日本の城の特徴と歴史をまとめた一覧表│中国・四国の城

中国・四国の城一覧表

黒塗りの天守で知られる岡山城
岡山県岡山市丸の内2丁目3番1号
築城者:宇喜多秀家
遺構:櫓、石垣、堀

安土桃山時代の元亀元年(1570)、宇喜多直家は備前平野を流れる旭川沿いにある石山城の金光宗高を滅ぼし、天正元年(1573)ごろ、大きく改修して新城を築きました。

直家の子秀家は、豐臣秀吉に厚遇され、備前・美作・備中で50万石を与えられます。大大名となった秀家は、父の城を南側に取り込み、東の岡山に新しい本丸を築きました。旭川の流れを北側から東側に変え、天守や櫓・門なども整備します。しかし関ケ原合戦で除封となり、代わって小早川秀秋が入りました。

秀秋急死後は池田氏が入封、同氏が12代続いて明治維新を迎えました。
旭川沿岸の標高22メートルの小丘を本丸とし、西方に二の丸・西の丸・三の丸を構えた梯郭式縄張です。城郭全体が扇形をしていました。

月見櫓・西の丸西手櫓・石垣・堀が現存しています。現在の天守は、昭和41年に再建されたものですが、昭和20年春に空襲で焼失した五層六階の複合式天守を復元したものです。天守初層の平面が、不等辺五角形という珍しい構造となっています。天守の下見板が黒塗りのため、姫路城の白鷺と対照させて「烏城」とも呼ばれました。
また名勝「後楽園」は、わが国三大名園の一つです。池田綱政が貞享3年(1686)に津田永忠に命じて造らせたといわれています。


完成期の近世城郭形式を残す津山城
岡山県津山市山下
築城者: 森忠政
遺構石垣、天守台

慶長8年(1603)、信濃国川中島城主・森忠政は美作国に封ぜられて入国しました。はじめ院庄に築城を計画して工事に取りかかります。ある日、重臣井戸宇右衛門が普請の監督している現場に、忠政の内室の弟である名古屋山三が来合わせました。

この2人は以前から仲が悪かったのですが、ここで突然口論から決闘となり、2人とも傷ついて死んでしまいます。そんな事件もあり、院庄よりは鶴山の方が国の中央にあるとも思われ、政治経済など諸般に適地であると考え直した忠政は、鶴山の山名氏旧塁跡に築城を始めました。起工から13年、元和2年(1616)に完成します。

本丸を中心とした平山城で、二の丸・三の丸や馬場を輪郭内に定め、麓に広く総曲輪を配しました。本丸は約1万1537平方メートル。建物が31棟、門が15棟、城主の居館や表御殿があります。本丸内の西部を区切って天守曲輪とし、明治初年ごろまでは台上に4層5階の天守がそびえていました。

明治33年(1900)、城跡は津山町有となり、鶴山公園として公開され、市民の憩いの場として今日にいたっています。昭和38年に史跡に指定されました。

今も城跡は、石垣の見事さとともに、園内5000本の桜ソメイヨシノをはじめ、四季折り折りの風光はすばらしく、名勝として広く知られています。桜の季節になりますと、小高い城跡全体が淡いピンク色に包まれ、多くの市民で賑わいます。


最高所の山城備中松山城
岡山県高梁市内山下1番地
築城者:水谷勝宗
遺構:天守、櫓、石垣、土塀

承久3年(1221)における承久の乱の戦功により、備中国有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭重信は、仁治元年(1240)に高梁川沿いの臥牛山(大松山)に城を築きました。臥牛山とは、大松山・天神丸・小松山・前山4丘陵の総称です。元弘元年(1331)、備中守護高橋宗康が、現在地の小松山に移築、名を松山と改めました。

戦国時代には、毛利・尼子氏らの勢力抗争の拠点となり、室町時代最後の城主となった三村家親は、天正3年(1575)毛利氏に攻められて自刃しています。

関ケ原合戦後は、小堀正次・政一親子が入封しました。政一とは、茶人で築城家、庭園造りの名人遠州のことです。江戸時代は池田・水谷・安藤・石川・板倉各氏が城主となりました。忠臣蔵で有名な、赤穂藩城代大石良雄が2年間、城代として在城したこともあります。通常城主は、山麓の居館に住んだようです。

