋敷・上臘屋敷などがありました。砦群は周囲4~5キロ範囲に構築されたものです。

根小屋地区の中腹に春日山神社があり、上杉謙信の銅像も立っています。山麓には林泉寺があり、謙信が幼少時代修学したところで、かつて城門であった山門があり、謙信の墓が裏山にあります。


信越の押さえ高田城
新潟県上越市本城町6
築城者:松平忠輝
遣構: 本丸跡、土塁、堀

慶長15年(1610)堀忠俊の改易によって徳川家康の六男松平忠輝が越後75万石の太守として直江津の福島城に入りましたが、海に近いため塩害を受け、より内陸に高田城の構築を計画します。義父の伊達政宗を普請総裁とし、12大名の助役を得て同19年には完成しました。

慶長19年といえば大坂冬の陣が起こった年で、幕府としては加賀の前田氏や出羽の上杉氏に対する北陸の押さえを確立し、さらに天下普請により外様大名に財政的負担をかけようとする目的があったようです。

しかし忠輝は、大坂夏の陣へ不参の罪により元和2年(1616)改易、以後7氏の城主が交替しています。

本丸・二の丸・三の丸と合わせて62万平方メートルの広さ、外堀は関川の蛇行部を利用したものです。城の防衛は堅固で、背後は関川、前面は青田川をもって防衛線としました。石垣をまったく用いず、堀と土塁だけで城の防備を固めているのも近世平城としては珍しい例となっています。天守も造らず、本丸西南隅の三層櫓が高田城のシンボルでした。

現在、城跡には本丸跡を囲む二重にめぐらされた堀が、ほぼ原形をとどめて残り、県の指定史跡になっています。また、16万7000平方メートルの外堀に咲き誇る蓮の美しさは東洋一と称えられています。平成5年に、シンボルの三層櫓が再建されました。


天下普請による屈指の名城名古屋城
愛知県名古屋市中区本丸1番1号
築城者: 徳川家康
遺構: 各曲輪、櫓門、石垣、堀など

慶長12年(1607)、徳川家康は第9子の義直を尾張62万石の国主に封じて、清洲城に入れました。しかし、規模が小さすぎ、同14年に名古屋の旧柳の丸城跡に新城を計画します。

同年2月、普請奉行に佐久間政夷作事奉行は小堀遠州、大工頭を中井正清とし、加藤清正・福島正則・毛利秀就・細川忠興・黒田長政・池田輝政ら西南諸大名19家に助役を命じて工事を開始、天下普請として同19年に完成したものです。工事に動員された人数は20万人といわれています。

関ケ原の合戦後、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の大名になったとはいえ、まだ大坂城に健在でいます。豊臣氏に心を寄せる大名武士も多いので、徳川幕府としても、大坂に対する押さえとして、堅固な名古屋城を早急に築く必要がありました。

しかし、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家はあっけなく滅亡、翌年正月に義直は清洲から名古屋に移りました。江戸時代を通じての城主は御三家筆頭尾張家として17代が続いています。

昭和20年の米軍の大空襲で灰塵に帰してしまいましたが、天守台跡には外観が復元された天守が再建されています。

本丸を中心に、二の丸・西の丸・御深井丸・三の丸を配した輪郭式縄張となっています。現在は、東南・西北・西南の隅櫓3つと、表二の門・石垣・堀が現存しています。建物は、いずれも重要文化財に指定されました。御深井丸にある西北隅櫓は、清洲城の土櫓の移設といわれています。

なお深井とは、沼のことです。元は沼地であったところを埋め立てて曲輪としたので、この名が付いたのです。昭和20年の空襲で、天守・小天守・御殿・東北隅櫓と東一、同二の門・表一の門・不明門を焼失してしまいました。しかし同34年、6億円の公費で大天守・小天守・正門・金轆が旧形どおりに再建されています。

天守は、本丸の北西隅寄りに建てられていて、小天守と渡廊下で結ばれた連結式天守です。大天守は五層六階で、地上の高さは45メートルあります。この天守は武備に優れており、隠狭間・隠石落に特徴が見えます。大天守と小天守をつなぐ橋台の西側軒先には、忍返の槍の穂先が付けられています。剣塀と呼ばれるものです。

また、本丸石垣には、多数の刻印、符号が付けられているのもおもしろい特徴です。分担した助役大名のお家の記しだろうと思います。名古屋城で一番見たいものは、有名な金の嫉鉾でしょう。