現在山上の天守と二つの櫓は、国の重要文化財に指定されています。天守は明治維新後も破却を免れ、昭和15年に解体修理が行われています。構造は二層の本瓦葺の入母屋造、東南側には唐破風出格子窓があり、小さいながらも威厳があります。

山城のため、麓から歩くしかありませんが、山頂への道に石垣が残っています。歩いていると突然石垣が出現するので、びっくりします。


毛利氏黄金時代の名城広島城
広島県広島市中区基町
築城者: 毛利輝元
遺構: 本丸、二の丸、石垣、堀

広島城は、豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた典型的な平城です。

毛利氏は、南北朝時代から郡山城(高田郡吉田町)を居城とする一領主でしたが、輝元の祖父元就の代になって中国地方の大部分を支配する戦国大名になりました。その後を継いだ輝元は、中国地方9ケ国にわたる領地を統治するため、天正17年(1589)、当時五箇村と呼ばれていた太田川のデルタに築城を開始し、同19年に入城しました。本丸・二の丸からなる城は秀吉の聚楽第をモデルとしていたということです。

輝元は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後長門萩に移され、福島正則が安芸・備後両国の領主として入城しました。しかし正則は、元和5年(1619)に洪水で破損した城を幕府に無断で修築したという理由で信濃国川中島に転封、代わって紀伊から浅野長晟が入城し、以後明治維新までのおよそ250年間、12代にわたって広島城主を務めています。

明治4年(1871)の廃藩置県以後、徐々に軍施設が設けられ、明治27~28年の日清戦争の際には大本営が置かれました。そして昭和20年8月15日、原子爆弾により天守をはじめ、城内の建物すべてが壊滅します。

現在の天守は昭和33年に復元されたもので、二層に二連、三層に一連の千鳥破風を持ち、下見板張の外観です。内部は武家文化を中心とした歴史資料館になっています。

また平成3年には表御門と御門橋が、同6年には平櫓・太鼓櫓・多聞櫓が復元されています。


海陸路の要衝の地に建つ福山城
広島県福山市丸之内1丁目8番
築城者: 水野勝成
遺構:櫓、門、本丸・二の丸の石垣、鐘楼

福山城は、江戸時代初期の元和8年(1622)、水野勝成が備後平野を流れる芦田川沿いの常興寺山に築いた城です。勝成は、徳川家康から備後・備中両国を与えられて入国し、新城建設の候補地として桜山・蓑島・常興寺山の3案のうち、常興寺山に築城することに決しました。

築城に際して、伏見城の筋鉄御門・御湯殿・松之丸御殿・火打櫓・月見櫓・追手御門・能舞台・多聞のほか、3基の橋などが移築されています。

城地の最高所に本丸を置き、北隅に五層五階地下一階で二層三階の附櫓と多聞櫓を持つ複合式天守を設けました。初層と二層は比翼入母屋造で、ほかの層には千鳥破風や唐破風が付いています。最上階は高欄付きの縁を巡らし、物見の段と呼ばれます。南側に伏見御殿、西南隅に伏見櫓本丸の入口に筋鉄御門を配置しました。

現存する伏見櫓筋鉄御門は重要文化財に指定されており、再建されたものに天守・御湯殿・月見櫓・鐘楼などがあります。天守は昭和41年に再建されたものです。

なお、天守内部は博物館になっています。天守前の城内広場は、かつて藩主の起居する伏見御殿でしたが、今は市民の憩いの場として開放されています。春には桜の花見、夏には盆踊りが行われ、秋には菊花展が催されます。


関ヶ原の遺恨を秘めた萩城
山口県萩市大字堀内
築城者: 毛利輝元
遣構:天守台、大内堀・外堀、石垣

慶長5年(1600)の関ケ原合戦に敗れ減封された毛利輝元は、安芸広島から長門萩に移封されます。萩指月山に新城を築くことになりましたが、その地は湿地帯だったので、まず埋立て作業から始まったといいます。同9年に着手し、同12年に完成しました。

城は指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸・二の丸・三の丸・詰丸からなっていました。本丸は指月山麓に、東西約200メートル、南北約145メートルの規模があります。

高さ14.5メートルの五層の天守を持ち、藩主の邸宅や役所、櫓が5ケ所もありました。二の丸は東西約278メートル、南北約106メートルで、櫓13ケ所があり、この内部一帯を「お城内」と呼んでいます。

三の丸は二の丸の外側にあり、外堀で城下町と区別されます。東西は約981メートル、南北665メートルで、御蔵元などの役所や重臣の屋敷が置かれていました。堀内と呼ばれ、総門が3ケ所ありました。

城の東側一帯は萩の城下町です。江戸時代に建てられた白壁や土塀に包まれた町並みが、そのまま残されている場所があります。江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁などです。

関ヶ原合戦の遺恨を引き継ぎ260年余り、藩府が山口に移されるまで、萩城は毛利氏の牙城であり続けました。


久松山の山城と麓の城から成る鳥取城
鳥取県鳥取市東町、栗谷町、百谷町、円護寺町
築城者:山名誠通、池田長吉
遣構: 天守台、石垣、堀

鳥取城は天文14年(1545)、因幡山名氏14代誠通が、天神山城の出城として久松山山頂に構築したのが始まりといわれています。山名氏17代豊国の時代、はじめは毛利方でしたが、羽柴秀吉の因幡攻めが始まると、豊国は秀吉に下ってしまいました。これに不服だった家老たちは、豊国を城から追い、毛利方へ城主の派遣を求めます。すると毛利方は吉川経家を送ってきました。

秀吉の鳥取攻めが開始されたのは、天正9年(1581)のことです。城の周囲に厳重な包囲網を敷き兵糧攻めをします。4ケ月後、飢餓状態の下で経家は切腹、部下の助命を願いました。

江戸時代に入って時の城主池田長吉は、山上の住居が不便なため、中腹に二の丸を築いて城地を広げ、外堀を拡張します。明治時代に建造物はすべて壊されましたが、山上に天守台・車井戸跡、西麓に二の丸・天球丸・馬場跡の石塁や石垣などが残っており、昔を偲ばせてくれます。

その遺構は、戦国騒乱期の山城から近世の平山城・平城への移行過程を示すものとして学術的にも貴重とされ、東方の、秀吉が鳥取城攻めの時に陣を構えたという太閤ケ平を含めて、国の史跡に指定されました。現在城跡は久松公園となり、県立博物館などもあって、市民の憩いの場として親しまれています。


霊亀山山頂の豪壮な石垣津和野城
島根県鹿足郡津和野町大字後田ほか
築城者: 坂崎成正
遺構: 石垣、櫓

三本松城、あるいは蕗城といい、津和野盆地の西、標高367メートルの城山山頂一帯に築かれた山城です。

弘安の役(1281)の勲功により、西石見守護職に任じられた吉見頼行が、永仁3年(1295)に築城に着手、30年の歳月を費やして、二代頼直の代の正中元年(1324)に完成しました。

慶長5年(1600)の関ケ原合戦に吉見氏は西軍に味方したため敗れて長門へ移り、後に浮田直盛が入封します。直盛は名を坂崎成正と改め、城の改築を始めました。北側に出丸を築くなどして、石垣を用いた堅固な山城に改造しました。

天守もこの時設けられましたが、貞享3年(1686)の落雷で焼失、その後は再建されていません。成正は千姫事件により元和2年(1616)に切腹を命じられ、堀崎家は断絶、翌年亀井政矩が入封してきます。

城地は山頂にあり、津和野川が西麓南麓、東麓と回って山麓を洗い、天然の内堀を形成していました。城下町は東麓の一帯に配置され、出雲・石見と周防・長門を結ぶ山陰道が通っています。川と山の間の余地が居住地区にあてられ、川の屈曲により北部に町屋、南部に侍屋敷が造られていました。

緑に囲まれた城域見どころは山頂の豪快な石垣ですが、堀割のある城下町も独特のたたずまいで、撮影の好ポイントです。



実戦への備え松江城
島根県松江市殿町
築城者: 堀尾吉晴
遣構: 天守、櫓、土塁、堀

松江城は、江戸時代初期の慶長16年(1611)に堀尾吉晴によって、宍道湖に臨む亀田山に築かれたものです。
慶長5年の関ヶ原合戦で徳川家康に従った吉晴は、戦後出雲・隠岐二国を与えられ、月山富田城に入りました。時代はすでに山城の使命を終わらせており、平地に新城の建設を計画します。