しかし、全部が金の固まりなのではなく、木で作った心木に鉛・銅板を張り、その表面を金で覆っているのです。創建当時はなくて、後に造られました。享保11年(1726)、文政10年(1827)、弘化3年(1846)の3回、金が鋳直されました。

享保11年怪盗柿木金助が凧にのって天守へのぼり鱸の鱗を盗んだという話は芝居などで有名ですが、正式な記録にはありません。

また二の丸は、歴代城主の居住していた場所ですが、その庭園「二の丸庭園」は国の名勝に指定されているので、ぜひ足を運んでみたいものです。

しかし、かつての庭の東半分は、明治6年(1873)に兵舎を建てるために破壊されてしまいました。現在残されている庭園部分に「那古」と刻まれた石があります。これは那古野城趾の碑、すなわち織田信長が誕生した城がここにあったということです。


徳川家康誕生の城岡崎城
愛知県岡崎市康生町561
築城者: 田中吉政
遺構: 石垣堀

岡崎城は、康正元年(1455)三河の守護職仁木氏の守護代西郷稠頼が築いたものといわれています。戦国時代の大永4年(1524)松平清康に攻略され、以来松平氏の根拠地となりました。

天文11年(1542)、この城で松平広忠に嫡子が誕生しました。後の徳川家康です。城は一時駿河今川方となりましたが、永禄3年(1560)今川義元が死して後、徳川家康が入城しました。それから11年間、家康は居城とします。

天正18年(1590)田中吉政が入封、近世城郭としての修築を始めました。沼を埋めて町造りをし、総堀も設けます。矢作川と菅生川の合流する台地に本丸が、北に持仏堂曲輪・二の丸・北曲輪・稗田曲輪、西に白山曲輪、東に束丸・三の丸・備前曲輪・浄瑠璃曲輪が配置された連郭式縄張です。

元和3年(1617)ごろ三層の天守が建造され、幕末まで存続していましたが、明治になって取り壊されました。昭和34年に古写真を参考に三層の天守と井戸櫓・附櫓が復元されています。
しかし内部は資料館です。

岡崎城のある一帯を岡崎公園といい、多くの見どころがあります。「三河武士の館家康館」では、家康の一生がわかりやすく展示されています。五万石藤、船着き場跡、そして本多忠勝の銅像とともに若き日の家康像もあります。また家康の胞衣塚、産湯の井戸も残されています。


古式の国宝天守犬山城
愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
築城者: 織田信康
遺構: 天守、石垣

犬山城の築城者と築城年代には、諸説あります。一般には、戦国時代の天文6年(1537)に織田信長の叔父信康が、木曾川南岸の三光寺山(三狐尾寺山)に築いた平山城に始まるとされています。

現在の天守の位置には、針鋼神社が祀られていましたが、これを移してこの跡地に築城しました。江戸時代に入ると、尾張名古屋藩付蕊成瀬氏の城となり、幕末まで続いています。

木曾川の南岸、標高80メートルの丘陵を本丸として、二の丸・三の丸を配置した梯郭式縄張によるものです。現在は、本丸・二の丸の石垣と天守力覗存していますが、天守の梁は木組みで、急傾斜の段梯子などに旧状をとどめています。

昭和36年に行われた修理工事報告書によると、まず天守の1、2階の大入母屋を付けた部分力創建され、次に3、4階の望楼部分力轄築されました。さらに南北面に唐破風を付け、4階の勾欄が周囲を巡るように改められ、現在のような姿となったといいます。

この天守の特徴は、わが国に現存する12の天守のなかでもっとも古いということです。個人の成瀬家所有で、国宝に指定されています。城を、木曾川の対岸の鵜沼あたりから見たり、犬山大橋あたりから見ると、夕暮れの城のシルエットなど情感的なシーンに出会えます。


山内一豊の名城掛川城
静岡県掛川市掛川138-2
築城者 山内一豊
遺構:二の丸御殿、太鼓櫓、石垣

掛川城は、戦国時代の永正10年(1513)に駿河の今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築かせた城に始まります。安土桃山時代の天正18年(1590)には山内一豊が入り、近世城郭として整備しました。

本丸・二の丸・三の丸などの諸曲輪を内堀・中堀の内側に配置しています。さらに町の中央を東西に貫いて流れる逆川を境に、城下町を川の南側に割りつけ、北側には武家屋敷や小者部屋などを配しました。