しかし、吉晴はもう老齢に達していたので、家督は嫡子忠氏に譲りました。ところが、同9年に忠氏が若死にしてしまい、やむなく孫の忠晴に家督を継がせます。同12年から築城に着手、5年かかってやっと完成させました。

城は、山の高所に本丸を置き、南へ順に低くなって二の丸・三の丸が築かれています。本丸周囲の東・西・北面には腰曲輪・帯曲輪を巡らせました。

本丸の東北部に建てられた天守は、5層6階で、南側正面中央に附櫓があります。大入母屋屋根の上に望楼を載せた古い形式で、桃山時代初期の木造化粧造、松本城や丸岡城などにも見られる黒の下見板張の外観が特徴です。昭和10年に重要文化財に指定されています。

松江の城下町は水と橋の町です。見どころとして、格子造りの武家屋敷、藩主菩提寺の月照寺、茶室明々庵、小泉八雲の旧居、同記念館などがあります。


日本一の高石垣を誇る丸亀城
香川県丸亀市一番町
築城者:生駒親正
遺橋: 天守、門、石垣、堀

丸亀城は、安土桃山時代の慶長2年(1597)に生駒親正が丸亀平野の亀山に築いた城です。
豊臣秀吉に信任された親正は、天正15年(1587)に讃岐国高松を与えられて入国し、高松城を居城としていました。

しかし、老齢に達したので、東讃岐を隠居領にあて、西讃岐を嫡男の一正に譲り、丸亀城を建てて城主としたのです。慶長5年に関ケ原合戦が起こりましたが、親正は西軍の石田三成方、一正は東軍の徳川家康方と、父子が東西に分かれてしまいました。

戦後、勝者の一正は讃岐一国を与えられて高松城を居城とします。丸亀には城番が置かれましたが、元和元年(1615)の「一国一城令」で廃城となりました。寛永18年(1641)に入国した山崎氏によって修復され城として復活します。
その後、城主は京極氏となり、明治維新まで続きました。

丸亀城は、平野に独立した66メートルの小山を利用した平山城で、山頂部に本丸を置き、階段状に二の丸・三の丸を配し、これらすべてを石垣で囲うという堅固なものです。内堀から4段階に積み上げられた石垣は、通算するとわが国で一番高い石垣であるといわれています。


堀に海水をたたえた水城高松城
香川県高松市玉藻町2番1号
築城者:生駒親正
遺構:櫓、門、石垣、堀

高松城は、天正15年(1587)讃岐に封じられた生駒親正が、黒田孝高(如水)の縄張で築城し、同18年に完成させた水城です。堀割は海につながり、水門を設けてつねに水面が一定に保てるようになっていました。その姿は「讃州さぬきの高松さまの、城が見えます波の上」という俗謡に残されています。

寛永19年(1642)からは徳川光国の甥にあたる松平頼重が入封しました。高松城はこの時に大規模な改修工事が行われ、天守が建てられました。3層5階の天守は、その最上部が平面的に張り出す「南蛮造」の様式を持つめずらしいものでした。これは明治17年(1884)に破却されています。

さらに、北の丸・東の丸といった海側の曲輪が補強されて、特に北の丸新曲輪へは、月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓などを増設し、海防面を強化しています。そして屋島の東にあたる庵治に水車を備え、軍港としての機能も与えました。

高松藩松平氏は、明治元年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に参陣し朝敵となりましたが、その後官軍に恭順しました。現在は玉藻公園として、月見櫓・艮櫓などの建造物と石垣・堀の一部が残されていますが、ほかに二つの築山を中心とする枯山水庭園、旧藩主の住居である披雲閣、そして高松城に関する資料を展示している陳列館があります。