武家と町屋を完全に区割りして規制したのです。さらに城とこの城下町全体を、外堀で囲む総構えを完成させています。慶長元年(1596)には、本丸の北側に天守を造営しました。

江戸時代を通して、徳川言割上11家26人の大名が城主となっています。安政元年(1854)の大地震で天守など大半が損壊し、明治維新を迎え廃城となりました。
江戸時代末期のものとして、二の丸御殿が現存しており、平成6年にはすべて木造という三層四階の天守が復興再建されています。費用は22億円かかったといいます。

天守入り口近くには注目に値すべき、「霧吹き井戸」があります。言い伝えによれば、昔敵が攻めてきて城を包囲した時に、この井戸から霧が立ちこめて、あたりを閉ざし、敵が近づくことができなくて退却したといいます。



東海の名城駿府城
静岡県静岡市駿府公園
築城者: 徳川家康
遺構: 石垣、堀

駿河の国府、駿府に今川氏が営んだ館を前身として建てられたのが駿府城といわれています。

慶長10年(1605)、徳川家康の隠居城となった時から大改修され、城の全貌が大きく変わりました。同12年に完成しますが、本丸が不審火で焼失、翌年また突貫工事を行い、再度完成させます。

このように急いだのは、当時の政治情勢とかかわりがあります。家康は、将軍職を秀忠に譲りましたが、当時大坂の豊臣秀頼対策のために、駿府に隠居城という名の総司令部を設けたようなのです。

この時の城は、五層七階の天守が金色に輝き、御殿も贄を尽くして、華麗を極めていたといいます。本丸や二の丸、三の丸が同心円状に配置され、ほぼ正方形の堀が三重に取り囲み、くまなく石垣で囲まれていました。

現在は城内は駿府公園として開放され、県庁や中央図書館、小中学校などの公共施設が建っています。本丸跡には、徳川家康の薦狩り姿の銅像もあります。平成元年に二の丸の巽櫓が、平成8年に東御門が復元されました。

家康の死後、城主は家康の十男・頼宣、二代将軍秀忠の三男・忠長と代わりましたが、天領となってからは駿府城代が置かれ、幕末を迎えました。


代々の城主は譜代・親藩大名浜松城
静岡県浜松市元城町100-2
築城者: 徳川家康
遺構: 天守曲輪、石垣

戦国時代の元亀元年(1570)、徳川家康は三方ケ原台地東南の地にある曳馬城跡を中心として、浜松城を築城しました。

典型的な平山城として、西北の高所に天守曲輪、その東側に本丸・二の丸を配し、東南に三の丸がありました。天守曲輪は広大なものではありませんでしたが、不等辺四角形の天守台が置かれていました。

元亀3年家康は武田軍の誘い出しに乗り三方ヶ原に出陣しましたが大敗。命からがら逃げ込んだのがこの浜松城です。しかし、武田軍がこの城を攻撃しなかったことをみると、城は当時から堅固な造りになっていたようです。

家康は、浜松城を本拠として領土を拡大、織田信長に従って各地で戦うとともに、城の修築を数回行い、城下町の整備にも努めました。徳川幕府における幕藩体制確立後は、城主の交替も激しく、徳川譜代大名で占められます。浜松城主から幕閻の要職に就く者が多く、「出世城」とまで呼ばれていました。

浜松城の石垣は、見るからに荒々しそうで、一見崩れやすそうに見えます。これは「野面積み」という積み方で、戦国時代の石垣の積み方です。粗削りの自然石を組み合わせて、乱積みにしたものです。石の表面には隙間が見えますが、奥は深くて堅固です。特に天守台と天守門付近の石垣が大きくて立派に見えます。
天守曲輪にある巨大な天守台に、昭和33年になって三層の天守が建てられました。

軍師山本勘助の縄張高遠城
長野県上伊那郡高遠町大字高遠町城跡
築城者:武田晴信(信玄)
遺構: 土塁、堀、石垣の一部

高遠城の創築については諸説あり、はっきりしません。この城は、諏訪氏の一族である高遠氏の居城だったのですが、時代が下り、天文14年(1545)、甲斐の武田晴信(信玄)が高遠城を攻略略して奪い、同16年に現在の城跡に大規模な築城工事を起こしました。