巧妙な天守曲輪が特徴 伊予松山城
愛媛県松山市丸之内1
築城者: 加藤嘉明
遺構: 天守、櫓、石垣

松山城を創設者したのは加藤嘉明です。慶長8年(1603)に道後平野の中枢部にある、標高132メートルの勝山に城郭を築き、松山という名が公にされました。その後も工事は続けられて、24年後の寛永4年(1627)になってようやく完成しています。当時の天守は5層で、偉観を誇りました。

寛永19年、天守は3層に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失してしまいます。文政3年(1820)から再建工事に着手、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興がなりました。これが現在の天守です。

その後昭和に入り、小天守やそのほかの櫓が放火や戦災で焼失しましたが、昭和41年から全国にも類を見ない木造による櫓や門の復元工事が進み、二の丸庭園も復元されました。

現在は天守・乾櫓・紫竹門・一の門と同南櫓・隠門・戸無門など21棟が重要文化財に指定されています。

天守は、大天守と小天守三つを渡櫓で結んだ連立式で、天守としては美しい形態です。大天守は頭が大きく、城郭建築としては不均衡ですが、武骨さがあって独特の外形を示しています。

屋根にそりがなく、窓が大きいことも特徴の一つでしょう。また天守からの眺望は、すばらしいの一語に尽きます。また二の丸は美しい扇勾配の石垣となっています。



不等辺五角形の縄張宇和島城
愛媛県宇和島市丸之内1丁目
築城者: 藤堂高虎
遺構: 天守、門、石垣

宇和島城は、宇和島市街中央にある標高約80メートルの城山にあります。白壁の総塗籠造り、独立式、本瓦葺、3層3階の天守です。規模は比較的小さいのですが、全体的に美しい均衡を保ち、荘重で江戸時代天守の典型的なものとして、昭和9年国宝に指定されました。

しかし同25年の文化財保護法の制定により、重要文化財と変更、苔むした石垣に昔を偲ぶ城跡全体も、国の史跡に指定されています。

現在地に初めて天守が建造されたのは、慶長6年(1601)ごろ、藤堂高虎によるといわれています。慶長元年に築城工事が始まり、堀と石垣を築き、大小の櫓を建てて厳然たる城郭を造り上げました。同19年に奥州仙台の藩主伊達政宗の長子秀宗が封ぜられ、以後伊達氏歴代の居城となっています。

天守には、1層目に大きな唐破風の玄関があります。このような大きな玄関は天下太平時代の特色の一つです。各層の屋根には比翼の千鳥、唐破風、大千鳥などを交互に組み合わせ、整った外容となっています。天守建築としてはもっとも完成された姿であって、わが国の城郭天守の典型ともいえましょう。

天守への道が通じる城山は、周囲1249メートルの独立した山です。築城以来斧が入っていないという自然は、深山に分け入った景感を十分味わうことができます。

数多くの築城に関わり、名手と名高い藤堂高虎。その名人が、自身の居城として手がけた初期の作品で、鎌倉時代からあった城を築き直したのが宇和島城だ。

この城は、築城名手のルーツを辿って見学すると面白い。まずは高虎の作の特徴のひとつ、高い石垣。これは宇和島城から始まったもので、自然石をそのまま積んだ素朴ながら力強い石垣が、やがて圧巻の大阪城石垣へと繋がっていったのだ。

次に外周の形状。高虎の城はシンプルな四角の外形が基本だが、この城の外周は直線の堀で三角形。これは敵に布陣を誤らせるトリックでは? とも言われるが、その後、高虎が手がけた城に五角の外形が見られないことからより効率的に城を築いた結果と考えられている。ちなみに、城を中心に広がった字和島市街は今も五角形を成している。
 

藤堂高虎の海城今治城
愛媛県今治市通町3-1-3
築城者: 藤堂高虎
遺構: 石垣、堀

関ヶ原合戦で戦功のあった伊予宇和島8万石の藤堂高虎は、伊予国府12万石の加増を受け、これまでの居城であった宇和島から、国府に移ることになりましたが、国府城は手狭なので新城を設けることにします。その地を今治としました。