そして天正10年(1582)、織田信長軍と武田勝頼軍の攻防戦の中で、武田軍側の城主仁科盛信以下全員が壮烈な戦死を遂げています。

城は、三峰川と藤沢川の合流点に位置する平山城でした。三峰川の断崖上に本丸を構築、その南に南曲輪・法どう院曲輪を、西には勘助曲輪を、北に二の丸・三の丸を配置します。二の丸には馬場・武具蔵・米蔵・御厩・二の丸門・不明門があり、三の丸には搦手門・大手門・侍屋敷などがありました。

現在、城跡には本丸跡・空堀・本丸石垣・大手門石垣、明治時代に再建された太鼓櫓・城門、本丸虎口の空堀に架かる橋、そして藩校「進癖目」が残されています。また、明治8年(1875)から植えられた桜が1500本以上になりました。高遠城の桜は全国的にも有名で、季節には多くの見物客が訪れます。

城跡の東側には、復元された「絵島囲屋敷」があります。絵島とは、江戸山村座の役者との密通の罪で正徳4年(1714)にこの地に流され寂しい半生を送った、江戸城大奥の大年寄です。役は大年寄ですが、当時彼女は33歳、墓が城下の蓮華寺にあります。この絵島事件は明治になって歌舞伎に脚色されました。


徳川軍を阻んだ真田氏の名城上田城
長野県上田市二の丸
築城者: 真田昌幸
遺橋: 櫓、石垣、土塁、堀

上田城は、天正10年(1582)ごろに築城に着手し、翌年にはほぼ完成していたと考えられています。同13年には徳川軍7000に攻められましたが、これを2000の兵で迎え撃ち、城主真田昌幸による縦横の戦略で徳川軍を壊滅させました。15年後の関ケ原合戦に際しても、3万8000の徳川秀忠軍を食い止め、合戦に間に合わなくしたことは有名です。

城地は千曲川の段丘を利用しており、本丸は千曲川畔の崖上に構えられ、二の丸・三の丸が設けられました。ただ現存の上田城は真田氏以後に拡張されたもので、徳川軍を迎え撃った場所は、西側に遺構をとどめる尼ケ崎城であったともいいます。

現在は櫓が3基と、石垣・士塁・堀、そして本丸跡に、背後の太郎山まで続くとされる抜け穴の入り口ではないかといわれる井戸が残されています。平成6年に北櫓と南櫓の間に櫓門が復元されました。周囲の緑と調和して落ち着いた雰囲気を漂わせ、市の新しいシンボルになりつつあるようです。

二の丸には市立博物館があり、上田藩に関する資料や城主であった仙石氏・松平氏の資料が展示されています。また城の東側には、真田幸村の活躍を描いた小説家・池波正太郎にちなむ文学館もあります。城の北側にあたる柳町には、江戸時代の町並みも残されていて絶好の歴史の散歩道といえます。


連結複合天守の好バランス松本城
長野県松本市丸の内4番1号
築城者:石川康長
遺構:天守、小天守、櫓、石垣

松本城は、戦国時代の永正元年(1504)に、小笠原一族の島立貞永が築いた深志城に始まります。当時はまだ小規模なものでした。天文19年(1550)には、甲斐の武田信玄に攻められて落城、以後32年間、武田氏の信濃での拠点となります。

天正10年(1582)に武田氏が滅び、小笠原氏が復帰しました。そして城を大改修して松本城と改称します。本丸・二の丸・三の丸を設けて、堀と塁をめぐらし、5ケ所の虎口が置かれました。

同18年石川数正が入り、近世城郭の建設と本格的な城下町造りに着手します。数正の子康長の時代にようやく城郭の規模が整いました。五層六階の大天宗乾小天守、渡櫓はこの時に築造されたものです。
松本城の最大の見どころである天守は、数正の独創によって築造されたものだといいます。

辰巳附櫓と月見櫓は、寛永年間(1624~43)に、時の城主松平直政が築造して付け加えたものなのです。天守は国宝に指定されていて、下見板が黒いところから、「烏城」とも呼ばれています。

昭和35年には黒門桝形一の門を復元、平成2年には同桝形二の門と袖塀が復元されました。さらに松本城には武田氏の時代のものと考えられる馬出が残っています。
また天守前は堀の幅が広いので、今もひとまとまりになった大天守・小天守・月見櫓の天守群が静かなたたずまいを水に映しています。


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