当時の今治は瀬戸内海の交通の要衝の地であり、水車を率いる高虎にとって、城地選定に海を配慮したことも当然といえます。

この城の堀は、内堀、中堀、外堀と三重に巡らされ、すべて水堀で、瀬戸内海の海水が引き入れられ、巨大な海城としての性格がかなり強いものでした。慶長13年(1608)ごろには御殿や櫓もそろい、宇和島から入城します。しかし同年、高虎は突然伊勢・伊賀へ転封となり、養子高吉が在城しましたが、寛永12年(1635)から松平氏が入り、明治維新まで続きました。

昭和54年に5層6階の天守や櫓門、多聞櫓、武具櫓、土塀などが復元されています。

天守は鉄筋コンクリート造り瓦葺きで、最上階が展望台、以下は歴史資料などの展示室になっています。櫓門は木造二階建て瓦葺き、地場産業の展示室となっています。多聞櫓は鉄筋造り一部木造の平屋建て瓦葺きで、今治地方の自然科学資料などの展示室です。武具櫓は木造二階建て瓦葺きで、内部は茶室です。
瀬戸内を望む白亜の大天守は、澄み切った空に雄大な姿を示しています。


縄張、櫓の配置にすぐれた大洲城
愛媛県大洲市大洲903番地
築城者: 脇坂安治
遺構: 櫓、石垣

大洲城は、鎌倉時代初期、河野通信が砦を構えたのが始まりといいます。本格的な築城がなされたのは、元徳3年(元弘元年・1331)伊予国守護職に任ぜられた宇都宮豊房が大津(大洲の旧称)を本拠としてからのことです。宇都宮氏は代々大津に居住しましたが、八代豊綱の時、道後湯築の河野氏と戦って敗れ、滅びました。

その後、さまざまな城主に代わりますが、藤堂脇坂氏の時代に近世山城としての構えが整えられたと思われます。大洲城は、肱川が大きく北へ曲がる西岸一帯が城地で、肱川に臨む比高20メートルの地蔵ケ岳を削平して本丸とし、西と南の麓に、小さく区画された二の丸を配しました。

城下町は、水堀を挟んだ東方に所在し、町中には古い蔵屋敷が立ち並んでいます。肱川の流れに沿い、東西に長い町割りがなされました。天守を含めた多くの建物が明治以降に取り壊されましたが、現在城跡は、城山公園となっています。本丸・二の丸跡や、堀・石垣などをよく残しており、県の指定史跡にもなりました。

本丸跡の高欄櫓と台所櫓、肱川河畔の二の丸跡に建つ苧綿櫓、三の丸西の門近くにある南隅櫓が国の重要文化財に指定され、現存しています。公園内には桜が多く、肱川の清流を見下ろす眺めも最高です。大洲の町は、城下町時代の面影をよく残し、「伊予の小京都」とも呼ばれています。


実戦と美観の両薗を意識した高知城
高知県高知市丸ノ内1丁目2-1
築城者:山内一豊
遣構:天守、本丸御殿、櫓、門、土塀、石垣堀

慶長5年(1600)の関ケ原合戦で東軍に従った山内一豊は、土佐一国を与えられて浦戸城を居城としました。しかし、ここは城下町を建設する余裕がないので、大高坂城跡に新城を建設することにします。3年後に本丸・廊下橋・太鼓櫓などが完成し、浦戸城から移りました。

新城の南と北に川が流れていることから、地名は当初、河中山と名付けられましたが、氾濫が相次いだので、高智と改められ、後に高知と変わったのです。江戸時代を通じて城主は山内氏16代が続きました。

享保12年(1727)に、城下町の大火で天守ほか大半の建物力類焼してしまいます。全面的な復旧工事は、宝暦3年(1753)までかかりました。この間、天守は寛延元年(1748)に再建されています。

高さが18.5メートルで3層6階、千鳥破風、唐破風、入母屋破風を取り入れた江戸中期の構築ですが、大入母屋屋根の上に望楼を載せた古い形式です。天守の忍返には特殊な方法が施されており、棟飾りは銅製の鱸で、石垣には横矢掛りの曲折が見られます。

高知城には現在、この天守のほか、本丸御殿・櫓門2棟・多間櫓3棟・廊下橋など多くの建築物が残されています。すべて重要文化財に指定されました。本丸御殿の書院を「懐徳館」と呼び、藩政時代の武具、藩主や維新志士・文人の書画、遺品類などが展示されています。


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